クリスマスのあと、例のごとくほぼ籠もりきりで机に向かうことになった。受験生としては正しい姿ではあるし、実際に何もしていないよりは落ち着くのでひたすら機械的に手を動かしては、答え合わせ、即復習。そんな繰り返しを続けて、確実性を高めていく。


 とはいえ、そうやって自室でずっと同じことを繰り返していると、自然とだれがやってくる。そうなってくると、どうにも身が入らなくなった。だから、伸びをしたり、糖分補給をしたり、コーヒーを飲んだりして、騙し騙しやっていったものの、いまいち集中できなくなっているのがわかっている。間に仮眠を挟んだりしてみたものの、さほど効果はあがらなかった。


「ちょっと散歩してきたら」


 いつの間にか、こちらの状況が伝わっていたらしく、年末の三日ほど前の朝食の席で、母にそんな提案される。個人的にもそろそろ勉強場所を変えようかと考えていただけに、渡りに舟だと思い、図書館でも言ってくるかな、と口にしてから、やってたかどうかに考えはじめたところで、


「勉強しに行くんじゃなくて、普通に散歩してきたらって言ってるの」


 母さんにそう告げられて、呆気にとられる。すぐさま、できることはやっておきたいのだと、訴えてみても、母は首を横に振り、


「前から言ってるけど、神経を張り詰めさせすぎても、逆効果でしょ。だから、一回、全部忘れるみたいにして歩いてくればいいって言ってるの」


 そう諭しながらマーガリンのついたトーストを齧った。俺は目玉焼きを口に運びつつも、まだどことなく抵抗があった。


「今の司郎を甘やかしても、いいことはないだろう。どこであろうと学習させるべきだ」


 出勤前の父のいつも通りの口出し。この件に関しては割と同意だったため、せいぜい場所を変えるくらいにしておこうか、という方に傾きかける。


「いいんじゃない、行けば」


 目玉焼きの脇にあったプチトマトを摘みあげながら、姉ちゃんが口を挟んできた。


「去年の私も、ずっと神経を張りつめさせてたわけじゃないし。要はメリハリでしょ」


 淡々とした声音。それでいて不思議と力強い姉の物言い。


「メリハリをつけるほど、今の司郎が一生懸命になれているとは思えないんだが」


 不満気な父さんの言い方。自然と姉ちゃんの瞳孔が収縮した気がした。


「それは父さんの一生懸命でしょ。なんでもかんでも自分を基準に考えない方がいいんじゃない」


 いたって静かな言い方とともに、ゆったりと父を見上げる姉。


「その自分の基準とやらで受験に臨んだお前はどうなったんだ、梨乃」

「まあまあかな。できれば、県外の大学に行きたかったけど、絶対にってわけでもなかったし、今の大学もけっこう気に入ってるし」

「その割には自分から望んだ下宿生活も中途半端に切りあげてきたみたいじゃないか。実のところ、失敗したと思っているんじゃないのか」

「ちょっと帰省が長くなってるだけだよ。いずれは戻るつもり」

「それいずれは、いつになるつもりなんだ」

「さあ。近々としか言えないかな」


 いつも通りの無表情な姉と苦笑いぎみな父はそんなやりとりをかわしたあと、どちらともなく黙りこむ。姉ちゃんは手元のコーヒーカップに口をつけ、父さんはやや乱暴に新聞紙を拾いあげる。呆気にとられて見守っていると、


「いいから行って来なよ。見える景色が少しは変わるかもしれないよ」


 母さんにダメ押しみたいに促された。家の中の意見は現時点で二対一。こうなると、どちらに味方したところで誰かが嫌な気分になりそうだったし、その上で俺の心の中にもしこりじみたものが残るに違いなかった。そうなれば、より気分が晴れやかになれそうな方に舵を切るべきだと考えはじめ、




 父さんの出勤を見送ってから、三十分程あとに家を出た。肌着、シャツ、トレーナー、セーター、コートと重ねた上に、紺色のマフラーを巻いて臨んだものの、そんな俺の装備をあざ笑うみたいにして外の冷気は体の芯まで刺さってこようとする。


 早く体を温めなくちゃいけない。そう思い、足早に踏み出す。


 マンションの玄関口を出てすぐ、通学路が目に付いた。このままでは学校に行っている時とさほど変わらない気分になってしまうなと思い、進路を逆方向に切る。


 さほど時を置かず、百獣の王の置物が玄関に置かれた高層マンションの横を通りがかった。ここのところ、高校の方ばかり行くことが多かったせいか、通学路とは逆方向の景色はどことなく懐かしく感じられる。


 くたびれた道の先へまっすぐと視線を向ければ、何本もの高速道路が渦を巻いていた。俺や姉ちゃんがここにやってくる前から住んでいた父さんと母さんの話してたところによれば、柱しか立っていなかった時期を見たことがあるとかなんとか。正直、物心がついてからずっと、この車ばかりが走り排ガスを撒き散らす土地で過ごしていただけに、かつては高速道路がなかった、という知識はあっても、どうにも自分の実感と上手い具合に結びつかなかった。それこそ、ある、ということ自体がもはや空気と似たような存在感になってしまっている。


 そうか。俺はこの高速道路がない土地に行こうとしているのか。ふと、そんなことに思い当たった。


 俺が姉ちゃんの大学がある町に行ったのは、引越しの手伝いをした時とあの四月の訪問くらいしかない。それこそ、ちょっと行っただけでどんなところなのかもほとんど知らなかった。俺が見ていないところに高速道路はあるのかもしれないけど、それは今住んでいるところにある高速道路じゃないわけで。


 ホームシック。久々に帰ってきた姉ちゃんが口にした言葉を思い出す。今はまだ実家にいる自分には縁遠いものだと考えていたし、家を出るのも一興だと考えてもいた。けれど、実のところただここにいる自分以外を想像できていないだけなのかもしれなかった。


 今の志望校的に実家から通うというのも選択肢の一つではある。とはいえ、姉ちゃんと同じところに通う以上はそこに入るのが手軽であるし、俺自身も望んでいたはずだ。けれどその実、目標を早く定めてしまった末の思考停止に陥ってしまっているのではないか。


 湧きあがった疑問。思いもしなかったのか、考えないようにしていたのか。自分でもよくわからない。ただ、蓋が開けられた以上は自然と今の先が未知であることの実感が強まる。姉ちゃんのもとに行きたい。ただただ、そこに集約されていた思考に生まれたほころびは小さな恐れに繋がりつつあった。


 こんなことを考えるための散歩ではなかったはずだ。そう思い、振り払おうとするものの、頭にこびりついたものは離れない。


「あれ、水沢君」


 思考に割って入ってきたのは、聞き覚えのある声だった。顔をあげれば、同じクラスの村中がぼんやりとした顔をしてこちらを見上げている。キツ音色のファーのついた白いコートを着た彼女は、スケッチブックを片手に抱いていた。


「やあ、奇遇だね、村中さん」


 いつも通りを心がけて挨拶を口にする。村中は、ああうんこんにちは、ときょとんとした様子で応じた。自然と視線をあげれば、既に先程まで見ていた高速道路のほぼほぼまん前まで来ている。俺はスケッチブックを指差した。


「今日は写生かなにか」

「うん。寒いからちょっときついんだけど」


 薄く笑ってみせるクラスメート。そう言えばこの前赤坂が、村中は早々と志望校に合格していて、あとは卒業を待つのみだとか話していた気がする。


 身勝手な羨望が湧き上がる一方、早めにしっかりと準備を済ませて目的とする行き先を掴んだということでもあるんだろうと尊敬の念が芽生えもした。


「水沢君は」

「ちょっと散歩でね。家も近いし」


 気分をすっきりさせにきたはずなのに、どことなく頭の中がごちゃごちゃしはじめているな。そんなことを思いつつも、平静を装おうとする。村中は意外そうな顔をした。


「そうなんだ。私の家もけっこう近くなんだけど、あんまり会わないよね」


 その言葉は、俺にとっても意外なもので、


「ちなみに家はどのあたり」


 思わず直接尋ねてしまう。不躾だったかなとこちらが頭の中で反省する最中、クラスメートは、この高架下を潜り抜けた先にある駅のあたりだと答えた。


「そっちはあんまり行かないからね」


 村中に、ここからなだらかな坂をまっすぐ行くだけだと、説明しながら、なぜ普段、顔を合わせなかったのか、合点がいく。


 俺の住むマンションの位置からは、ほぼ同距離に二つの駅が存在する。高速道路下を潜り抜けた先にある方と、それとは逆方向の表通り側にあり、高校の通学路に使う方。普段の行きやすさなどもあいまって、高校側にある駅を使うことが多かったため、自然と高速度側の駅に行く機会が少なくなっていたのだろう。


「へぇ、水沢君はそっち側に住んでる人だったんだ。知らなかったよ」


 興味深そうに目を丸くする村中に、こっちも知らなかったよ、と応じながら、もしかしたら知らないだけで、案外に身近に住んでいる知り合いがそれなりにいるのかもしれない、とぼんやりと頭に浮かべたりする。


「ねぇ、水沢君。これから時間はある」


 不意に村中がそんなことを尋ねてきた。正直な心境としては、ない、と言いたかったものの、たぶん、母さんにしても姉ちゃんにしても、散歩に行かせたのはそういう意識から俺を引き離そうとしたんだろうな、と想像できたので、


「なくはないけど、用件によるかな」


 そんな風に答える。実のところこの時点での村中の目的はおおむね掴めていた。


「じゃあ、また、絵のモデルをやってくれないかなって」


 ほら、やっぱり。

 

「どのくらい、かかりそう。あんまり、長くっていうのはちょっとだけ困るかも」


 時期が時期なせいか、あるいは元来からの性根が表に出てきたからか、口調が粗っぽくなっているのを自覚する。しかし、村中はさして気にした様子を見せることなく、


「三十分くらい、ならどうかな。それがダメならその半分でお願いします」


 具体的に指定をしてきた時間は村中さん自身の願望とこちらの都合を組み入れたちょうどいい按配のように思えた。まあ、いいか。


「うん、それくらいだったら」


 どっちみち、早く帰り過ぎたら帰り過ぎたで、母と姉にまた外に出されかねない。であれば、適度に時間を潰してきた方がいいだろう。途端に花のような笑顔を咲いた。


「ありがとうね」


 村中の顔立ちは教室にいる時と同じく、地味なままである。悪い言い方をすれば、華がない。けれど、その素朴さゆえか、今みたいに喜んでいる時の表情はとても映えているように見えた。




 さすがに外では寒いのではということになり、表通りの方へと少し歩いたところにあるファーストフード屋へと足を運んだ。俺はホットコーヒー、村中はホットティーとアップルパイを頼み、比較的がらがらだった窓際の席につく。


 そそくさとアップルパイを一口齧ってすぐ、クラスメートの少女はウェットティッシュで軽く指先を拭ってから、すぐさまスケッチブックと鉛筆をかまえた。


「楽にしてくれてていいよ。むしろ、今日は喋ってくれた方がいいかも」


 そう言って、店の中側を一瞥する。視線の方を追えば、幼い子連れの母親とおぼしき女性たちのキンキンと響く声や冬休みに入って破目をはずしているらしい中高生たちの馬鹿騒ぎの現場などが見てとれた。


「作業中に音楽をかけるのと似たような感じかな」

「水沢君わかるんだ。さすが文芸部」


 いつになく楽しげに応じた村中は、素早く手を動かす。休日登校でモデルになった際も薄々感じてはいたけど、教室の印象とは随分と異なっていた。あの時は最初こそ恥ずかしげにしていたものの、手を動かせば動かすほど活発になっていっているように見えた。


「絵を描いてるときは生き生きとしてるね」

「それはまあね。ただただ、楽しいから」


 何の迷いもなく言い切る村中。その思い切りの良さに少々の羨望をおぼえなくもない。


「水沢君は違うの」

「ミステリーって読むのは面白いけど、考えるのと書くのはけっこう難しいからね」


 もっともこれはミステリーにかぎらず、作るという行為はそれ相応の大変さがあるものだ。現に姉ちゃんをはじめとして、文芸部員の多くも毎回締め切り前になればひーひー言っている。


 直後に村中は小さく眉間に皺を寄せた。


「そこがよくわかんないんだよね」

「なにが、わからないの」


 そう尋ねると、村中は考えているのか、小さく唸っている。その間も休むことなく手は動いていた。


「ええっとね。大変なのって楽しいに繋がらないかな。もちろん、苦手なこととか嫌なことが大変だったりするとげんなりする時もあるけど、好きなことで大変なことがあると逆にわくわくしたりすると思うんだ」


 同級生の自分の言っていることをこれっぽっちも疑っていない返答に、どことなく既視感を覚える。なんだったかな、と考えたのは一瞬。すぐに答えが出るとともに、


「その感覚はわからなくもないけど、俺にとってはいつもいつでもあるってわけではないかな」


 自分の意見を伝える。村中は、うーんとまたもや唸りながらこちらへと視線を向けた。


「今のところ、少なくとも絵に関しては、大変になってもずっと楽しいままだし、ずっとわくわくが続いているんだよね」

「前に赤坂も似たようなことを言ってた気がするね」


 先程頭に浮かんだ既視感の正体と思しき事柄を口にすると、案の定、村中は口の端を綻ばせる。


「そうそう。この話、私の周りだと赤坂さんだけは全面的に同意してくれたんだよね」


 三年になって初めて話したんだけど、すごく気が合うんだよね。心底、嬉しそうに付け加える村中の横顔が、小説について語りながらうっとりとする赤坂のそれと重なる。勝手に赤坂みたいな考え方をするやつはそうそういないと思いこんでいただけに似たような人間がすぐ近くにいたことに驚きを隠せない。


「なんとなく水沢君も、同類なんじゃないかなって思ってたんだけどな」

「どこを見て、そんなことを思ったの」


 自分としては割といつでもひーひー言っているし、部活でなければ書かない気もしている。そんな俺が同類とな。


「文化祭号の小説を読ませてもらった時の感じと、こうしてモデルになってもらっている時の感覚的になんとなくそうなんじゃないかなって」


 ふわっとした物言い。ただ、某かの引っかかるものがあるということだけはわかる。


「もう少し具体的に言ってもらえるかな」

「何て言うか、水沢君と水沢君の書いてるものとが尋常じゃないくらい結びついているというか。何か大切なものを削ってまで仕上げてそうな熱意とか、そういうのを感じたから。水沢君自身の感じ方は私や赤坂さんと違ってはいても、一度火が付けばどこまで夢中になれる人なんだなって」


 そんな村中の言葉を耳にして、俺はほっと胸を撫で下ろした。


「それだったらたぶん、村中さんの見込み違いだよ。ああいう実在の俺の分身っぽいやつを主人公にして書いたのは文化祭号だけだし。それどころか普段は省エネかつできるだけ現実と切り離したものを書こうと心がけてるから」


 言いながら頭の中からにょきりと顔を出したのは、創作は創作として終わらせたいという願望。諸々の現実から空想を切り離したいというその思い。それこそ、姉ちゃんなんかが骨身を削ってまで書いているような小説とは質が異なるもののはずだった。


 直後、村中さんがくすくすと笑いだす。呆気にとられている間、目の前の同級生はアップルパイをもう一口齧ってから、ありゃ冷めちゃった、と残念そうに呟いてから、こっちを見た。ここに来て初めてその手が止まる。


「私は水沢君や赤坂さんみたいに小説に詳しくないけど、作っている人を見る目だけはあると思ってる。その私の目が、水沢君は魂を削って書いてる人だって訴えてきてる」

「今、言ったでしょ。俺の書いてるものは」

「うん。そこが勘違いの元だよ」


 笑顔で切り捨てられたあと、


「水沢君が言ったような内容であったとしても、その方向に進むためにやれるだけのことはやったでしょ。要は小説の表面に出るような熱意じゃなくて、内に籠もる情熱みたいなもののことを私は言ってるんだよ」


 などと言われた。よくわからず、ぼんやりと見つめ返していると、村中は、わからないかな、と不思議そうに瞬きをしてみせる。


「ものすごく単純に言うと、水沢君はものすごく夢中になって小説を書いているんだろうなっていうこと」


 確信に満ち溢れた声。お門違いも甚だしいと思う。


「村中さんや赤坂ほど夢中にはなってないよ。むしろ、そんなにやる気がない方かもしれないし」

「そうは見えないけど」


 俺の言葉をまったく信じようとしないクラスメートの女。それを見て、そんなんじゃない、という思いがただただ強まっていく。


「〆切が来る前に必死になるだけで、その前はずっと書いてないし」

「でも、書いてない間も頭はずっと動いているでしょ。水沢君の場合、トリックを考えてる時間が長そうだけど」

「文化祭号の原稿をあげてから一度も小説なんて書いてないし、これからも書くかどうかわからない」

「いつ書くかは人それぞれだし、情熱が爆発する時期も人それぞれだよ。私が見るに、きっと水沢君は卒業したあとも書き続けると思うけどね」

「そもそも始まりからして、姉ちゃんが書いていたのを見て、ちょっとやってみようかなって思っただけで、今も書き続けているのは惰性みたいなもんだし」


 ぼんやりとした思い出の中。小学生の俺が学習帳に汚い字で埋めていっている。たしか何人かで一つの物語を書くみたいな遊びだった。元々は姉ちゃんが母さんとやっているのを見て、ぼくもぼくもぉ、とダダを捏ねて混ぜてもらった。その時は姉ちゃんと母が積みあげていっていた動物の運動会の話に、当時はまっていた漫画に引っ張られた爆弾の玉入れみたいなことを書いてしまい、二人に苦言を呈されて、嫌な気分になったおぼえがある。こうして振り返ってみれば、自分が書くということに対する第一印象は著しく悪い。おまけに物事がよくわかっていないくらい幼かったからとはいえ、自分が蒔いた種だけに、鬱憤とか恥ずかしさだとかをどこにぶつけていいのかわからないあたり、やはりあまり思い出したくないことだ。


「今の今まで、好きで書いていたのかどうかすらおぼつかなくて、なんとなくで続けてきただけなんだよ」


 だから、きっとそんな大層な情熱を持って創作に取りくんできたわけではない。そんなようなことを口にしようとところで、村中が薄く微笑んだまま首を横に振った。


「書き始めた理由がどうだとか、続けているのがなんとなくだとか。そんなのはたぶん、関係ないよ」

「いや、関係あるでしょ」


 きっかけが信念になったり、続ける力になったりもするのに、関係ないというのは色々と無理があるだろう。けれど、クラスメートの女子は手早く残っていたアップルパイを口に放りこんだあと、


「口にするだけだったら、いくらでも上辺を繕えるし、それと同じで作品を書く動機や調子なんかもできあがるもの自体と必ずしも結びつくとはかぎらないじゃない」


 詭弁だと思う。というよりも、村中の言っていることは全体的に支離滅裂で、ただただ自分の用意した答えの型に俺を流しこもうとしているようにしか見えなかった。


「そんな表面的な振る舞いとかは関係なしに、書くということと生き方自体がくっついて切り離すことができない。そういう生き方とか魂を、私は水沢君から感じるの」


 自らの言っていることを信じて疑わないような口ぶり。やはり、ただただ村中が用意した理想の鋳型に俺を導きいれようとしているとしか受けとれそうになかった。そう思い、反論を続けようとしたものの、どう頭を捏ねくりまわしても上手い具合にこの少女を納得させる理屈や話の持っていき方を思いつくことができない。いくらでもそれらしい話をして自分や赤坂の仲間であるという主張を続けるだろうというのが目に見えた。その直後、


「とはいえ、これも私が思っているだけなんだけどね」


 唐突に村中は自らの持ち出した話を引っこめる。さほど躊躇いもみせずにあっさりと、


「今のところは、水沢君の認識と私の認識は違うみたいだし。だったら、お互いにそう思ってるってことにしておこうか」


 そんなことを言って、再びスケッチブックの上に鉛筆を走らせはじめた。


 少しの間、呆然としたあと、今までの時間はなんだったんだろう、と虚無感を覚えつつも眼前にいる同級生の顔をあらためて窺う。


 紙面を見下ろす目付きは油断なく研ぎ澄まされていて、手の動きも想像以上に滑らかだった。それでいて口の端にはゆったりとした笑みが浮かんでいる。実に楽しそうだった。


「村中さんは、もう進路が決まってるんだったけ」


 そんなことを聞いたのは、先程の空気を引きずりたくなくて、とりあえずで話題を選んだからにほかならない。


「うん。運がいいことに。これでしばらくは次を考えずに済むよね」

「どこに行くの。もしかして、美大だったりする」


 これだけ絵が描けて好きなのだから、おそらくそうだろう。ほとんど疑いを挟まずにそう尋ねた。けれど、村中は、なにそれ、と笑ってから、


「普通に四年生の大学の経済学部だよ」


 なんて話してみせる。俺は思わず、なんで、と漏らしそうになった。


「さっきの話的に、村中さんは絵を描く人としての進路を選んでると思ってた」


 代わりに口にした感想に、村中はおかしげな様子で、


「それはそれ、これはこれだよ。たしかに私自身はできるかぎり絵を描いてはいたいけど、だからと言ってそれを仕事にしたいかっていうとまた違うからね」


 きっぱりと言った。たしかにその通りなのかもしれなかったけど、さっきまでの熱の入りようからして、てっきり絵描きになろうとしているのだと思いこんでいた。


「仕事にしてもしなくても、絵以外のなにかに時間をとられるのは変わりないしね。あと、今のやり方が好きって言うところがあるから」

「今のやりかたって」

「遊びとしての絵かな。気ままに描いて、気が向いたら人に見てもらったりする感じ。端的に言うと自由っていうことになるかな」


 自由。何気ない言の葉はそれでいて、村中のやっていることを象徴しているように思える。それを証拠に目の前の少女の表情には苦痛が欠片も見受けられない。


「美大に行けば上手くはなれるかもしれないけど、今みたいに気ままには描けなくなるかもしれないしその気ままを邪魔する毒が入ってくるかもしれない。今の私は自分の絵にそういうのを持ち込みたくないの」

「だけど、忙しくなったら絵じゃなくても毒は入ってくるんじゃないの」

「それは、そうかもしれないね。でも、私の絵そのものに触れてくる人間自体は減らせる。直接の口出しする人は、それこそこっちが絵を描いてるって教えなきゃ、誰もやってこないんだろうし」


 それを聞いて、村中がついこの前まで文化祭号の表紙を描いたことを伏せていたのを思い出す。三年にあがったばかりに行なった自己紹介は思い出せないものの、もしかしたらその時ですら絵を描いていることはもちろん、美術部に所属しているのすら伏せていたのかもしれない。こうした振る舞いも、村中的には邪魔が入らないようにする処世術の一環だったのだろうか。


「ただただ趣味で描いていくってことかな」

「そういうことになるね。っていうか、世の中の大半はそれでしょ」


 プロになるのなんて元々一握りなんだし。目を細めながら、ささっと手を動かしていく。俺もまったくもってその通りだなと思い、コーヒーが入ったコップのプラスチック蓋に口をつけた。


「もう少し現実的な話をすると、私より上手い人がたくさんいるし、たとえけっこうなお金かけて美大に入ることができても、そのお金が返ってくるだけの成果をあげられる保証はないんだし、潰しとかきかなそうだしね」


 次々と重ねられていく正論に頷きつつ、面食らう。教室にいる時の印象であれば、意外には思わなかったんだろうけど、ここのところ創作者としての村中をよく見ているせいもあって、自分の中での彼女に対しての所感が固まり難くなっていた。元より、人というのは多かれ少なかれ、わからないことだらけなのかもしれないけど。


「水沢君は文学部希望だっけ」


 話した覚えはないので、赤坂に聞いたのかな、と聞き返せば、小さく頷かれる。


「たしか第一志望が、この間、来てくれてたお姉さんがいる大学なんだっけ」

「よく知ってるね」


 別段、隠しているわけではなかったものの、けっこう赤坂がつまびらかに喋っているらしいのには多少思うところがないでもない。俺の内心を察したのか、村中は、今みたいに進路の話になった時に教えてもらって、と苦笑いする。


「水沢君はどうして文学部に行こうと思ったのかな」


 素朴な問いかけ。正直なところを語るとすれば、背中を追いかけて、というところに落ち着くのだろうけど、さすがにそのまま口にするのは憚られた。


「なんとなくだけど、強いて言うなら、一番むいてそうだったからかな」


 当たり障りのないつもりの答え。途端に首を傾げる村中。


「むいてそう、ね。国語ができるから、みたいな。もしくは小説を書いてたり読んでたりするから」

「そういうところもなくはないかな。俺って、特別に好きなものとかなくて。かといって、将来をどうしようかっていうのもまだ漠然としているから。だったら、消去法で比較的得意なものをやっておくか、みたいな」


 こうして話してみると、随分と中途半端な大学の選び方な気がしてきた。ただ、その中途半端な選び方の先が、たまたま、もとい背中を追っていたゆえに、姉ちゃんの行き先と繋がっていたというの行幸以外の何物でもなかったけど。


「そっかそっか。でも、自分で書いてるミステリーとかは好きだよね」

「好きは好きだけど、がちがちなファンってわけでもないし。書くのはどっちかといえば苦痛だし」


 少なくとも、村中が絵に注いでいるような情熱は持って取り組んでいない。これもまた、人に引きずられて始めた本を読む行為の途中で、たまたま発見したものを惰性で読み続けているだけだった。


「よくよく考えてみるとほどほどに好きなものはあるけど、これってものはないままずっと暮らしてきた気がするよ」


 口に出してみてあらためてそんなことに思い当たる。そもそも、今までも充分に楽しかっただけに自覚するしないもなかった。


 一つ上には姉ちゃんと美亜姉がいた。同級や後輩にしても、毎年学年が上がったり、通う校舎が変わるのにともなって、周りの人間が入れ替わっても、だいたい仲良くしている相手は途切れないまま今日まで来ている。


 先日の決裂や、いくつか大きな隠し事の類に目を瞑れば、あるいは瞑らなくても、とても幸せに暮らしてきた。


 だからそれほど好きなものがないままであっても、今までどおり周りの人に恵まれれば楽しく過ごしていけるんだろうけど、もしも実際に一人になってしまった時、自らの虚ろさに耐えられるのか、という新たな疑問が湧きあがってくる。


「けっこうそういう人っているよね」


 村中は楽しげに手を動かしながら、淡々と口にした。


「人間色々。好きも色々だよ」


 この言葉は励ましなのか、あるいはただただ感想を述べただけなのか。どちらか上手く判断がつかなかったものの、どちらにしろ今から何かを急激に好きになるということはないんだろうから、気にしてもしようがないと無理やり自分を納得させる。


 ふと、窓の外をぼんやりと見つめた。空は暗く、大きな二つの雲が少し離れて横切っている最中だった。


 それを見ながら、もうすぐ今年が終わるんだな、という実感を深める。今年は大きな出来事が多くあったうえに、そこから発生した波にさほど逆らわずに過ごした一年だった。おそろしいことにその激動の一年が終わったあともその続きが少なくとも二月から三月までは続く。果たして、どのような終結を見るのか。


 美亜姉、赤坂、小山、沼田先輩、順ちゃん先生、父さん、母さん、村中さん、後輩たち、その他大勢。


 そして何よりも姉ちゃん。来年、以降のかかわりがどういうところに落ち着くのかわからないところが多い。けれど、より良いかたちにおさまればいいと思っている。


「窓を見てるのは見てるのですごく魅力的なんだけど、今日は正面で描きたいから、できればまたこっちを見てくれないかな」


 そんな風に促され、自由にしてていいって言ってたのにな、と心の中でちょっとだけ愚痴りつつも、実のところそんなに悪い気はしていなかったため、わかったよ、と笑顔で応じて振り向いた。

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