翌日の昼過ぎ。手早く昼食を済ませた俺は、姉ちゃんとともに家を出ようとしていた。


「また、外出か」


 制服の上にコートを羽織っている最中、父さんの低い声が耳に入ってくる。振り向けば、不信感を隠さない表情がそこにあった。


「なんか学校を開放してるらしいし、ちょうどいいから行ってこようかなって」


 先日の件もあり、内心がささくれだっていたものの、できるだけ感情を表に出さないように心がける。


「梨乃も連れてか」


 訝しげな問いかけ。俺に聞かれても困る。


「私は私で高校に用事があるの」


 素っ気なく答える姉ちゃん。それに父さんは、


「お前はOGだろう。その癖、わざわざ休日に行くっていうのはどういうことだ」


 より疑問を深めたらしく、追求を続ける。


「OGだからって、遊びに行っちゃ行けないの」

「いや、そういうわけじゃないが」


 淡々と応じる姉ちゃんの返答に、言葉に詰まる父さん。当然ながら受験中の俺とは異なり、大学一年生の姉を縛る正当な理由が父にはない。とはいえ、縛りたいというのは穿ち過ぎで、ただ単に娘を心配するという親というだけなのかもしれないけど。


「昨日も司郎と連れ立ってたから、てっきり二人でなにかしているのかもしれないと思ってな」


 やや押され気味になりつつも、素朴な疑いを口にする父。姉ちゃんは小さく息を吐いて、


「大丈夫。司郎の邪魔になるようなことをするつもりはないから」


 と応じる。答え自体はどのようにも受けとれそうだっただけに、父さんはいまだに納得いっていないというような表情をしていた。


「ちょっと過干渉なんじゃないの、お父さん」


 机で紅茶を飲んでいた母さんが口を挟む。湯気で曇り気味の顔には苦笑いが浮かんでいた。


「帰ってきたばかりの娘や受験中の息子を心配するのが悪いことか」

 

 どこかおずおずとした調子で探るように問いただす父さん。母さんは小さく溜め息を吐いた。


「干渉し過ぎだって言っているだけで、良いか悪いかなんて一言も口にしてませんよ。何事も程ほどがいいんじゃないかってこと」


 父さんは少しの間、考えこむように黙っていたものの、程なくして、そうかもしれないな、と渋々と言った。


「悪いな、梨乃。長々と絡んでしまって」


 謝罪。首を横に振る姉ちゃん。俺はそれを確認してから、じゃあ、そろそろ行くね、と告げて玄関へと向かう。後を追うようにして母さんの、いってらっしゃい、と父さんの、気を付けるんだぞ、と言い含めるような声。そして、後ろから着いてくる足音。全てを耳にしながら、後ろ手をひらひらと振ってみせる。


 先んじて家を出ること十数秒後。白いダッフルコートを着た姉ちゃんが、お待たせ、と口にした。


「いや、半分くらいは俺のせいみたいなもんだし」


 少なくとも父さんが絡んでくるきっかけを作ったのは、おそらく俺の普段の振る舞いだとか、成績なんかなんだろう。端的に言えば、なにかとちゃんとできていない、と見られているということで、非情に腹がたつことこのうえなかったものの、色々と足りていないという自覚もあるので、反論もし辛い。


「なにそれ。自意識過剰なんじゃない」


 そんな内心を一刀両断するみたいな一言。姉ちゃんはいつも以上に仏頂面しながらも、俺に先んじて歩きだす。自然とその後を追い、すぐさまマンションの大玄関を潜った。どことなく空が曇り気味なせいもあってか、いつになく外気が冷たく感じられる。


「父さんとあんまり上手くいってないんだね」


 おもむろに切りだしてくる姉ちゃん。後頭部に隠れて表情は見えない。


「元からあんな感じだけどね。受験生になってからは当たりが強くなったかも」

「こっちも帰ってきてからずっと気を遣われてる気がする。ありがたくなくもないけど、ちょっとだけ窮屈かな」


 理由は違えど、二人とも父さんに心配されている。たぶん、母さんも同じような気遣いを見せているのだろうけど、今のところ表に出てくるもっぱら父の方だった。良くも悪くも、父さんは成果だとか事実だとか。そういう形のあるものをみせられるまで不安になる性質なのかもしれない。受験期になってなんとなく感じたのはそういうことだった。去年、姉ちゃんが志望校を変えると言った際も、学びたいのが日本文学だと聞いて、そんなに役に立たないものに時間をかけてどうするんだ、とまっさきに反対していた覚えがある。まだ、受験というものがやや遠かった時期だったけど、あの言い方自体は癇に障った。ただ、将来のために学ぶ、という観点で言えば何かと成果に結びつきにくい学問であるのはたしかなので、今となっては親としての不安の一部を想像できなくはない。そして、父の言うところの、役に立たないものを学ぶ場所へ姉だけでなくその弟も入ろうとしているのだから、何かと落ち着かなかったりもするのだろう。ましてや、受かるかわからないラインにいるともなれば尚のこと。


「結局のところ、成果で納得してもらうしかない気がするな。それでもたぶん、あんまり変わんない気がするけど」

「私の方はさっさと下宿に帰ればいいんだけど、今はどうしてもそういう気分にはなれないしね」


 姉ちゃんはどことなくやりきれないように小さく溜め息を吐く。ふと、帰省の理由が気になりだした。


「姉ちゃん」

「なに」

「今回帰ってきた理由だけど」

「前も言ったけど、ホームシックだよ」


 短く、それでいて力強い言い切り。俺もまた頷く。


「うん、それは聞いたよ。けど、他にも理由があるんじゃないの」


 尋ねる。特に根拠はなかったものの、なんとなくそんな気がしていた。


 立ち止まった姉ちゃんがおもむろにこちらに振り向く。無表情。しばらく口を開かないまま静かにこっちを見つめてきていた。どことなく弱々しく見える。


「わかった。特に理由はないんだね」


 引き下がった。姉ちゃんは顔色こそ変えていなかったけど、その実、ほっとしているように見える。


「そう言えば、姉ちゃんを呼び出した相手って赤坂だったよね」


 空気を換えようとそんな話を振った。すぐに頷かれる。


「こっちに来てるの、赤坂や小山には話さない方が良かったかな」


 先日の昼食の終わり際に姉ちゃんが今家に帰って来ていることを話したら、赤坂は例のごとく、会いたい、と口にした。どうやら、聞いてすぐに連絡したらしく、次の日の朝、寝惚け顔の姉に、今度小麦ちゃんと会う、と告げられた。俺は友人の気と仕事の早さを思うのと同時に、本当にあいつは受験生か、といぶかしんだ。


 俺の問いかけに姉は首を横に振る。


「いいよ、別に。美亜にもメールして教えてたし、遅かれ早かれ伝わってたでしょ」


 いたって落ち着いた口ぶり。それもそうか、と思いながらも、一応、許可は取っておいた方が良かったかな、と反省する。


 それにしても、日曜日とはいえ、既に卒業している姉ちゃんとまた登校しているのは少しばかり奇妙な感じがする。一緒に歩くことはちょくちょくあったけど、それが通学路ともなるとどことなく不思議な心地だった。


 広い四車線道路を行き交う車。対岸に見える青い看板の二階建て電気屋と赤い看板に黄色い文字が入ったファーストフード屋。足元のサツマイモ色のタイル。どれもこれも、三年間慣れ親しんだ道から見えるものだったけど、それもあと半年もしない内に遠いものになる。


 ふと、隣にいる姉ちゃんが変なものでも見るような目をこっちに向けているのに気付いた。


「どうしたの」


 尋ねかけると、姉ちゃんは、別に、と言ってから、


「なんか、妙に嬉しそうだったから、変だなって」


 と付け加えた。どうやら、そんな顔をしているように見えたらしい。あまり、自覚はなかったものの、出掛けの面倒くささからすれば、今は随分と気持ちが軽くなってはいる。


「姉ちゃんといる時は、だいたい嬉しいけど」


 割と本心に近くはあったものの、少々盛りすぎたかもしれない。姉ちゃんはいつも通り、あっそ、と流してすたすたと先へと行ってしまう。後を追いながらも、そうか今嬉しいのか、と思った。




 高校についてすぐ、部外者になっている姉ちゃんが入校許可をとるのに付き合っう。手続きはすぐさま終わって、姉ちゃんが歩み寄ってきた。


「じゃあ、行こうか」


 声をかけて促すと、姉ちゃんは首を捻った。


「司郎は勉強しにきたんじゃないの」

「うん。けど、その前に一応、赤坂に挨拶しとこうと思って」


 ただやってきただけだとつまらないしね。そんな風に思いながら、赤坂とはどこで会う予定なの、と尋ねた。


 姉ちゃんは少しの間、こめかみに人差し指を当てて目を閉じていけど、ゆっくりと開く。


「悪いけど、小麦ちゃんに一人で来てて言われてるから」


 なるほど。聞いてすぐに腑に落ちる。


「姉ちゃん」

「約束は守らないといけない」


 こっちが赤坂の居場所を聞きだそうとしていると警戒しているのか。けど、その心配はない。


「今、赤坂がどこにいるのか、当ててみようか」




 それから十分ほどあと、姉ちゃんには約束通り一人で行ってもらってから、あらためて赤坂がいるとおぼしき部屋の扉をノックする。


「誰だろ。どうぞ」


 力の抜けたおっとりとした声音を耳にするのと同時に、扉を横に滑らせた。中には、机の上でテキストを広げる赤坂とその近くで昨日と同じく文学全集に目を落とす姉ちゃん、部屋の奥から二人を見据えるクラスメートの村中の姿がある。呆然とする村中に向かって軽く頭を下げてから、


「入ってもいいかな」


 と尋ねる。村中は少しの間、固まっていたけど、どことなくか細い声で、どうぞ、と言った。俺はゆったりと室内へと踏みこんだ。途端に美術室らしい絵の具の匂いが鼻に入り込んでくる。


「リー先輩。シローにここに来るって言ったんですか」


 どことなく険しい顔をした赤坂が追求の言葉を姉ちゃんに向ける。姉は溜め息を一つ吐き、


「言ってないよ。っていうより、はじめから小麦ちゃんがここにいるって気付いてたみたい」


 なんて呟いた。赤坂は瞬きをしたあと、次に俺の方を見る。


「司郎はなんで、うちがここにいるって思ったわけ。もしかして、昼休みに後をつけたりしたとか」


 訝しげに聞いてくる友人。


「昼休み、村中とどっか行ってるなってなった時、だったらたぶんここだろうなって思っただけだよ」

「そうじゃなくて、どうしてミドリちゃんと一緒ならここだって思うかを聞いてるんだけど」


 まあ、そうなるか。考えをまとめるべく視線を天井の方に逸らす。薄汚れた白い升目の天井を臨む直前、キャンバスから顔をだすようにこっちを見る村中の姿が目の端に止まった。


「色々と状況証拠を繋げていったら、たぶんここだろうな、ってなったって感じかな。正直、二割くらいは外れかもしれないと思ってたし」

「うちは、どうしてって聞いてるんだけど」


 どうして、か。話自体は単純だった。


「きっかけは文化祭の時に、ミュージアム喫茶で壁に張ってある絵から、今回の文化祭号の絵を描いた人を発見したことかな。その下に『村中緑』って描いてあったから、色々と合点がいったというか」


 途端に赤坂が体から力を抜く。どことなくへにゃりとした顔をしつつも、ばれたか、なんて苦笑いを浮かべすらした。


「もっとも、うちも半分くらいはミドリちゃんの絵を見せるつもりで、ミュージアム喫茶に誘ったんだけどね。みんなお喋りに夢中で文化祭号の表紙を描いた人に気付いてないって思ってたんだけどなぁ」


 そこまで口にしてから、どことなく恨めしげな目を向けて、気付いたんなら言ってくれればいいのに、なんて付け足す。


「私も喫茶の壁に文化祭号の表紙を描いた人の絵があるのには気付いてたけど、知らない名前だったから特に何も言わなかったんだよ」


 会話に加わった姉ちゃんは、戸惑いの表情をあらわにする村中の方を見た。


「今日、小麦ちゃんに紹介された時も聞き覚えのある名前だとは思ってたけど、ちょっと時間が経ってたから、頭の中ですぐには文化祭号の絵を描いた人とは繋がらなかったんだ」


 ごめんね。そう言い加えた姉ちゃんに、村中は、めっそうもないです、とか細い声で応じた。


「むしろ、私の方から秘密にして欲しいって、赤坂さんに頼んでいたんです。そのぉ、恥ずかしくて」


 ここにやってきたからというもの、村中は終始おどおどしている。薄っすらと記憶に残る教室での彼女は、もう少し堂々としていたような気がしたので、おそらくこの場であるからだろう。その理由は色々と挙げられそうだけど、ここにさっきまでなくて今あるものという点からすれば、ほぼ間違いなく俺がやってきたからということになるだろう。やはり、考えなしにやってきたのはまずかったかもしれない。とにかく、ここはさっさと用事を済ませてしまうにかぎる。


「村中さん」

「は、はい」


 噛んだ、な。どことなく恥じ入るように口を押さえる村中を見てぼんやりと思ったあと、軽く頭を下げる。


「今日は何の挨拶もなくやってきてごめんね」

「いいの。美術室は誰でも入っていい場所なんだから」


 消え入るような声で応じ顔を伏せるクラスメート。


「そうだよ。せめて、前もってうちに話を通しておいてくれればいいのに」


 赤坂の言い分に、ごもっとも、と頷きながら、俺は再び村中さんに向き合う。


「今日は、お礼を言いに来たんだよ」


 あと、赤坂への顔見せ。心の中で付け加えた部分は言葉にしない。村中は、お礼ですか、と不思議そうに顔をあげる。俺は頷いてみせてから、


「文化祭号の表紙すごく良かった。ありがとう」


 簡潔にそう告げた。村中さんは目を丸くしたあと、


「どう、いたしまして」


 どことなく疑問系っぽく応じる。俺の中に残っていたしこりの一つが消えた。


「やっぱり、うちに言ってくれれば良かったのに」


 机の上のシャーペンの先っぽを何度もノートに押しつける赤坂のやや恨めしげな声。まったくもって、その通りだな、と思う一方、


「それはそうなんだけど、赤坂、ずっと秘密にしてたっぽかったからちょっと切り出しにくくて」


 言い訳がましいことを口にする。赤坂は小さく息を吐き出してから、


「司郎は文化祭の時にはもう知ってたわけでしょ。だったら、もう隠す必要なんてないから普通に引き合わせてたよ」


 呆れるように言った。それもそうか、と納得しながら、悪かったな、と応じてから、再び村中さんの方を振り返る。


「あらためて、今日は、色々とごめんね」

「ううん。そんなこと、ないよ」


 おずおずと答えるクラスメートの女子に、ありがとう、と口にしてから、姉ちゃんの方を見る。


「じゃあ、俺そろそろ行くけど。姉ちゃんは今日は何時くらいに帰る予定かな」

「ここでのモデルが終わり次第かな」

「俺は下校時刻いっぱいまで残ってる予定だから、その時に連絡を入れるよ。もし、残ってたら一緒に帰ろう」

「わかった」


 とりあえず、そそくさと約束をまとめ、またあとで、と告げてから、赤坂と村中さんを見た。


「じゃあ、そういうことで。悪かったね、二人とも」

「そうそう。シローはもう少し人の気持ちを考えられるようにならないとね」


 くすくすと笑う赤坂に、そうだな、と軽く応じながら、踵を返そうとする。


「水沢君」


 その行動を遮るようにして、村中から声がかかった。振り向けば、いつになく強張った顔をしているクラスメートの女子の姿がある。


「どうしたの」


 何か、まずいことをしてしまっただろうか。そんなことを思いながらも、おそるおそる聞き返す。村中は目を逸らしたり、顔を伏せたり、指先を合わせたり離したりと、どことなく落ち着かない様子だったものの、程なくして覚悟を決めたらしく口を開いた。


「少し、時間をもらえないかな」


 切り出された言葉の意図がわからず首を捻る。


「ちょっとだけだったらいいけど。なにをするの」


 村中は再び迷ったように目を泳がせていたけど、あまり間を置かず口を開いた。


「絵のモデル、やってくれないかな」


 飛び出してきたなかなかに大きな提案にたじろぐ。


「それってけっこう時間かかるんじゃないの」

「今日水沢君がするのって自習だよね。だったら、机と椅子は貸すからここでやっていったらどうかな」


 俺の懸念に対しての答えを最初から用意していたようなよどみのなさだった。


「いいんじゃない。うちも同じようにしてるんだし」


 村中さんに対してのたすけ舟なのか、赤坂がそんな言葉を挟んでくる。たしかにこの文芸部の同輩の机に乗っているのは、受験対策っぽいテキストだったりノートだったりした。


「私の視線が気になるかもしれないけど、それ以外は好きにしてもらってていいから。どう、かな」


 おそるおそるといった体で尋ねてくる絵を描くクラスメートの提案。


 ただでさえ思うように上手くいっていない現状、できるだけ静かなところで集中したいというのが本音ではある。とはいえ、比較的静かな実家や図書館でこなしてもさほど成果が上がっていない以上、どこでやってもさほど変わらないのかもしれない。加えて、不躾に訪問してしまったことに対しての罪滅ぼしをしたくもある。


「それくらい協力しても罰は当たらないんじゃないの。それに、ここでいい絵ができればシローも嬉しいでしょ」


 そうに決まっている、とでも言わんばかりの赤坂の物言い。実際にいい絵ができるということであれば、たしかにその通りではあった。


「赤坂さんが言うみたいにいい絵を描ける自信はないですけど、できればお手伝いしてくれると、とても助かります」


 いかにも気弱そうな声は、それでいて奥に強い芯があるように聞こえる。だとするならば、俺の返事は決まっていた。


「わかったよ、俺で良ければ喜んで」




 窓の外の曇り空は次第に分厚くなっていっているのがわかる。いつもの自習と同じく、やや頭の中でごちゃついている古典の文法を整理しながら、目の前の問題に取組んでいった。耳には同じように筆記具をノートに滑らす音や、ページが捲られる瞬間の微かな気配が入り込んでくる。元々休日の校舎内。遠くからの運動部の掛け声なんかも聞こえなくはなかったものの、平日に比べれば随分と静かだった。その静けさを縫うようにして、キャンバス上を張っている筆とおぼしき気配を耳は捕らえている。


 図画や美術の授業でお遊びを除けば、絵のモデルになるのは初めてのはずだった。そもそも、こういう話を持ちかけられることすら初めてと言える。ほいほい、赤坂に乗せられたという自覚はあったものの、実のところ、受験期であるということ差し引けば、興味深いと思っていた。身近で絵を描ける人というのは、それこそ文芸部の現部長の入江くらいのものだったけど、かの後輩にモデルになるように言われたことはなく、基本的には俺の視界外でイラストが完成していた。一方で、今回はしっかりと絵の中に組み込まれる当事者。村中は好きにしていいと笑顔で語っていたけど、自然と体も硬くなる。


 ちらりと盗み見る。エプロンをかけた村中が休まず手を動かしているのが目に入った。とはいっても、俺のいるところからは、体の大部分は画板に隠れてしまって捉え辛い。それでも、隙間から仄見えた目は、何かに憑かれているようだった。ごく稀にではあるものの、自分もああなっていると思しき時がある。所謂筆が乗った時。たまに記憶が飛んで、できた原稿だけが目の前に残されているということがある。今の村中もそんな感じなのではないのか。いや、そのような見た目なだけで、絵を描いている少女の頭の中では絶えず素早い計算がかわされていて、ただただ理性的に事が進められているのかもしれない。


 いけない。勉強をしにきたはずなのにもかかわらず、随分と引っ張られてしまった。この大事な時期に何もしないわけにもいかなし、少しでもあがかなくてはならない、と覚悟を決め、再び机に向かう。そのためにもより古語とお友だちにならなければならない。ありをりはべりいまそかり。基本をさらえばさらうほど呪文じみているなという実感。しかし、そこのところで今自分たちが使っている言語と繋がっているなということも意識する。目の前に広がる長文の荒野。端々に霧が立ち込めつつも大意を把握し、できそうなところから問題文を埋めながら、白い靄の中へと踏みこんでいく。一歩一歩と踏みしめていくにつれて、少しずつではあるが理解が深まる。後ろからは、現世の教室内の気配。それが段々と遠くなっていく。思考が澄み切っていった。


 霧が徐々に晴れていく。その中から一人の人影が出てくる。


 美亜姉。そう話しかけた彼女はなぜだか制服を着ている。もう大学生だった気がするんだけど。


 何言ってるの司郎。いつも通り、人を食ったような笑みを浮かべる幼なじみ。あたしたち、同級生じゃん。ああそうだったかもしれない、なんて考えると、同時にほら行くよ、とずかずかと進んでいく美亜姉の後を追う。


 たどり着いた先は夜の教室。電気もついていないのに、よく見渡せた。


 遅いよ、シロー。頬を膨らます赤坂。


 まあまあ、そう言うなよ。すぐ近くでなだめる小山。


 やあ、と美亜姉が声をかけるのに合わせて、紺のブレザーを着た沼田先輩が、おう、と鬱陶しそうに答える。お前も水沢弟も遅かったな。途端に美亜姉は誇らしげに胸を張り。真打は遅れて登場するんだよ。なんて言った。


 遅れるにしても始業前についていて欲しいんだがな。教壇の前で溜め息を吐く順ちゃん先生の溜め息。さすがに重役出勤が過ぎるぞ。もう夜になっちまってるじゃないか。


 すみません。頭を下げる。そうしながら、そもそもなんで遅れたんだっけ、と考えはじめたがなかなか答えが出ない。


 いやいや悪いね、順ちゃん、ちょっとネトゲがはかどっちゃって。悪びれもせずに頭を掻く美亜姉。呼応する先生の溜め息。


 いいから席につけ、授業はじめるぞ。


 なんとなく釈然としないまま自分の席へと移動する。その途中、後輩の入江や長谷部ともすれ違い、目線だけで挨拶をかわした。また後でね、と囁くように言う美亜姉に、頷いて応じながら窓際から見て二列目の一番後ろまでやってくる。


 遅かったね。窓際の一番後ろ、制服を着た姉ちゃんが静かに話しかけてくる。なんとなく懐かしく感じながらも、席に腰を下ろした。


 なんでか、わからないけど遅れちゃって。言い訳。実のところ、なぜなのかはよく覚えていない。


 あっそ。素っ気ない声で応じた姉ちゃんは、窓の外へと目線を移す。耳元に先生の気だるそうながらもしっかりと響き渡る声を耳にしながら、俺は姉ちゃんのふんわりとした髪に覆われた後頭部の方へと目を向けた。


 どことなく退屈そうな後ろ姿。その目線の先とおぼしきところに細かな星々に囲まれた三日月がある。俺もまた、授業そっちのけでその夜景を眺めた。そうやって、姉ちゃんを見ているとも夜空を見ているともとれる曖昧な感じに身を置きながら、ぼんやり、ただただぼんやりとこんな時間がずっと続けばいいなと思い、


  ほら、起きなよ。姉ちゃんの声が姉ちゃんがいるのとは反対の方向から聞こえた。これはいったいどういうことだろう。そもそも、俺は起きているのに。


 起きなってば。再び声。後ろを向く。赤坂が手を振っているばかりだった。となれば、姉ちゃんがいつの間にかテレパシーを使えるようになったとか。だとすれば、姉ちゃんはどこまでも大物で、


「起きろ」


 頬を引っ張られる。目の前にはいつの間にか、眼鏡越しの姉ちゃんの姿。服もブレザーから薄緑色のセーターに移り変わっている。どういうことだ、と思ったところでようやく我に帰った。


「おはよ。俺、どれくらい寝てた」


 確認をとると、姉ちゃんはスマホの液晶画面をかざす。十七時半。下校まであと三十分程。どうやら随分と時間を消費してしまったらしい。小さく溜め息。


「まじかぁ」


 再び机にへたり込むようにして顔を伏せる。直後に慰めるようにしてぽんぽんと肩を叩かれた。


「気を落とさないでよ。うちもよくやるし」


 まったく、慰めにならない赤坂の軽口。たしかに寝オチ自体はそれなりになくもないけど、こんなに長く寝てしまうと徒労感も大きい。そんな風になんとはなしに沈んでいると、さもおかしげといったような笑いが耳に入ってくる。声の方を見れば、村中がいつの間にか近くの席にやってきてスケッチブックを手にしていた。


「何か、おかしいことがあったかな」


 尋ねると、村中は、ううん、と首を横に数度振る。


「三人とも仲が良さそうでいいなって」


 スケッチブックを手にするクラスメートの言葉。あまりピンと来ない。


「そんなに仲良さそうに見えるかな」

「なに、シローはうちと仲良くないって言いたいわけ」


 背後に控えていた赤坂に頬を引っ張られる。


「いや、そうじゃないけどさ」


 たしかに否定はしない。ただ、言われるほどそう見えるかという点にはやや疑問がある。


 反射的に姉ちゃんの方を見やった。いつも通り、ニコリともせずに澄ました顔をしている。


「まあまあ、仲良いんじゃないの」


 俺の視線からどのような意図を読みとったのか。姉ちゃん側の素っ気ない口ぶり。言葉に対して、ちっとも響きと表情が伴っていない気がしたものの、とりあえず姉ちゃんの言葉を信じたかった。


「ほらほら。そういうところ。なんか、羨ましいなって」


 そんなことを言いつつ、村中は鉛筆を走らせている。うん、待てよ。


「ねえ、村中さん」

「なにかな」


 キョトンとした顔をするクラスメートの女子は、それでいて手を止める様子はまったくない。


「もしかして、今は俺を描いてるの」

「うん」


 即答。うん、そこまではいい。元より、ここに居座って勉強をはじめた時点でモデルになることは承諾しているのだから。問題はといえば。


「それで、いつからここで描いてるの」

「ええっと、三十分前くらいからかな。それがどうしたの」


 聞き返してくる村中さん。その目はスケッチブックの表面から離れていない。


「ということは、俺が寝ている時からってことだよね」


 一番、気になっていること。やはり、間を置かず頷かれる。


「うん。水沢君の寝顔いいなって思って、これは絶対描かなきゃなって」


 当然だろうと言わんばかりだ。とはいえ俺にとっては当たり前ではないわけで。


「たしかにモデルは引き受けたけど、寝顔はやめておいて欲しかったかな」


 控え目な反論。村中さんは、そうなんだ、と他人事のように言ってから、


「けど、水沢君のお姉さんは許可してくれたよ」


 別方面からの支援があったことをぶっちゃけた。思わず、姉ちゃんの方を見るけど、こちらも相も変わらず表情に変化はなく、


「モデルになるって言ったんだし、別に司郎の顔だって減るわけじゃないし」


 しれっと言う。


「いや、たしかに減らないかもしれないけどさ」


 けれど、最低限のエチケットみたいなものはあるんじゃないの。なんて心の中で愚痴りたくなるけど、当の許可をだした本人はどこ吹く風といった様子で、いい絵が描けるんならそれにこしたことはないしね、とモデル側の事情を無視する始末。直後に照れたように頭の後ろを掻く、村中。


「いい絵っていえるほどのものかはわかりませんが、こんな感じです」


 スケッチブックを皆に見せる。薄い筆圧で描かれていたのは、机の上に頭を転がし、いかにも安らかそうに寝る俺らしき男の顔。たいてい毎朝、鏡で目にしている慣れ親しんだそれは、こうして第三者としてみるとどことなく恥ずかしく感じられた。そして、なによりもあの表紙のタッチで描かれたこの絵は、とても綺麗なものに思える。


「いかがですか、水沢君」


 また、やや不安そうになって尋ねてくる村中に、俺は一つ頷いてみせた。


「いいと思う。うん、とても綺麗だ」


 素直に告げる。絵を描いてくれたクラスメートの口元が綻んだ。


「どう思います、リー先輩。あいつ、自分で自分のこと綺麗だとか言ってますよ」

「良いんじゃない。どう思うかは本人の自由なんだし」


 すぐ傍で囁く赤坂とぞんざいに応じる姉ちゃんのわざとらしいやりとりを無視したあと、再び村中さんに、


「ただ次の機会があるんだったら、俺にも許可をとってくれないかな」


 お願いする。スケッチブックを閉じて再び胸に抱いたクラスメートの女子は、そうだね、と同意を示したあと、


「だけど、起こしちゃうと寝顔は描けないんだよね」


 どうやら寝顔を描くのは前提条件らしい。恥ずかしいので次の機会はご勘弁願いたかったものの描きたいものを描けないのが耐え難いというのはわかる。


「じゃあ、少し手間にはなるけど、俺がやってきた時には前もって言っといてくれないかな」


 個人的な心情としては、たとえ断わられたとしても承服しかねたものの、全力でお断り申しあげるほどの拒否感もない。だから、妥協点として一言欲しい、というところを落としどころにしたかった。


「うん、わかったよ。また、お願いするかもしれないけど、その時はよろしくね」


 嬉しそうな顔をする村中。俺はほっと胸を撫で下ろす。窓の外を見るともうかなり暗くなっていた。


「村中さんはまだ残るの」


 首を何度か横に振られる。


「きりもいいところだったから、そろそろ帰ろうと思ってたの。だから、水沢君も起こしたんだけど。もしかして、時間ぎりぎりまで勉強したかったりした」

「いや。家に帰ってから仕切り直すよ」


 今からやってもたいした成果はあがりそうにない。だったら、比較的すっきりしていることだし、家で集中した方がいいだろう。若干、なんのために学校に来たんだろう、という自分に対する疑問が湧かなくもなかったけど、まあ、こういう日もある。


「ぐっすり寝たし、これで夜の勉強はばっちりだね」

 

 なぜか、得意げな赤坂がそんなことを言ってみせた。


「赤坂は寝こけなかったの」


 試しに聞いてみるものの、そんなことあるはずないじゃん、と笑われる。


「お昼までたっぷり寝てたから、かけらも眠くならなかったよ」


 誇らしげに胸を張る同じ部活のクラスメートの女子。時間だけで言えば、朝早くから家で勉強してた俺とそんなに変わらないかもしれない。少しだけ胸を撫で下ろしたものの、すぐに人がやっていないことにほっとしてどうするんだ、と自らを叱咤した。


 唐突に姉が俺の眉間を左手でつまむ。


「なに」

「皺が寄ってる」


 年取ると皺がついたままになるよ。そんなことを言って、優しく揉み解していく。指先からつたわってくるほのかな生温かさになんとはなしに照れくささを覚えながら、素直に受けいれた。


「シローの眉ってどんな触り心地ですか」


 面白半分といった調子で尋ねてくる赤坂に、姉ちゃんは、けっこう柔らかいんじゃないかな、と雑に答えてから、空いている方の手で、眼鏡のフレームに遮られた自らの眉間に触れる。


「たぶん、私の方が柔らかいかな」


 どことなく間抜けな物言い。笑いだしたくなったが、今つままれるところをぎゅっと握られそうだったので自重した。後ろからはふふふと楽しげな村中の声。


「もう、消していいかな」


 少し間を置いて電気のことか、と思い当たる。すぐさま頷こうとしたところで、そういえば、と、


「その前に、良ければでいいんだけど、今日描いてた絵って見せてもらえるかな」


 そんな提案をした。村中さんは、うんいいよ、と応じてから、


「気に入ってもらえればいいけど」


 と自信なさ気に付け加えた。そんなに謙遜しなくてもいいのに、などと素人ながら思ったりしたものの、ありがとう、と礼を述べてキャンバスまで近付く。既に画布がかかっていたので、とっていいのかどうか迷ったものの、さっきまで絵を描いていたクラスメートがゆったりとした動作でそれを剥ぎ取った。


 あらわれた絵には、夕方の美術室内で、各々の机に向かっている俺と赤坂らしき人物、そして椅子に座って本を読む姉ちゃんらしき人物が描かれている。一見すれば、見たままを写しとっているようだったけど、教室の入り口近くの席に着く俺を頂点として、姉ちゃん、赤坂が綺麗な三角形を描くように微妙に位置が調整されている。姉ちゃんの後ろの棚に置いてある男の石膏像や、壁にかけられた名も知らぬ男性の自画像なども淡いタッチながら細かく描かれていて、かなりの力作なように感じられた。


「この絵は、いつ頃から描いてるの」

「ええっと、学祭が終わってからかな。赤坂さんに付き合ってもらって描いてたんだけど、なんとなくもう少し人が欲しいなって思って」


 淀みない返答。それで赤坂越しに姉ちゃんが呼ばれたわけか。だけど、尚も疑問は残る。


「美術部の人には頼まなかったの」


 人数だけの問題であれば、それこそ仲間に頼めばいいのではないのか。村中さんは少しだけ困ったような顔をして、それはね、と何か言おうとする。


 直後に赤坂がやれやれといった風にため息を吐き出した。


「わかってないね、シロー」

「なにが」


 聞き返すと同じ部の仲間は、人差し指を立てて見せ、


「想像してみてよ。うちらだって小説書く時、登場人物は誰でもいいわけじゃないでしょ」


 基本的に駒に近いので役割を果たせれば誰でもいい。そう答えようとしてすぐに、その役割を果たすという必然性が、誰でもいいわけじゃない、にあたることに気付く。赤坂は、わかってくれたみたいだね、と前置きしてから、


「それと同じで、ミドリちゃんもこの絵を描くために、描きたい相手を求めていたってこと。って、言ってたよね、ミドリちゃん」


 ずかずかと言っていた割に自信がなくなったらしく、村中さんに確認をとる。絵を描くクラスメートはすぐさま頷いてみせた。


「赤坂さんはとても可愛らしかったから、知り合ってからずっと描きたいなって思ってて。文化祭後に念願かなってモデルをしてもらっているの。ただ、描いてるうちに、他の人も描いた方がいいなって考えはじめて、頭の中のイメージを話してたら、水沢君のお姉さんなんてどうって赤坂さんが紹介してくれて。その後に水沢君が来てくれたらもっといいイメージが浮かんで」


 そんな風に今描きだされた絵のあらましを語る村中さん。どうやら想像力が膨らみ続けた結果だったらしい。あるいは絵画内のおさまりの良さからするに、次々と浮き彫りになってきた不足した穴を埋めていったのかもしれない。感覚としてはやすりがけみたいなものだろうか。


「それでどう、かな」


 おずおずといった調子で尋ねてくる村中さん。俺はじっと目を凝らす。現実の外は暗くなっていて、既に絵の中の世界との時差が浮き彫りになりはじめていた。時計が周り明日、明後日となれば似たような色合いの美術室が現実にあらわれる可能性はある。それでもその色合いに彩られた教室は今日のものでしかなく、更に言えばそんな今日を閉じこめた絵の中にしかもはや存在しない。その淡い色に当てられた三人。絵の中で俺は難しげな顔をしていて、赤坂は楽しげで、姉ちゃんは無表情だった。つまるところ、現実とさほど変わりない、いつも通りが切りとられている。ただ、淡い色合いで描きだされたいつも通り、ついつい手を伸ばしたくなるような、そんな気分を喚起させた。


「とても、いいと思う」


 口に出した感想は随分とぼやけたものになる。


「文芸部員的に、誰でも言えるような感想ってのはどうなの」


そんなことを赤坂が言ったりしたけど、絵を描いた村中は首を横に振った。


「ありがとう。とっても嬉しい」


 村中さんの笑顔。邪気のないそれに、そっか、と応じ、再び絵へと視線を落とす。直後に後ろに誰かが立つ気配。それが誰なのか、消去法でわかった。


「幸せ、そうだね」


 ぼそりと呟いた姉ちゃんの台詞。村中さんへ向けられたのか、赤坂に向けられたのか、あるいは俺か姉ちゃん自身か。そのどれでもないように思いながら、絵の中の世界に視線を注ぎ続ける。そこには相も変わらず切りとられた瞬間があった。ただただなんてことない、それでいて心を焦がすような一瞬。


 そんなものがあったんだな、と自分事のはずなのに、ひどく他人のように感じられた。


「そうだね」


 なにに向けられたかもわからないのに、結局は肯定の返事を返す。少なくとも俺は幸せなんだろう。そう確かめるようにして思ったけど、何かが足りないような心地だった。


 窓の外からやってきた夜はキャンバス内にまで染みこんできている。

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