三
姉ちゃんが実家に戻って大学に通うようになってから一週間近くが過ぎ、やってきた休日。俺はその姉ちゃんとともに近所の図書館へと足を運んでいた。表向きの名目は自習であり、裏の実のところもまた同じだった。
日本史で苦手な文化史を中心とした問題を解いていく。対面ではゆっくりと分厚い有名な純文学作家の全集を捲る姉ちゃんの姿。眼鏡越しに無機質な視線を落とす姿はとても様になっている。
「がんばれー」
その姉の隣。声量を落として囁くようにして応援してくれる美亜姉がいる。厚手の白いスウェットを来た幼馴染は、活力に溢れた目を向けながら、時折手元にあるノートに手を入れていた。本人曰く、意地悪な教授から押し付けられた課題とのこと。普段の振る舞いからするに、その意地悪にいたるまでに美亜姉からのなんらかのちょっかいがあったのではないのかと勘繰ってしまったりもしたけど、あんまり突っつくとやぶ蛇になりかねないので気にしないことにする。
ずっと家で勉強するのは息が詰まりそうだと思った俺が図書館に行くことにし、だったら付いていくと暇そうにしていた姉ちゃんが切り出し、その姉経由で図書館に行くことを知った美亜姉がだったら自分も手を挙げて今にいたる。
ここのところ一際、俺と父の間がぴりぴりしているのもあって、日に日に家に居辛くなりつつあるのに比べて、周りがほとんど他人な図書館はかなり気が楽だった。それに加えて、近くに二人親しい人たちがいるのも程よく心を休めてくれる。
ノートに目線を落とす。元禄文化関連の問題。俺自身が小説を書いてたりするにもかかわらず、なぜかこの手の文化史の知識がとんと入ってこない。思うに興味範囲外ということなんだろうけど、楽しめないのは残念だな、という気持ちもある。うろ覚えの答えをノートに書き込んでいきながら、当てずっぽうになってしまっている段階で既に失敗な気がした。少なくとも、最初の本試験までには精度を上げておかなくてはならない。
さーさーとシャーペンがノートの上を走る。それに呼応するようにして似たような筆記具の音。ぱらりという微かなページを捲る気配。周囲の息遣い。微かな話し声や、遠くから聞こえる子供のものとおぼしき騒ぎ声。たしかにおおむね静かではあったけど、一人の来館者では操りきれない部分が多過ぎた。その制御できないところにわずかに集中力の足をとられつつも、自宅にはない見ず知らずの誰かの営みが楽しくもあった。もっとも、周囲が興味深くなればなるほど目の前の問題を解き明かすのに支障が出かねなかったので、もう少し真剣にやらなくてはとも思う。
そこから一気にまとめて五問ほど解いてから、きりがいいな、と顔をあげた。ちょうどはらりと姉ちゃんの手元でページが捲られる。さる有名作家の文学全集の真ん中くらいに到達しているように見受けられた。今日一日で読んだとすればかなり早く読んでいるはずだけど、たぶん違うんだろうな、と思う。こちらに気付く様子はなく、視線は紙の上を移動するばかりだった。
直後に膝にちょこんとなにか硬いものが添えられる。体を少し屈めて見下ろせば、見覚えのある薄茶色のローハーの裏側部分が俺のジーンズの上に乗せられていた。下手人とおぼしき人物の方を向けば、美亜姉が予想通りニヤニヤしながら俺の手元にあるノートを指差し、なにやらパクパクと口を動かしている。いい加減に読みとってみれば、し、ゆ、う、ち、ゆ、う、と言っているように見えた。まったくもってその通りだな、と思い、再び問題に立ち向かいはじめる。とにかく、やれるだけのことをしなければ。
それから試験対策問題と軽い復習を済ませると、ちょうどいい具合に昼になったので図書館を出た。さしあたって、軽くご飯を食べようということで、少し離れたところにあったイタリアン中心のファミレスに入る。
料理の値段がお手頃なうえにお昼時だったのもてつだってか、それなりに賑わっていたものの、待ち時間なしで窓際の四人掛けの席に案内される。図書館にいた時と同じく自然と二人で固まる年上の女二人に二つあるメニューのうちに一つを広げながら渡す。
「ありがとね」
素早く礼を口にした美亜姉は、すぐさまパスタのメニューを指差し、ねえねえこれとかどう、と姉ちゃんの方に勧めていた。対する姉ちゃんはぱぱっとペスカトーレとドリンクバーと決めてしまい、幼なじみから、もうちょっと悩もうよ、と大袈裟気味に言われて、悩む要素がないから、と素気無く応じてこそいたものの、その実けっこう楽しそうに見える。
「それで司郎の方はどうするの。ラムスティック、カツレツ。それともランプステーキ」
幼なじみの口から飛び出した得意げな提案は今の気分とは微妙にずれていたのもあり、じゃあマルゲリータにしようかな、と応じてしまう。
「肉食べないと元気出ないよ。午前中、ものすごく頭使ったんだから少しでも栄養つけとかないと」
「とりあえず、これくらいでいいよ。足りなさそうだったら足すからさ」
そうは言ったものの、予算的にあまり多く食べるというわけにはいかないため、たぶんこれだけになるだろうな、という気がしていた。
程なくして全員の頼むものが決まり、姉ちゃんが呼び出しのボタンを押すと、中年のウェイトレスのがやってくる。
「お待たせしました。ご注文をお願いします」
促されるままに、俺と姉ちゃんは予定通りマルゲリータとペスカトーレを注文する。続いて美亜姉が少しだけ間を空けてから、ドリアとラムスティックとサラダ、それにハンバーグプレートと全員分のドリンクバーを注文した。
「ご注文を確認させていただきます」
その後、ウェイトレスが淀みなくメニューを復唱したあと、少々お待ちくださいと引っこんでいく。
「随分、頼んだね美亜姉」
意外に思い尋ねると、幼なじみはニヤリと笑い、
「ハンバーグは司郎が食べてね」
得意げに言ってみせた。ここに来て、ようやく美亜姉の意図を察する。付き合いの長さが長さだけに、色々と見透かされてしまっているらしかった。
「私と割り勘ね」
即座に主張する姉ちゃんに、美亜姉は、いいよぉ、と掌を振ってみせる。
「十一月になってから、何度も三人揃って会えて、あたし、嬉しいんだよ。だから、今日くらいは奢らせてくれないかな」
気前の良い宣言に、姉ちゃんは短く考える素振りをみせたあと、
「それは私も同じだから、やっぱり半分ずつだよ」
ぼそりと付け加えた。途端に美亜姉は苦笑いをしてみせて、もうしようがないな、とこぼす。
「梨乃はずっと頑固だねぇ」
「美亜もね」
素っ気ない姉の声。どことなく嬉しさが滲んでいる気がした。
「えっと、普通に三人で割り勘にしない」
目の前で進んでいく事態にまったくかかわっていなかったことに気付いたのと、なんとなく仲間外れになっている気がしたのもあり、そう提案する。途端に向かいにある四つの目がいっせいにこっちを見た。
「無理しないでいいよ」
美亜姉の優しく語りかけるような声と、
「あんたはお小遣い少ないでしょ。だから、大人しく奢られておきなよ」
姉ちゃんの素っ気ない声音。どちらも色合いは違えど、俺を例外にする意思が籠っていた。
二人と同じように俺も嬉しいんだから出させて欲しい。付け加えようとしていた言葉の前に立ちはだかる年齢差と経済力の問題。それに欲望だけでいえば、たしかに人に出してもらうというのはありがたい。
「それじゃあ、よろしくお願いします」
結局、折れる。姉ちゃんは当然という素振りで頷き、美亜姉は得意げに、任せといて、と告げた。
たかが一歳差、されど一歳差。極めて近い距離での付き合いをしている二人だけに、普段はあまり意識しないけど、こういう時にそれはしっかりと存在しているんだな、と実感する。もっとも、今日の場合は単純に小さくない出費をしなくていいという旨みに乗ったという、俺自身の人間の小ささもおおいにかかわっているんだけれど。
目の前で姉ちゃんの頬をつんつんと突いている美亜姉。当の姉の方はやや鬱陶しそうにしながらも、それでいてまんざらでもなさそうでもある。ここら辺の気の置けなさは同姓ゆえかもしれない、なんて思ったりしたけど、この幼なじみは割と誰相手でも距離が近かった気もした。
とにもかくにもなんとなく年上二人が羨ましかった。
食事の合間も楽しげに喋る美亜姉に乗せられるようにして、結局、出てきた料理の半分ほどは俺の腹の中におさまることとなった。胃の中にあるたしかな満腹感。やや、眠気を感じてきたのもあり、ホットコーヒーを一口飲む。何も淹れてないので単純に苦い。
「そう言えば、司郎は今の高校の付属大学は受けないの」
唐突に尋ねてきた美亜姉は、ティーカップに入った紅茶とおぼしき琥珀色の液体を啜る。
「今のところは考えてないかな。特に受けたい学部がないから。本命は姉ちゃんの大学で、他に受けるとことかも県外が多くて、通えそうなとこは少ないかな」
言ってから、姉ちゃんは、特に受けたい学部がないまま付属大学に上がろうとしていたな、と思い出す。俺となにもなければそのままだったのかな、という罪悪感が少しだけ湧いた。
「そっか。遠くの大学に受かったら、寂しくなるね」
窓の方へと視線を逸らす美亜姉の目は悲しげな色合いを宿している。それを見て、俺は少しだけほっとした。
「と言っても、実家はこっちだしね。ちょくちょく帰ってくるとは思うよ」
そう言って、姉ちゃんの方を見る。姉は両手で持ったカップを傾けたあと、
「とにかく、まず受からないとね」
素っ気なく告げる。真理だった。
「そうだね。頑張らないと」
自然と力が入ってくる。今のところの手応えのなさ的に、心の中では不安ばかりが積みあがっていた。
「あたしとしては複雑だなぁ。梨乃とスグルに加えて、司郎もいなくなっちゃうってなると」
苦笑いが浮かぶ。美亜姉の横顔はいつになく儚げだった。
「一人だけ、取り残されるっていうのはちょっと堪えるかも」
なんてね。そう付け加え、窓から視線を離した。その時にはいつもの美亜姉に見える。
「いつかは、誰もが取り残す側か取り残される側にはなるんじゃないかな」
唐突に付け加えられた姉ちゃんの一言。ファミレス内のざわめきの間を縫うようにして空間内に響き渡る。途端に幼馴染みの表情が固まったように見えた。俺もなにを言っていいか考えがまとまらない。
「梨乃は一人取り残されるのって堪えないの。いや、そもそも梨乃にはそういう不安ってわかんなかったりするのかな」
やがて、放たれた言葉は穏やかでこそであったものの、喧嘩腰に見えた。姉ちゃんは首を横に振る。
「一人でいるのには随分と慣れたけど、このまま一人だったらどうしようって、時々、すごく心細くなったりする」
「じゃあ」
「できるだけ大切な人と一緒にいたいとは思うけど、最後はどうしても自分一人になっちゃうものだから」
硬い声音。口にしつつも完全には割り切れていないような。そんな感じがした。
美亜姉が不快気に眉を顰める。こんなあからさまに感情が表に出るのは久々に見た気がした。
「じゃあ、梨乃はあたしが一人取り残されるのも仕方がないって言いたいわけ」
「そうは言ってない。いやそう聞こえるように言ってたかもしれないね。ごめん」
頭を下げる姉。途端に美亜姉は困ったような顔になる。
「ただ、望む望まないにかかわらず、最終的に人は一人になってしまいそうだなって。だけど、そうなる前ならできる範囲で大切な人や親しい人に会いに行きたいし、会いに行こうと私も思っている」
姉ちゃんの顔に笑みが浮かんだ。不器用な感じがして作り笑いなのが見え見えではあったけど、敵意があるわけでないのは美亜姉にも伝わったらしく、
「あたしもごめんね。なんかちょっと神経質になってたかも。らしくないね、ほんとに」
こちらもいつもよりややぎこちなくはあったものの、微笑んでみせた。俺もまたかたわらでほっと胸を撫で下ろし、コーヒーを一口含む。ふと、姉ちゃんの視線がこっちに向いているのに気付いた。
「どうしたの。俺の顔になにか付いている」
尋ねてから口の中にあるぬるさと苦さを味わう。姉ちゃんは少し考えるようなそぶりをみせたあと、
「司郎も無理しなくていいから」
などと言ってみせた。
「何のこと」
本気でわけがわからず聞き返すと、姉ちゃんは湯気で曇ったとおぼしき眼鏡を拭きながら、
「無理に私の大学に来なくてもいいってこと」
そんなことを口にする。心外だった。
「無理なんて、してないよ。姉ちゃんの大学を受けるのは俺が行きたいからだよ」
できるだけ感情を表に出さないように努めるものの、どこまで実践できているのか心もとない。姉ちゃんは、眼鏡を嵌めなおしたあと、小さく溜め息を吐く。
「また、言葉足らずだったね。別に司郎が自分の意思を曲げてるとかそんなことを言ってるわけじゃないよ。ただ」
そこで一端、言葉を置いたあと、こちらをまっすぐ見据える。
「私と同じ大学に行くことだけがすべてではないって言いたかったの」
付け加えられた言葉は、ただただ承服しかねた。少なくとも、姉ちゃんが大学に受かってから今日までの間の大半の気力はその一点に注がれたのだから。
一方で、たしかに姉ちゃんの言うことはもっともであるという気持ちもなくはない。なによりも、ただただ距離をとろうと遠くに行こうとしてた高校卒業前の姉ちゃんと違って、今は思ったよりも帰省してくれる。だから、必ずしも同じ大学に行かなければならないという強迫観念に襲われたりはしない。
ただ、頭ではこの発言に一定の説得力があるのは理解していても、受験勉強が行き詰まりつつある今、言うのは止めて欲しかった。
「すべてだと思って集中した方がいい気がするけど」
苛立ちを隠しつつ軽めに反論してみる。そうしてから、この前から俺が嫌いはじめた論理だと気付き恥じ入る。
姉ちゃんは、それに答えず、デザートを頼んでもいい、と聞いてきた。その隣で目を丸くする美亜姉を見ながら、反射的に頷いてしまう。姉ちゃんは呼び出しのボタンを押したあと、
「焦るのはわかるけど、もう少し肩の力を抜いてもいいんじゃない。今のあんたは、自分で自分を追いつめてる気がするし」
そんな助言をした。直後にウェイトレスさんが来たのに合わせて、姉ちゃんはトリュフアイスを素早く注文する。そしてウェイトレスがいなくなったのを確認してから、カップを持って立ちあがりドリンクバーに向かおうとした。その途中で俺の方を軽くぽんぽんと叩いて通り過ぎていく。
半ば天災じみた姉ちゃんの動きに呆然とさせられた。向かいでは美亜姉がお冷やをストローの紙袋に垂らして蛇みたいに動かしている。
「珍しくいっぱい喋って驚いたね。もしかして、最近の梨乃ってあんな感じなの」
どことなく興味深げに尋ねてくる美亜姉相手に首を横に振って応じた。美亜姉はそっか、と苦笑いを浮かべたあと、
「梨乃の言いたいことの是非はともかくとして、あたしは司郎がこっちに残ってくれても大歓迎だからね」
そんな風に言ってみせ、もちろん司郎が望めばって話だけどね、と付け加える。
「俺の心は変わらないよ」
今のところは、なんて言い足そうとしてやめた。思いのほか、姉ちゃんの言葉に揺さぶられているのかもしれない。しかし、考えてみれば変な話だ。姉ちゃんが、俺の第一志望の受験に対して消極的というか控え目な反対なのは今にはじまったことではないのに。いざ、それがすべてではないと言われて動揺してしまうなんて。
俺は、姉ちゃんに、頑張ってほしい、とでも言われたかったのだろうか。
程なくして、ドリンクバーでコーヒーの補給を終えた姉ちゃんが戻ってくる。その途中、美亜姉がこちらに耳を貸すよう促してきたので、何事かと思い頭ごと近付けると、
「もしも、地元の近くの大学に通うようになったら、もっとあたしにかまってね」
なんて甘い声で囁きかけてきた。少々、どきりとしたものの、
「気が向いたら」
と返して頭を離す。距離をとると美亜姉は肩を竦め、
「つれないなぁ」
とどことなく悔しげに言った。
「何、話してたの」
帰ってきた姉ちゃんが座りながら尋ねてくる。美亜姉は得意げに笑って、
「受験が終わったら、デートして欲しいって話してたの」
そんなことを言ってみせた。姉ちゃんは、そう、と短く呟いてみせてからコーヒーを一口。静かな表情からは内心が窺えない。俺も釣られるようにしてカップに口をつけるけど、容器の冷たさがつたわってくるばかりで、肝心の液体が流れこんでこなかった。中をあらためてみれば、既に空になっている。
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