パラダイス


 体育館内。集められた俺らの前で、長々しい眠たくなる話がマイク越しに響きわたっている。


「ええぇ。今年も残りわずかになったわけでありますが。この時期になるとわたくしとしまして一抹の寂しさのようなものが溢れてくるのであります。新しい年のはじまりと歓びの裏側にあるそれを、この年になったわたくしはよくよく実感しております」


 小中高の合計十二年間において、数少ない変わらなかっことを挙げろと言われれば、校長の長話が入るに違いない。


 たぶんではあるけど、俺が知らないだけで、世の中にはすっぱりと話を切りあげる良心的な校長先生というものも存在するのだろう。ただ悲しいかな。いまだに俺の前にはあらわれてくれない。


その間もさほど興味のない長話は続く。周りを窺えば、眠たげな顔をするもの、生欠伸をするもの、あからさまに舟をこぐもの、など少なくとも俺の周りにおいては方向性が似たような生徒たちが揃っているらしかった。いっそのこと、俺も寝てしまおうかとも思ったものの、生憎、それほど強い眠気はやってきてくれない。


 ふと、出席番号が近い女子である村中が、どことなくびくびくとした様子で前を見ていた。視線を追えば、赤坂が大きく舟を漕いでいる。出席番号順の並びのせいで一番前なのもてつだって、けっこう目立っていた。


 再び周囲を窺うと壁際に控えている教師の中で少なくとも、文芸部の顧問である順ちゃん先生は赤坂の現状に気付いているらしく、笑いを噛み殺すのに必死そうである。これはこれで愉快かもしれない。そんなことを思いつつも、また壇上の校長を見る。


「この数十年間、毎年必死だったからでしょうか。あるいは年をとって体感時間が短くなったせいでしょうか。ここまでやってくるのはあっという間だった気がします。そうして、そのあっという間に飲まれるようにして、ここ数年、年末の印象は恥ずかしながら似たようなものになりがちです。わたくしは教え導くものたちのまとめ役として、こうではいけない、と常々思おうとするのですが、いかんせん心はついていきません。このように真面目に生きているつもりが、どことなく惰性じみた人生に送りかけている気がする老人の戯言ではありますが、わたくしを決して参考にしてはいけません。どうぞ、あなたたちは貴重な若き日々をとてもとても有意義に過ごしていただきたいのです。年末の印象が均一になどならないように、一生に一度しかない、各学年の年末をお過ごしいただければ幸いです」


 校長はそんな風に一端、話を閉じるような気配を見せたあと、近所の犬を飼っている散歩友達との交流というよくわからない方向に話題を脱線させた。俺は、今、なにを聞かされているんだ、という疑問を深めながら、先程の年末についての話を頭の中で反芻する。


 二度とはない高校三年の年末。その一回性を、ここのところ嫌というほど実感しつつあった。かつてないほど、頭に知識を詰めこむ生活の中で、数少ない友人や親しいものたちとの交流はより色濃く印象に残る。仮に考えたくない可能性として来年浪人することになったとしても、もう二度とこの色濃い時間は戻ってこない。本来、どんな時間であってもそうなのだろうけど、こうして区切りを意識するとより実感が強まる。


 今年、受からなければ、姉ちゃんの背中はより遠ざかってしまいかねなかった。そういう意味でも、離されないためにも、チャンスは一度きり。


 ふと、逆に志望校に受かったとしたら、俺はどう思うのだろうという妄想が頭の中を駆け巡る。安堵。まずはそれだろう。嬉しさ。たぶん、それもある。そして、周囲の人たちの良かったね、の声。姉ちゃんも、おめでとう、くらいは言ってくれるかもしれない。めでたしめでたしだ。


 果たして、そうなんだろうか。疑いの余地はないはずなのにも、隙間風みたいな不安が頭の端っこでざわめく。


 ほっとしたその先の世界にはなにがあるのか。しばらくは安心感に浸っていられるかもしれない。そして、その安心感に慣れた矢先に、裂け目が広がる。置いていかれるのではないのか。そんな心のざわつき。そしてそれは杞憂ではない。なにせ、ついていきたい人と俺は別の生き物で、はじめから分かたれているのだから。そこだけはどうにもならない。結局また、似たような不安に苛まれながら、背中を追いかけることに終始するんだろうか。だったら、この時間に意味なんて、


「夏に比べれば短いですが、長期休暇であることには変わりないので、皆さんはしっかり有意義に過ごしてください。では、わたくしからは以上です」


 校長の終わりの言葉を耳にするのと同時に思考を止める。壇上から下りる背筋の伸びた老人の姿を眺めながら、背中をつたう脂汗を気持ち悪く思った。とはいえ、結果的に校長に救われたのかもしれない。あのまま、考えていたら、きっと良くないことになっていただろう。


 前の方では、赤坂が担任教師に頭を叩かれ間の抜けた声をあげている。先程まであった緊張感の高まりが納まっていくのを覚えながら、溜め息を一つ吐く。とにかく、今はやれることをやるだけだ。


 /


 終業式が終わったあと、赤坂と小山と連れだって、ファミレスへ足を運ぶ。元は直帰する予定だったけど、せっかく二学期も終わったんだしちょっと寄り道して行こうよ、と言い出した赤坂と、まあ最後だしな、と追随した小山の意見を汲んで、昼飯をともにすることにした。かく言う俺も、終業式で柄にもなく感傷的になったあとだったせいもあって、ほんの少しだけ気晴らししたかったというのもある。


 母さんに、友人たちとお昼ご飯をとってくると一本連絡を入れて、十数分後、俺は既にファミレスの席についている。元々お昼時なのと、うちの近くにある私立高校もまた終業式だったせいか、けっこうな人で賑わっていた。同年代だけでなく、赤子を抱いた主婦、不景気そうなサラリーマン、近所の老人、などといった雑多な人間の声を耳にしながら、案内されるままに席につく。


 今までに何度も足を運んでいるせいか、三人とも特に悩むことなくメニューを決めて注文を済ませてしまってから、流れ作業のようにしてドリンクバーに行き、各々の飲み物を補給し終えた。


「二学期、終わったねぇ」

 

 どっしりと席についてから赤坂が感慨深げに吐きだすように言う。直後に持ってきたばかりのティーカップ内の飲み物をふーふーと冷まそうとした。


「そうだな。終わったな」


 追随する小山。寂しげな物言いでこそあったものの、表情にはさほど思いいれが滲んでいない気がする。


「あとは三学期だけか」


 そう応じてから、入れてきたばかりのココアに口を付けつつ、空いている方の手で机の上に置いておいた英単語帳をそそくさと捲っていった。何度も何度も復習しているせいか、どれもこれも見慣れてはいたものの、ごく一部の意味が飛んだりもするのでそそくさと頭の中に再入力していく。


 程なくして単語帳が俺の前から消える。犯人を確認するまでもない。


「ちょっとくらい休みなって」


 顔を上げれば、眉間に皺を寄せる赤坂。とてもらしいな、なんて思いながら、わかったよ、と応じて単語帳を取り戻そうとする。けれど、英単語の連なった紙の束はテーブルの下へと消えて行った。


「帰りに返すから、それまでうちが預かっておく」


 信用ないな、と感じつつ、わかった、と応じる。赤坂は小さく溜め息を吐いたあと、ティーカップに口をつけた。


「そう言えば、二人ともクリスマスとか年末の予定とかはどうなってるんだ」


 この時期らしい話題。とはいえ、受験生的にはあまり嬉しくない事を小山は口にする。


「たぶん毎年通り家族でやるんじゃないかな。うちはけっこう放任主義だから、受験は受験、クリスマスはクリスマス、ついでに年末は年末で紅白見て年越しソバを食べる、みたいな」


 とてもゆるゆるとした赤坂の返答。自然と答えたばかりの女と聞いてきた男の視線が俺へと集まってくる。


「うちもたぶん、似たようなもんだと思う。なんだかんだで、姉ちゃんが受験でもクリスマスは祝ってたし、年末も居間にはテレビがつきっぱなしだったしね」


 とはいえ、父の変わらない当たりの強さを考えれば去年よりも締め付けは強くなるかもしれない。そう思ったけど、口にしたら口にしたで現実になりそうなので、とりあえずは楽しそうなことだけ表に出しておく。


「そっかそっか。そりゃ、この一年、頑張ってきたんだから、年末くらい楽しんでも罰は当たらないよな」


 この問いを投げかけた張本人はそう言って、一人で納得してみせた。果たして、そう口にできるほど頑張ったと言えるんだろうか。現在進行形である自らの勉強への打ち込みかたに関する疑惑が頭の奥から競りあがってきそうになったものの、自分なりにやっている、とひとまずは自らを納得させることにする。


「それじゃあ、とりあえず無事に二学期を終えたことを祝して、乾杯」


 カップをかざす小山。目の前ではポカンとした赤坂の顔。そこから数瞬遅れてから、苦笑いが浮かぶ。


「もう、コヤ君。するんなら、早めに言ってってば」


 既に口をつけたことを知らせる赤坂。俺らの中で、まだカップに口をつけていないのは小山だけだった。


「こういうのは気分だよ、気分。とりあえず、しておいても損はないだろう」


 そう言って、より高くカップを掲げた。何だろう。終業式効果のせいか、今日の小山はやけにテンションが高い気がする。そんな友人の挙動に、普段輪の中心で誰よりも騒ぐ赤坂は戸惑っているようだったけど、まあいいか、とぼそりと呟き、


「じゃあ、あらためて、気分良く二学期を終えられたことを祝して乾杯」


 小山に追随してカップを掲げた。こうなると俺もまた、従った方がいいと思い、同じようにする。


「乾杯」


 あいにく、ちょうどいい台詞を思いつけなかったので、どことなく味気なくはなってしまったけど。直後にかつんと小気味の良い音。終わりを知らせるものにしては、少々可愛らしすぎる気がしけど、こんなのも悪くないかもしれない。




 ファミレス内にいる人数が多めなせいか、気持ち料理が届くのが遅れたように思えたけど、なんにしても無事注文は消化され、俺の頼んだトマトソーススパゲッティ、赤坂の頼んだオムライス、小山の頼んだハンバーグプレート、といった順に届き、どうぞごゆっくりの声とともに男子大学生とおぼしきウェイターが立ち去る。


 そこからは各々がフォークやナイフを動かす合間に、雑談に興じた。主な話題は二学期にあった事柄の反省会であり、その中心になったのは文化祭。中でも赤坂はこの高校最後の祭りにかける意気込みはとてつもなく強く、今日もまた冊子が全て捌けたことや、多くの人の手に届いたことを歓んでいた。


「いやぁ、とりあえずあの冊子を出せただけでも高校に入った意味があった気がするよ」


 そんなことを言ってみせた赤坂は、デミグラスソースのついたオムレツ部分を口に含み、満足げに目蓋を閉じてから頬に空いてる方の手を添える。


「さすがに大袈裟じゃないかな」


 フォークにパスタを巻きながら突っこむと、目を開いた赤坂は、ちっちっち、と空いてる方の手の人差し指を上に向けて振ってみせた。


「シローはわかってないね」

「なんのこと」


 聞き返せば、女の友人はその指先でこちらを差し、


「自分の書いてるものの価値を、だよ」


 そんなことを言う。いつもながら過大評価だと思った。


「やるべきときに最高の一本を書いてきたんだから、もっと自分を誇りなよ」

「そう言われてもね」


 頭を掻く。果たして文化祭のときに書いた原稿はそんなにいいものだっただろうか。わが事ながら甚だ疑問だった。それこそ、締め切りぎりぎりになってようやく動きだし、かなりぎりぎりになってあがった一本。もちろん自分なりに一生懸命書いたつもりではあるし、書いてる間はこれならあるいは、という気持ちに押されていたのも事実だった。けれど、こうして書きあがって、さらっと読み返してみれば、端々にすぐにでも気付くような粗が散見されるし、明らかに勢いとノリだけでごまかしているところが多い。


 そういうところが多いだろう、と赤坂に言ってみれば、なぜだか、顔を上気させ、そこがいいんだよ、と力説しはじめる。


「たしかに後から振り返ると、ううん、って首を捻るとこがなくはないけど、そういうのも含めて濁流に巻き込まれるみたいにして一気に読ませられたって言うか。少なくとも、最後の謎が解かれる部分に関しては、あの勢いでがーっといっているのが最高なんだよ」


 力説された。こういう熱くなっている人間が口にする肯定的な意見は五割から八割は割り引いて判断した方がいいだろう。とりわけ、この自称俺のファンの友人の発言ならばなおのこと。それこそ、デビュー作からこの間の最新作までずっと誉められてきただけに、逆に信用をおけない。


「赤坂はこう言ってるけど、小山はどう思ったんだっけ」


 そのため、俺は赤坂の問いかけを横流しにしてみる。小山もまた比較的親しくしているだけに、幾分か私情が入るのは避けられないにしても、赤坂のような盲目さはない。一応、小山からも文化祭が終わったあとに開かれた講評会で簡単な感想を聴いてはいたものの、諸々の事情で早めに切りあげたのもあって、しっかりとは聞けてはいなかった。この機会にあらためて耳にしておくのも悪くないだろう。


 小山は俺と赤坂の間で視線をさまよわせたあとに、小さく息を吐きだした。


「小麦には悪いけど、俺は今回の司郎の小説はあんまり受けつけなかったんだよな」


 否定的な意見。少しばかり悲しくもあったけど、以前聞いた時と同じような言い方だったことに安堵した。


「なんだっけ。叙述トリックが受けいれられなかったんだっけ」


 講評会の時、ぼんやりと耳にした感想を手繰るようにして思い出す。それに対して小山は、叙述トリック自体が悪いってわけじゃない、と断わりを入れたあと、


「ただ、俺の場合は作中でタネが割られる前にカラクリが見えたんだ。だから、ネタが割れて作中の世界が反転したあともさしたる感動がなかった。その分、今回はいつもに比べて人物描写がしっかりとしてはいたが、あくまでいつもに比べてという話で、それだけを読んでて面白かったかといえばそうでもない。そんな感じで、俺にとって今回のお前の作品はどことなく中途半端で味気ないもののように思えた」


 けっこうぼろくそ気味に、俺の小説を品評した。そして、小山の物言いのほぼ全ては、出したあとに見つけだした反省点を指摘している。我が友人ながら、よく読んでくれていると思う。


「そう言えば、コヤ君は楽しめなかったんだよね。うちからすると勿体ないけど、わからない意見じゃないしなぁ」


 自称ファンの方も小山の意見を一応は受けいれながらも、勿体ない、と称した。


「むしろ、小麦は司郎に肩入れし過ぎて色々と見えなくなってるんじゃないのか」

「それはあるかもね。ただ、うちからすればあの一読した際の拙さみたいなものに、今回の作品のあじみたいなものを感じたんだよね。なんて言ったらいいのかな。不完全だからこそ美しい、というよりは形は整ってないけれどそれはそれで綺麗な気がする、みたいに。作中に滲んだシロー自身の体験っぽい生々しさには少しだけ思うところもあったんだけど、最終的にはシローの小説の新しい可能性の船出のようにうちには感じられたの」


 そこまで言い切った赤坂は熱の籠もった視線を俺に向けてくる。なんとはなしにまっすぐ目を合わせていられなくて、残っていたパスタへと視線を落とした。


「だからうちは、これからのシローの小説がどんな方向に進むのか、すっごく楽しみにしてるんだ」

「大学に上がってからも書くかはわからないんだけどな」


 そうこぼしながら、俺は書き続けたいんだろうかと自問する。


 本を読むのは、たぶん好きな気がした。翻って自分が小説を書くのはどうなんだろう。嫌いではない、と思う。ただ、だからといって好きかと聞かれれば首を捻ってしまいそうだった。元の始まりからして、姉ちゃんがノートに何かを書いてるのを目にして、見よう見まねでやってみたことだし、それからは今も昔もあまり目的を持たずに手を動かしてきている。好きな小説はあるけど、だからと言ってそれを参考にして書いた自分の小説のような何かを好ましく思っているかと言えば、おそらくそうでもない。


 未来予想というかたちでいいのであれば、無事希望した大学に入れれば書いているし、そうでなければ少し怪しいかもしれない。


「いやいや、何言ってるの。卒業したあとも定期的にうちに小説を送ってくれないと」


 こちらの事情など関係ないとでもいうように、赤坂はそんなことを勝手に決めてくる。


「俺は別に赤坂の専属小説係ってわけじゃないんだけどね」

「そんなの知ってるよ。うちもシローは広くみんなのシローでいて欲しいって思うし。だから、そのみんなのうちの一人に定期的におこぼれをくれればいいっていうだけ」


 だけ、と言いながら、随分と大きな要求をしてくるものだ。そこまで考えたところで、赤坂が表面上は産みの苦しみを味わっていない類の人間であることに思い当たる。もしかしたら、この友人の実感としては、一本はちょっとしたことに入ってしまうのかという疑いを抱きもしたけど、常々俺や小山が締め切りでひぃひぃ言っているのを見ている以上はさすがにないだろう。いや、まさか、俺らの挙動を冗談だと考えていたりはしないよな。


「そういうのは俺よりも小山の方が予定通りしっかりと書いてくれるんじゃないかな」


 半ば苦し紛れながらも、責任を傍で聞いていた同級生の男に押し付けようとする。当の小山はぎょっとしたようにこっちを見返してきたけど、気付かないふりをして、


「俺の勝手な考えだけど、小山は俺と違ってほぼ確実に小説を書き続ける気がするしな」


 なんて妄想を口にした。言ってから、赤坂に負けず劣らない決め付けだな、と心の中で思う。幸か不幸か、小山はよくわかったなと苦笑い気味に応じた。


「まだ、書きたいこともそれなりにあるしな。できるだけ続けたいと考えてるよ」

「よく言ってくれたね。というよりもあんなに書けるんだから止めちゃうなんて損だよ」


 そんな赤坂の言葉を耳にし、さしあたっては矛先が逸れたようでほっとする。


「ありがと。そう言えば、小麦」

「なにかな。なんでも言ってくれていいよ」


 赤坂はそう告げてからオムライスを一口。やはり気分良さ気に頬を弛めた。小山はどことなく期待のこもった眼差しを同じ部活の女に向ける。


「俺が文化祭号に書いたやつはどうだった」


 当然の流れというべきか。自作の感想をあらためて尋ねだした小山。少し早めに帰った俺と同じように、もしかしたら文芸部の三年は講評会でさほど意見を交わさなかったのだろうか。そんな疑いを抱く。


「前、言わなかったっけ」


 俺の予想に反し、小山の問いかけに赤坂もまた戸惑っているみたいだった。


「いやさ。講評会での感想は全員分の作品に対してだったから一人一人簡単なものだったし、もう少し突っこんだことを聞きたいって言うかさ」


 そんな風に告げる声はどことなくうわずっている。いつになくハイになっているせいか、あるいはもっと個人的な感情に由来するものか。俺の中では判断がついていたけど、保留ということにした。


「ふむふむ。そういうことだったら。最後に読んでから一月以上経ってるから、細かいところは間違っているかもしれないけど、それでいい」


 了承しながら確認をとる赤坂に、小山は大きく頷いてみせる。


「いいよいいよ。記憶に残った部分で深く語ってくれればいいからさ」


 曖昧な記憶を元にした感想であるならば、突っこんだことまでは踏みこみにくいんじゃないだろうか。そんな疑問が芽生えたものの、感想を求められた赤坂の方は特に気にならないらしく、わかったと頷いてから紅茶で唇をしめらせ、ふーっと息を吐きだした。


「まず最初に、毎回言ってることだけど、よく調べてあるなっていうのが一つ。一回、読み終わってから作中で出てきた歴史上の出来事のいくつかについてちょっと調べたかぎりだと最新の学説だったり、面白そうな逸話を採用していたりだとかでこっちも勉強になったよ」


 今回の小山の小説は織田信長の晩年についてだったか。たしか、毛利との争いから本能寺くらいまでの話だった気がする。


 いつもは、俺の知らないような歴史上の人物の話を書いたりしているだけに、最後に選ばれたのが誰でも知っているような武将だったのには驚きを隠せなかったが、蓋を開けてみれば教科書ではあまり取りあげられない部分が多くピックアップされていて、するすると楽しく歴史の授業を受けているような気分にさせられた。


「文体も歴史小説に使われるようなやや時代がかったもので、第三者が書いた年代記みたいなを書き方をしてはいたけど、初めて読む人が難しいなと遠ざけないような工夫が施されていて、しっかりと読者に寄り添っているような気がして好感が持てたよ」


 ここら辺はいつもの小山の小説らしいところである。残酷な表現や凄惨な描写や時代がかった書き方をしていても、不思議と読みやすさや親しみやすさは残る書き方をしていた。それは今回も例外ではない。


「一応話の中心の信長も魔王って感じじゃなくて、あくまでも当時の時代の常識の範疇に生きていた人として描いていて、それ以外の対立することになる光秀にも、光秀自身のやむをえない事情が推理されていて、少なくともうちにとっては受けいれられるものだったよ」


 いやぁ、よくできてたねぇ。薄っすらとした笑みを浮かべる赤坂。嬉しそうにする小山。一見すれば微笑ましげな光景。しかし、なぜだろう。なにか違和感があった。


 半ば誉め殺しの様相を呈してきた現場を目撃しながら、ココアを啜る。温くなった液体のどろりとした舌触りがいつになく不快に感じつつも、よぉく目を凝らそうとした。


「いやぁ、コヤ君のしっかりとした書きっぷり。今回も堪能させてもらいましたよ」


 大袈裟な口ぶりの赤坂と頬を弛める小山。その二つを見比べて遅まきながら、段々とどのような事態が起こっているのかを察する。


「それで、小麦は満足してくれたか」


 小山としては本来は聞く必要もない質問だったんじゃないだろうか。そもそも、これだけ誉め言葉だけで積みあげられているのだから、疑う余地などないはずの問い。そして、それが耳に入った瞬間、俺は即座にまずい、と思ったものの、もはや、止めようもない。


 直後に不自然な沈黙が落ちる。レストラン内の客は依然として騒ぎまわっているのにもかかわらず、世界中に静寂が訪れたような心地。その際、俺は小山と赤坂の両方の顔をしっかりと目におさめていた。


 小山は紅潮していた顔がやや冷え、目には徐々にではあるが不安の色合いが滲んでいっている。


 そして、その小山と向かい合う赤坂の顔は、ようやくちっとも楽しそうにしていなかった目に合致するようにして、能面じみた表情を作り出した。


「それは、ないかな」


 普段の騒がしさだとか甲高さだとか排除された、ただただ素っ気ない女の声。へっ、と間の抜け気味な男の反応。


 数瞬後、赤坂は再び笑みを繕ったけど、依然として目は冷たさを有したままだった。


「さっきからずっと言ってるけど、小説自体には文句はないし、よくできてる。その点だけでいえば、今回文化祭号に載った小説の中だと一番しっかりまとまっていたと言えるかもしれない。けどね」


 すぅっと息を吸いこむ赤坂。その後、目蓋を閉じて人差し指で四度、こめかみを叩いたあと開眼し、


「なんでかな。うちの心には引っかからなかった」


 いつになく低い声音ではっきりと告げた。店内の騒がしさごと貫いて届いた本音らしきものは、俺に向けられたわけでもないのに背筋を振るわせる。あからさまに小山の顔が強張ったものの、感想を口にする少女は止まらずに、


「だからね。よくはできているとは言えるけど、満足はできなかったの」


 なんてことを付け加えて、紅茶を一口。


 テーブルに落ちる静寂。ただすっきりしたような顔をする赤坂に、固い顔をしたまま黙りこんでいる小山。その二人を見ながら、どうしたものか、と思う。


 とりあえずこの空気だけでも払拭したかったけど、涼しい顔をしている赤坂はともかくとして、打ちのめされ気味な小山を励ますのは至難の業に違いない。


 通常の講評会であれば、俺があらためて小山の小説の良かった点をひたすらあげて、満足したとでもいえばとりあえずは丸くおさまるかもしれなかった。けれど、こと今回にいたっては、おそらく小山が求めていたのは赤坂からの誉め言葉であり、だとすれば、俺がそれらしいことでお茶を濁したところで、たいした効果はないだろう。加えて言うならば、俺の小山の小説に対する感想も実のところ赤坂とたいして差異はないため、満足した、とは言い難くもあった。そうして、ああでもないこうでもない、と頭をめぐらせていると、


「参考までに。どういうところが満足できなかったか聞かせてもらってもいいか」


 まだ動揺を鎮めきっていない小山が、そんな風に力強く赤坂に尋ねてみせる。強いな、なんて俺が他人事のように思っているところで、聞かれた赤坂の方は、そうだなぁと、自らの片側にまとまった髪の先っぽを触ったりしたあと、


「こればっかりは感じ方の問題でしかないからね。面白くなくはないけど、心の深いところまで達しなかった。もっと、端的に言うと趣味じゃなかったってことだから」


 にべもない言葉。けれど、小山は折れることはなく、


「例えばの話だけど、俺が司郎と同じようにミステリーを書いたりしたら、小麦のお眼鏡にかなうことはありうるか」


 そんなことを言い出す。途端に赤坂の眉を不快気に歪んだ。この顔の中で起こった変化はすぐさま痕跡を消し去ったものの、三年の付き合いで初めて見た表情に胸の中の不自然なざわめきが大きくなっていくのを感じる。


「コヤ君がミステリーを書いてみたいって思って書くんだったら、それもいいんじゃないかな。けど、ただジャンルをうちの趣味に合わせるっていうだけだったら、意味がないんじゃないかな」

「仮に上手く書けるとして、だ」


 もしもの過程に縋りつくような言の葉を紡いでいく小山。それに対した赤坂の、


「じゃあ、はっきり言うね。ジャンルなんか関係ないよ。それ以前に合わないって言ってるの」


 明確な拒絶。いつになく容赦のない赤坂の物言いの連続にぎょっとする。


 小山はしばらくの間、呆けたようにして同級生の女を見たあと、そっかとぼそりと呟いた。その横顔には濃い陰りが見受けられる。


「別にいいじゃん。誰にでも好かれる小説なんてたぶんないんだし。うちが好きじゃなくても、コヤ君の小説のファンだって人はいるだろうし、仮にそうでなくても自分の好きなものが書ければそれでいいでしょ」


 薄っすらと微笑む赤坂。小山も、そうだな、と応じながらもやはり納得はできていないみたいだった。赤坂は頬杖をつきながら、こっちを見る。


「ねぇ、シローも親しい人に自分の書いたものを気に入らないって言われたら、落ち込んだりするわけ」


 会話の機微などを丸ごと吹き飛ばしたような直接的な物言いにぎょっとしつつも、そうだな、と頭を巡らせはじめた。


 親しい人。まっさきに思い浮かべたのは姉ちゃんだった。とはいえ、そもそもからしてお互いの読書の趣味が似通っていないため、小山の赤坂に向けるほどの強い感情が発生する土壌がない。


 となると、身近でそれに当たるのは、今目の前にいる二人を含んだ文芸部の人間ということになるだろう。そのうち小山に関しては今回の感想も含めて否定的な意見を向けられることもあるし実際に悲しんだりもする。


 一方、赤坂の方は、時々こうした方が良かったんじゃない、と言ってくる以外はあまり否定的なことを口にして来ないため想像し辛かった。もしも気に入らないと言われたらそれ相応に悲しんだり落ちこんだりもするんだろうか。いや、赤坂から言われたら逆に安心してしまうかもしれない。


「悲しくはなるかな。ただ、人の評価を聞いて無茶苦茶落ち込んだことはないかも」


 思い出そうとしても、そういった心当たりがなかった。書いて発表するまでやいざ読んでくれた人の意見を耳にするまでの間はたしかに緊張感は伴うし、実際の批評を聞いてへこむことはある。ただ、それは瞬間的なことでさほど次までは引きずらない。良くも悪くも、自分の中で文章を書くことの比重がそこまで高くないからかもしれなかった。


「うん、うちもそう。結局、人の意見は人の意見だしね。だから、あんまり気にする必要はないんじゃないかな」


 再び小山に水を向ける。


「ああ、そうだな」


 答えてコーヒーカップに口をつける小山。よく見れば、中身は空っぽのままだったけど、しばらくの間、容器は傾けられたままだった。


 困ったような目をこっちに向けてくる赤坂。かといって、どうしようもなく、ただただ時間ばかり過ぎていく。


 /


 妙な空気が残ったまま解散となった。


 一人駅へと向かう赤坂と別れたあと、しばらくの間、小山と一緒になる。普段の小山は赤坂と駅までの道程は一緒で別方面の電車に乗るはずだったけど、今日はそういう気分ではなくなったらしく、徒歩で帰ると言い切った。それだと一駅か二駅分の距離を歩くことになるはずだったけど、渋い顔をしたまま淡々と歩を進めている。


 さて、なにを話したものか。話しかけなければいけない気がしてはいたものの、どのようにすればいいのかが見えてこない。とりわけ、うす曇空の下で先程のファミレスのなんとも言えない空気を引きずっているから尚更だった。


 昼下がりの道。すれ違うサラリーマンや主婦たちは無表情かどことなく暗い顔をしているように見えた。よく見ていないだけで、他人というのはたいていそんなものなのかもしれなかったけど、それらの表情を意識した今日は、俺の気分もまたより暗い方暗い方へと傾いているように思える。


「なあ」


 声音に振り向けば、小山が無表情でこっちを見ていた。


「なにかな」


 会話がなかった気まずさ自体はなくなったものの、この友人の顔色を見るにあまり気分のいい会話ではないだろうなと察せられた。


「なにがいけなかったんだろうな」


 案の定、後悔が滲んだ声。なにが、にあたる事柄は察せられたものの、確実とはいえなかったため、ファミレスで赤坂が言った小説の感想とかのことでいい、と尋ねた。すぐさま頷かれる。


「今振り返ってみれば、あんな風な聞き方をする時点でちょっとおかしくなってたかもしれない。でも、原稿ごと気に入られていないって言われるのはどうにも響いてな。しかもあの小麦にだ」


 たしかに全否定はきついかもしれない。一方でちょこちょこ気にかかるところがある。


「赤坂にあんな風なことを言われたのは今日はじめてなんだよね」

「ああ、うん。それが」

「今まで書いた他の小説で似たようなことを言われたことはなかったわけ」


 もしかしたら、赤坂の中で価値を認められなかったのは今回の小説だけかもしれない。現に今日まではこのような否定のされ方はしなかったというのであれば、今回の小説が殊更興味の外にあったということなのではないのか。そんな仮説を試しに思い描いてみた。


 けれど、小山は苦笑いを浮かべたあと、首を横に振る。


「たぶん、今回の小説だけが否定されたってわけじゃない。根本的に、俺の書くものが小麦の趣味に合わないんだよ」

「なんで、そう言い切れるの」


 尋ねる。小山は小さくため息を吐いた。


「今までの小麦からの小説の感想でも、どことなく奥歯に挟まったような言い方をされていたからな」


 ということは小山は、この三年の間、赤坂が自分の小説に対していた感想を薄々察していたということか。その割には、今日ほどの衝突が起こったおぼえはない。となると、どちらかが、あるいは両方が小説に対して突っこんだことを言わないよう言われないように距離をとっていたということだろうか。


「じゃあ、今日は合わないって言われるのがわかってて、赤坂に感想を聞きにいったってことなの」

「そう、なるな。というよりも、今回なら小麦に好まれるかもしれないって、いう自信があったのかも」

「自信、ね。その自信はどこから湧いてきたわけ」


 不躾かもしれない、と思いつつも尋ねる。小山は天を仰いでから、


「いつになく自分の書いたものに手応えを感じていたからだよ。受験勉強であまり時間がとれなかったし、いつも通り書くのに時間はかかったけど、読み返してみても素直に俺の読みたい歴史小説になってたからな。これはいけるってそりゃ思うよ」


 どことなく空々しく告げてから、右掌で顔を覆った。


「良くも悪くも舞い上がってたんだ。だから、色々と判断が鈍った」


 苦々しげな呟き。友のそんな様子を見ても、まともにかける言葉がみつからない。


「けど、自分にとって満足の行く話が書けたのは良かったんじゃないかな」


 

 仕方なしにそんな言葉でお茶を濁そうとして、すぐに失敗に気付く。直後にぎょろりとした友の目がこちらを射抜いた。


「一番欲しかったものが手に入らなくて、なにが良かっただよ」

「悪かった」


 軽率だった。ついつい、自分の基準で答えてしまったなと反省する。良くも悪くも俺の中で、人の好悪と小説を書いた際に感じることは分かれて存在していたから。


 小山は荒ぶる心を隠さない眼差しをこっちに向けながら、一歩、ぐいっと距離を詰めてから、


「お前だって、水沢先輩と同じ大学に行けなかったら同じ気持ちになれるさ」


 どことなく皮肉気に言ってみせる。


 そこでようやく腑に落ちる。なるほど。つまるところ望みが叶わないかもしれないという焦燥感。それが叶わないに変化した際に訪れる絶望感。たしかに考えたくもない事態だった。死にはしないだろうけど、思考を過去に遡らせて、延々と自分の落ち度探しをはじめることだろう。


「たしかに、それは考えたくない」

「だろ」


 皮肉気に唇の端を上げる小山。三年間であまり見たことがない表情は、いつにない闇を感じさせる。そこでふと気付く。


「志望している大学に行きたい理由とかって、小山たちに話してたっけ」


 家族には志望理由を尋ねられた際は行きたい学部があるという話をしたものの、すぐさまそれ以上の理由について見抜かれた。それでも、志望校のレベルとしてはちょうどいいと判断されたのか、第一志望にすることを許可された。だから、家族に志望大学に行きたい理由を話したけど、同級生に直接言ったおぼえはない。それをさも当然、というように小山は語った。


 直後に小山のいかにもおかしげだといった声で我に帰る。


「そのくらい聞かなくたってわかる。文芸部でのお前は、水沢先輩とずっとべったりだったし」

「そう、かな」


 今の関係になる前もなった後も、比較的節度のある距離感を心がけていたつもりだったんだけど。小山は、そうだよ、と大きく頷いてみせる。


「少なくとも小麦や順ちゃん先生辺りはわかってると思うぞ。あとは、お前と幼なじみのあの先輩」


 あの先輩、の部分から声の調子がどことなく忌々しげなものに変わった。こういう時であっても存在する温度差に少々肝を冷やしつつも、


「前から聞きたかったんだけど、譲原先輩となんかあったの」


 今まで、追求せずにいた、小山の美亜姉に対する態度について問いかける。ただ、このところのこの友人の言動から、なんとなくではあるけど、仮説が練りあがってもいた。半ば答えあわせでもある。


 すーっと小山の表情が消えていく。


「むしろ、お前が平気な顔をしてあの人と付き合い続けている方が解せないんだが」


 そんな低い声。俺は、幼なじみだしね、と笑う。


「たしかに癖のある人ではあるけど、家族を含めなければ譲原先輩が一番付き合いが長いし、それなりに信頼してなくもないから。たしかに、たまにとんでもないことをされたりもするけど、そこら辺は承知の上で付き合ってる部分もあるしね」


 一般論、というよりも俺にとってのたしかな真実を語っていく。どんなかたちであっても、きわめて親しいから、というのには変わりがない。


 小山は冷やかな目を向けたまま、


「お前の幸せを横から邪魔されたのに、か」


 ゆっくりと問いを投げてきた。やはりか、とより腑に落ちる。


「言いたいことがよくわからないんだけど」


 さしあたってはとぼけてみるものの、


「わかってるから。俺は知ってるんだ」


 なんて告げてくる。ほぼ、予想通りだと思いながらも、公道で話す事柄ではないな、と判断した。


「小山」

「まだ、シラをきる気か。たしかにお前としては隠したい気持ちもわかるけどな」

「あそこで話そうか」


 通りがかかったレンタルビデオ屋の駐車場を指差す。少なくとも今のところ人影はほとんどない。そこで小山も冷静さを欠いていたことに気付いたのか、悪い、と告げた。俺はいいよ、と応じてからそそくさ、と駐車場の脇にある自販機横のスペースまで移動する。後ろからついてくる小山が立ち止まるのに合わせて、


「それで、小山はなにを知ってるのかな」


 なんでもない風を装って尋ねた。小山はゆったりとこっちを見上げたあと、


「お前と水沢先輩の関係性とそれを巡るあの先輩のことのだいたいかな」


 そんな風に前置きをする。


 カマをかけられているかもしれない。まだ漠然とした物言いなのでそんな疑いが湧く。


「俺と姉ちゃんの関係性っていっても、大袈裟に言うほどのことでもなくないかな」


 途端に小山はため息を吐いた。


「はっきりと言われるのをご所望か」


 友人の目の中では僅かな苛立ちと真剣な心配の色合いが交じりあっている。少なくとも、世間に公にしにくい関係だというのは察せられているらしいというのはわかった。


「いや、念のため確認しただけだよ。っていうか、俺の付き合っている相手が誰かとか、いつ気付いたの」


 たしか以前、俺が誰かと付き合っているのを知ったのは二年の終わり頃だったと言っていた気がする。その時に相手の名前までわかっていたんだろうか。


「相手を知ったのは今年の四月だよ。お前が校舎裏であの先輩と話しているのをたまたま聞いて」


 そう言って小山は目を逸らした。この感じだとつけられていたのか。


 一応、美亜姉に話があると校舎裏に呼び出された際、自分なりの警戒はしていたつもりではあったけど、あの時、既に周囲は暗くなっていたから隠れる場所はいくらでもあったのかもしれない。


「盗み聞きはよくないよ」


 茶化すように言いながら、自販機に硬貨を入れる。


「そういうつもりじゃなかったんだ。ただ、あの先輩に連れられたお前がなんか深刻な顔をしてたからつい放っておけなくて」


 悪かったよ。そう付け加えた小山の声を耳にして、心配してくれたのは本当なんだろうなと思う。その程度の信頼は、まああった。


「あの時の譲原先輩の話の中で、なにが小山的に引っかかったの」


 言いながら、飲み物を眺め回す。


「本気で聞いてるのか。俺が言うまでもないだろう」

「怒りどころってそれこそ人に寄るからね。擦り合わせておかないとあらぬ誤解を招くことにもなりかねないし」


微糖のホットコーヒーのボタンを押した。ガコンと落ちてくるのに合わせて、


「あの先輩がお前を脅して、自分と付き合ってって言ったところだよ」


叫び気味に告げる。まあ、そこだろうな。


「脅し、ってほどじゃなかったと思うんだけどね」

「いや、どう聞いてもあれは脅迫だろう。自分と付き合わなきゃ、ばらすって言ってるんだから」


 激昂する友の声音をどことなく冷めた心で受けとめながらプルタブを上げる。たしかにまあ、言われたのはそのようなことだったし、かたちとしてはその後、美亜姉とも付き合っているのだから、脅しに屈したといっても間違いではない。ただ、それでも、


「たしかに色々と不都合だったけどね。あれはあれで、俺と譲原先輩なりにいい話し合いだったよ」


 小山が持っているような怒りみたいなものは、今を持っても湧いてはこない。面倒だなとかは思ったし、現在も思っているけど、だからといってそれが必ずしも美亜姉に対する負の感情だけに繋がるわけではなかった。


「秘密を盾に脅迫されているのが、なんでいい話し合いってことになるんだ」


 困惑の声。顔を見れば、わけがわからない、というような目をしている。さて、どう言ったものか。頭を掻きながらコーヒーに口をつけた。ほのかな人工的な甘さで舌を温めたあと、缶を唇から離し、


「実のところ、今の状況をそんなに悪いとは思ってないんだよね」


 などと漏らす。あまり考えなしの発言だったなと反省したあと、案の定、


「何言ってんだお前」


 小山は信じられないものを見たような目をした。そりゃそうだろう。小山と同じ立場だったら、俺も似たような反応をするに違いない。ただ、


「少なくとも、この一年は美亜姉を一人にしなくてよくなったしね」


 この一点があるだけで、ちょっとは良かったな、と思っていなくもない。胸の端っこは同じ県内に住んでいる姉への罪悪感で痛まなくもなかったけど。


 小山は瞬きをしたあと、俺の方へとぐいっと一歩踏みこんできた。


「これは確認なんだが」

「うん」

「お前は、あの先輩に脅されて、仕方なく付き合うことにしたんだよな」


 頼むからそう言ってくれ。友人の表情は訴えている。事実、この場は丸くおさめるという観点からすれば、それ以上の解答はない。


「きっかけはそうだよ」


 けれど、一応、本件の全体像をおおまかに把握している小山を、これ以上騙すというのも忍びなく思えて、できうるかぎりの真実を伝えようと決めた。


「ただ、美亜姉の提案自体は、いいものだと思って受けいれたんだよ」


 目の前で固まる小山の顔を見つめながら、頭の中で四月の美亜姉の寂しげな表情を思い出す。


 司郎と梨乃のことは秘密にしておいてあげる。その代わり、あたしも梨乃と同じように扱って欲しいな。


 皮肉気な笑みを作ってそんなことを言った美亜姉。けれど、もしも断わってしまったらずっと立ち上がれそうにない顔をしていた。


 思い返してみれば、たしかにあの校舎裏での出来事は脅しだったのかもしれない。ただ、その際に人質にとられていたのは俺と姉ちゃんの関係性の露見ではなく、美亜姉自身の心だったのだと。


「本気で言ってるのか、お前」


 目を丸くする小山に、俺は少し考えてから頷く。


「最善というわけではないけど、悪くないとは思ったよ」


 少なくともそういう心がなければ、美亜姉がどうなろうと、あの場で断わっていたと思った。すんなりとはいかなくとも、俺の中に受けいれようとする土壌はあったんだろう。


 直後に小山が俺の左後ろの壁に平手を叩きつけた。その表情は諸々の感情を押し殺しているみたいに見える。


「水沢先輩に悪いとは思わないのか」

「それはもちろん」


 すぐに口が動いた。なら、と小山が頭の位置を少し下げながら叫び気味に言う。


「なんで、そんな平気な顔して両方と付き合うなんて真似ができるんだよ」


 耳が痛い、と思いつつも、友人の言葉は不思議と心に沁みこんでこない。


「どうしてだろうね」


 わかってはいる。自分の中の優先順位通りに粛々と事を進められなかった点に尽きると。もっとも、それ以前の状態から落とし穴だらけの生活ではあったんだけれど。


 小山はしばらくの間、そのまま動かずにいた。俺は徐々に温度を失っていくコーヒーをちびちびと飲みながら、静かに時を待つ。やがて、友人はゆっくりと顔をあげた。


「最初、お前が脅されているのを知ったときは、助けたいって思ったんだ」

「うん」

「たしかに水沢先輩との関係を聞いて、戸惑わなかったわけじゃないが、そういうこともあるかもしれないし、なによりお前がそう選んだんだったら、できるかぎり応援しようとも思った」

「そうだったんだ」

「けど、あの先輩にお前と水沢先輩とのことをばらすなって説得するにしても、変に突っつけば暴発するかもしれないと思ったし、水沢先輩はお前とあの先輩のことを知っているかわからないから話も聞けない。かといって、お前はお前でずっと平気な顔しててどうにも切り出せない。だから、今日までずっとずっと、どうしていいかわからずにいた」


 そこまで口にしてから、だがな、と歯を噛み締める。小山の目に浮かんだのは明らかな軽蔑だった。


「それもこれも。お前がこの関係を受けいれてるとは思ってなかったからだ。なんて思い違いをしていたんだろうな、俺は」


 自嘲するような声。俺は缶から口を離して黙って見つめ返す。


「こんな関係は長くは続かない」

「うん、知ってる」


 遠からず今のかたちの終わりは訪れるに違いない。それはわかっている。


「聞いてなかったが、水沢先輩はこのことを知ってるのか」

「知らない、と思う」


 なにせ、姉ちゃんはけっこう勘がいい。その上、ここのところまた近くで暮らしている。知っていて黙っているのか、本当に知らないのかは、なんとも言えない。


「だったら、アドバイスだ。どんなかたちでもいいから、できるだけ早くそのことについて打ち明けておけ。どのみち、最悪な結果になるにしても多少はましになるだろう」

「ありがと」


 とてもありがたく、そして四月からわかりきっていた事柄に関する助言。本当にありがたい。


 小山は俺を睨みつけたまま、一歩、また一歩と下がっていく。


「これは頼みなんだが、新学期になったらできるだけ話しかけないでくれ。更に言えば近付かないでいてくれるとありがたい」


 俺は少しだけ間を置いてから小さく頷いた。直後に友人は悲しげな顔をしたあと、静かに踵を返す。その後ろ姿をが見えなくなるまで見送ったあと、深く溜め息を吐いた。


 まったくもって、頭が悪いな、俺は。そう思い、天を仰ぐ。相も変わらず空は曇ったままだった。

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