二
目の前にあるのは大きな鳥の足を焼いたもの。それをぼんやりと見ている間、立ち込めてきた香ばしい匂いが鼻の中に飛びこんでくる。反射にしたがって肉をナイフで切り開いてから、フォークに差して口に突っこんだ。ぶよんとした皮の歯ごたえに合わせて、柔らかい肉身から汁が溢れだしてくる。美味だ。そんな端的な感想と同時に、薄っすらと胃に加わるずっしりとした感触。後方からはストーブの熱気。目蓋が重くなっていく。
「眠いの」
その声で我に帰った。隣に座っている姉ちゃんがじっとこっちを覗きこんできている。
「せっかくこんなにおいしいものを食べてるのに、眠るなんて贅沢だな」
向かい側に座す父さんの苦言。そうだねもうちょっとしゃきっとしないとね、と応じながら、脇に置いてあったグラスに入ったブドウジュースを飲んだ。甘みの中に口内に残っていた鳥の油が混ざりこんで少しだけ気持ち悪い。
「梨乃はお酒でも良かったんだぞ」
俺のブドウジュースの方を見ながら、そんなことを口にする父さん。その手には日本酒入りのお猪口が握られている。
そう言えば、姉ちゃんはサークルで飲酒をしていたことを家族にも話してたんだっけ。もっとも、俺も姉ちゃんも昔からちょくちょく嗜んではいたのだけど。
姉ちゃんは首を横に振ったあと、自分のグラスにブドウジュースを注ぎなおす。
「まだ、これでいいよ」
応じてから一口含む。はっきりと頬が弛んだのを見てとった。割と感情が出難い人だけに、珍しいことでもある。
「そうか。せっかくだから、娘と酒を酌み交わしてみたいと思ったんだけどな」
よくある台詞。そして、人の親になることがあれば是非とも言ってみたくもある。
「焦らなくていいじゃない。来年の楽しみってことで」
そう諭す母さんのワイングラスの中にはシャンパン。さほど、酒に強い体質というわけではないけど、割とクリスマスと年末くらいは、記念だしといって口にしている。母なりの賑やかしらしい。
「それもそうだがな」
「それに来年だったら、シロ君も一緒に飲んでくれるんじゃないかな」
こっちを温かな目で見つめてくる母さん。曖昧な笑みで応じながら、グラスの端に唇をつける。
「無事に杯を酌み交わせる状況であればいいがな」
父さんの声には多分に疑いが含まれていた。いたし方ないか、と思いつつも、グレープジュースを徐々に流し込んでいく。
「おい、なんとか言ったらどうだ」
アルコールが回ってきた証か。父の顔は赤く染まっていて、その目には微かな苛立ちが見てとれる。典型的な絡み酒か。いっそ、なんとか、とでも口にしようかと考えてからやめた。
「先々のことなんてよくわからないしね」
ここ数年、とみに感じること。ありきたりなことやつまらないことも多くあったけど、その逆もままあった。良くも悪くも今みたいな状況に身を置くなんて想像外である。
「相変わらず弱気なやつ。これじゃ来年どころか再来年もだめかもしれないな」
「お父さん、ちょっと」
嗜める母の声も無視して日本酒をぐいっとあおる父。酒のせいか普段以上に本音が出ているのか、あるいは俺を奮起させたいのか。けれど、思うことはただただ、今日もなんか言ってるなみたいな他人事じみた感慨だけ。
「やれるだけのことはやりたいと思ってる」
申し訳程度に添えた決意表明っぽいなにかは、父さんの言うところの弱気に該当しそうなものだった。
「やれるだけのことをやって受かれるんだったら、全員お手々を繋いで志望校に入れるだろうさ。残念ながら、現実はそうじゃない」
ごもっとも。とはいえ、いくらごもっともであっても、心根も方針もなにもかも変えようと思えない。鶏肉をもう一口。段々冷めてきているのがわかる。熱すぎず冷めすぎずとちょうどいい感じだった。
「今のお前は試験を受ける前から負けている。この一年近く、ずっとそうだったんだ。そのことを深く噛み締めろ」
睨みつけるようにしてこっちを見つめる父。俺のため、なんだろう。あるいは、息子を受からせて満足したい父自身のためか。どっちでもいいけど。
「ほらほら、難しい話はこれくらいにして。ぱーっと行きましょう。ぱーっとね」
ぱんぱんと手を叩いて仕切りなおそうとする母さん。父さんはまだ話したりなそうだったけど、小さく舌打ちをして猪口を傾けた。
「お父さん。そろそろ、お酒は止めておいた方がいいんじゃないの」
「いいだろう。祝いの日なんだから、ちょっとくらい多めに見てくれても」
「祝いの日どころか平日ですら同じこと言って飲みすぎてるじゃない」
「今日は更に特別だろ。僕も色々と忘れたいんだよ」
いつもとさほど変わらない夫婦感のやりとり。多少の温度差こそあれど、覚えているかぎりではずっとこんな感じで仲が良い。連綿と繰りかえされる生温かさの応酬に多少の安堵をおぼえる一方で、先程までの父のノリが頭の中に残っているせいかどことなく腑に落ちないところもある。
頬杖をつきながら、先程から点きっぱなしになっているスタジオをクリスマスの装いにしたバラエティ番組をぼんやりとぼんやりと眺めた。別段、難しい内容というわけではないけど、さっぱりと頭に入ってこない。
「大丈夫」
隣からそう囁かれる。はっきりと言葉にするあたり、姉ちゃんにしては珍しかった。
「うん、大丈夫」
少なくとも今のところは。決して愉快な気分ではないけど、舌はまあまあ幸せだし、先程のやりとりもだいたいいつも通りだし。
「そっか、ならいいけど」
姉ちゃんもあまり深くは突っこまずに、自分の手元にある鶏肉に手をつけたあと、とりわけてあったポテトサラダへとフォークを向けた。なんとはなしにそちらに視線を向けながら、テレビから聞こえる騒ぎ声と父と母のやりとりをぼんやりと耳にしている。顎を上下させるのに連動して、姉ちゃんの後ろにまとめた髪が僅かに揺れていた。
/
それから三十分程で食事は終わった。机の上を簡単に片付けて、少し休みを挟んでからあらためてブッシュドノエルを食べたけど、その甘さがいつにもまして味気なく感じられた。それからあらためて母さんの洗い物を手伝い、促されるままに一番風呂を終え、部屋に戻り、姉ちゃんに次に入るように告げてから、電気を消し寝転がってぼーっと天井を見上げる。
今日、クリスマスパーティがはじまってから終わるまでの間、不思議と心は静かなままだった。例年は多少なりともはしゃぎがちなのにもかかわらず、今年はとりたてて気分が上向きもせず、ただただ粛々と儀式じみた手順を踏んで、それっぽい食事をしたという印象だけが残る。していること自体は変わらないのに、こんな気分なのは年を食ったというのと俺自身の余裕のなさみたいなものが滲みでたからだろうか。色々とそれどころではないという意識が、俺、そして俺だけでなく家族の一部にも共有された結果が今回なのかもしれない。いや、もしかしたら、俺以外の家族はいつも通り楽しかったのだろうか。それなら、きっと良かったんだろう。
あとはもはや寝るだけだけど、一向に眠気はやってこない。眠くないわけではないにもかかわらず、意識が落ちてくれなかった。かといって、勉強をしたり本を読んだりするほどの元気もなく、布団の温かさにまどろもうとする。いっそ、羊でも数えてみようか。なんて考えながら、それすら億劫に感じる。
頭の端っこには年末までの一週間ほどの時間のこと。とりあえずはひたすら追い込みをかけていくのみだろう。似たようなことは中学の時もしていたものの、その時よりも手ごたえがない。そのため、ちょくちょく担任や部活顧問などの大人や、姉ちゃんや美亜姉などのアドバイスを仰いでみたけど、やはり目立った成果はあがらず、微妙な線上にいるのは変わりなかった。
ここまで来たら、後は受験当日までできることをやるだけだ。そんな風に自分に言い聞かせるものの、上手く行かなかったら、という可能性が頭にチラつけば、自然と体が竦みもする。嫌な考えを振り払うためにも、さっさと寝てしまいたいのに、いつまでたっても強い睡魔は訪れてくれない。
扉が開く音がする。姉ちゃんが帰ってきたらしかった。
「起きてるの」
開口一番に尋ねられる。少し迷ってから、うん、と応じる。
「そう」
短く答えたあと、ベッドに向かって歩いてくる気配。黙ったままでいる姉を、なんだったんだろうな、と思っていると、木が軋む音がした。すぐに二段ベッドに取り付けられた梯子がたてているのだと知る。程なくして、すぐ近くに姉ちゃんが腰を下ろしたのがわかった。
「ここ、いい」
既に座りこんでから許可をとりにきたのに困惑しながらも、いいよ、と応じる。短く、ありがとう、と答えが返ってきてからすぐ、身を寄せられた。布団越しにではあるけど、人の体温が伝わってくる。
「姉ちゃん、布団かけてるの。もし、そうじゃなきゃ」
「下から持ってきて被ってるよ」
風邪を心配した問いかけに返ってきた柔らかい声音。そっかだったらいいけど、と答えてから、背中により体重を預ける。こころなしか、軽く乗せられた姉ちゃんの腕とおぼしきものの重さを感じた。たぶん、ベッドがほぼくっつけられている壁と落下防止用の柵に寄りかかっているんだろう。
しばらくの間。俺も姉ちゃんもなにも言わないままの時間が続く。いつも通りといえばいつも通り。ただ、普段であれば俺の方から話の一つや二つは振って、うざがられているかもしれない。
ふと、今年の四月に似たようなことがあったなと思い出す。たしか姉ちゃんの下宿を訪ねた時のことだ。
下宿に訪れた理由を、姉ちゃんにはなんとなくと答えたし、俺の実感としてもほぼそう言って差しつかえなかったんだけど、ほんのちょっとだけは、その少し前に美亜姉とかわしたやりとりが頭に残っていたというのもあったかもしれない。とにもかくにも、無性に姉ちゃんと会いたかったから。それこそ、距離を取りたがっていた相手の意向を無視するかたちであっても。
思えば、あの時こそが諸々の出来事の分かれ目だったかもしれない。
姉ちゃんに事情を説明しようかしまいか。あの日、言わなかったのは、今の不確かぎみな関係性をこの機会にたたれてしまいかねないおそれから。あるいは、相談すれば親身になって一緒に考えてくれるかもしれない、という希望がなくもなかったけど、距離をとろうとした姉のことだからその可能性は低いような気がした。
そんな風な日からも随分と時が経ち、もう少しで年を越しそうになっている。こちらが把握しているかぎりでは、姉ちゃんは俺と美亜姉の関係性をまだ知らないはずだったけど、小山の件を見るに誰から漏れているかわからない。いっそ、試しに確認でもしてみようか。
「まだ、起きてる」
そう聞かれて我に帰る。
「起きてるよ」
「そっか」
再びの短い返事。何か言いたいことでもあるんだろうか。そう勘繰っていると、
「今日はお疲れ様だったね」
そんなことを言われる。
「なんのこと」
「父さんの愚痴」
ああ、とようやく思いあたる。
「愚痴っていうより心配してくれてるんでしょ。実際に模試の結果とかが芳しくなくてへらへらしているように見えればああいうことの一つや二つは言いたくなるだろうし」
「心配じゃなくて、自分の思う風な一生懸命さを見せてない司郎に八つ当たりしているんでしょ」
言い切る姉。無感情ぎみな声には、どことない険しさが漂っているように聞こえる。
「それは言い過ぎだよ。父さんなりに心配はしてくれてるでしょ」
「仮にそうだとしても、わざわざクリスマスイヴにまで絡まなくてもいいはずだよ。正直、聞いてて気分が良くなかった」
姉ちゃんは怒っているのだろうか。顔こそ常に不機嫌そうではあっても、本気でそういった感情を露にしているとしたら珍しい。とはいえ、それほどのことではないというのが当事者である俺の気持ちではあったので、まあまあ、ととりなそうとする。姉ちゃんは何か続けて言おうとしたみたいだったけど何かを飲みこむような息遣いをして間を置いた。
「止めるなら、あの時に言えって話だよね」
ぼそりとした呟きのあと、姉ちゃんは、ごめん、なんて付け加える。
「謝る必要なんてないよ。さっきも言ったみたいに、あれは父さんとのいつも通りの会話なんだから」
俺の答えに姉ちゃんは、そういうことにいておくよ、と不承不承といった体で応じた。
そこからまた暗がりごと静寂に包まれる。これが話したいことだったんだろうか。じゃあ、あとは親が深夜にこっそり置いていくであろうプレゼントを済ませたら今日の儀式はめでたく全部終了だな、なんて考える。
「ねえ」
思考を断ち切るみたいに話しかけてくる姉ちゃん。なんとはなしを装った風な声の色合いに、これからが本題かな、と思い、なに、と聞き返した。
「なんか、私に隠してることとかある」
どことなく不安げな言の葉。少しだけどきりとする。
「それは秘密の一つや二つはいつでも抱えているけど」
茶化し気味に答えると、腕に寄りかかる体重が増すのがわかる。背中全体に柔らかなものが覆いかぶさったのを感じ、姉ちゃんも寝転がったんだろうと察した。
「そういうことじゃなくて、もっとはっきりとした隠し事、ない」
「姉ちゃんは、どうしてそう思うわけ」
いったい、なにを根拠にそんなことを言っているのか。探ろうとして聞き返す。
「なんとなく」
漠然とした物言い。それでいて、なにかがあるのは確信しているというような口ぶり。
「ここ二ヶ月くらい久々に家であんたを見てて、そう思った」
付け加えられた言葉。俺としてはこの二ヶ月ほど、姉がいてくれるのはただただ嬉しかったけれど、それと引き換えに見るべきところは見られていたというところか。
「そっか」
たぶん姉ちゃんは具体的な隠し事がなんであるかまでは知らないのだろう。その上でどう答えるべきか。話すか隠すか。どっちにしろ、ろくな結果を生まないだろうというのは目に見えている。前者は崩壊を早めるだけではあるし、後者にしてもただの延命措置でしかない。
俺としてはできるだけ姉ちゃんとの今の関係を恙なく続けたいと思う。その上で、美亜姉とも一緒にいたいとは考えていた。
条件としては四月の時とさほど変わりない。変わっているとすれば、姉ちゃんの方に確信があるかないかくらい。正直なところ言いたくはないし、ごまかしたところで姉ちゃんは普段通り素っ気なく、そう、とか言って明日以降、しばらくの間、いつも通りが保たれるだろう。だったらそれでいいか、と長い言い訳を考えようとして、
「言いたくないんならいいんだ」
姉ちゃんは自分の問いを引っこめた。やや、拍子抜けをしていると、
「ちょっと気になっただけだから、気にしないでいい」
どことなく弱気に口にする。そう言えば、なんでずっとこっちにいるのかまだ聞けてなかったと思い出した。
「姉ちゃんもなんか気がかりがあるでしょ」
思わず尋ねてしまう。
「まあね。それこそ、たいしたことのない話だよ」
あっさりと認める。また、ホームシックで押し通されるかもと思っていただけに意外だった。
「俺が行かなかった、学祭でなんかあったんでしょ」
いつの間にか聞く側と聞かれる側が逆転している。なにが起こったかはわからないけれど、いつ起こったのかはほぼ確信している。考えるまでもなく姉ちゃんが実家から大学に通いだした時期と符合していたのだから。
「本当にたいした話じゃないんだよ」
やや苦々しげに口にする姉ちゃん。それはつまるところ、姉にとってはたいした話だと自白しているのも同様ではないだろうか。
「それこそ、俺に聞かせてくれない。なんか力になれるかもしれないし」
自分のことを棚にあげ問いただそうとする。姉ちゃんは少し間を置いてから、
「私だけの問題じゃないしね。むしろ、私はおまけみたいなものだからちょっとだけ話し辛い」
そう説明した。となれば、人間関係のいざこざだろうか。姉ちゃんの大学での交友関係は、話を聞くに所属しているペンクラブがほぼ中心に位置している。だとすれば、その多くは俺の知らない人間関係であることは想像に難くない。一方で、件のクラブには沼田先輩も所属している以上、完全に他人事かといえばそういうわけではない。仮に元高校文芸部の先輩が関係しているであるのならば、相談に乗れるかもしれない。一方でその話し辛い事柄を無理やり掘り下げていいのか、という迷いもあった。少なくとも、今の姉ちゃんはそれを望んでいないのだ。
「わかった。けど、姉ちゃんこそ話したくなったら話してよ」
「そっちもね」
そう返されて、さしあたっては、二人の隠し事については置いておくことになったのだと理解する。ただ、いつになるかわからないにしても終わりは訪れるのだと、あらためて実感を深くした。そのことを意識しながら、眠りにつこうとする。
「おやすみ」
「うん、おやすみ、姉ちゃん」
姉ちゃんの体温を感じながら意識を落とそうとした。とても温かかったけど、心はどことなく覚めたままで、やっぱり意識は冴えたまま。これは、プレゼントが置かれる音を聞くことになりそうだと自嘲気味に思った。
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