幸せ者
一
学生の本分は勉強。よく口にされる事ではあるし、受験生ともなれば尚のことだ。志望校の合格ラインに届くか届かないかといった程度の成績であるならば、尚、尚更だろう。
ぼんやりとそんなことを思いながら、机にかじりつくようにして、カリカリと鉛筆を動かしている。さっきからまともな音を立てるのは、紙にこすりつけられる鉛筆の芯と、心臓くらいのものだった。
目の前ある英語の長文読解問題は、解けるか解けないかは別として、既に過去問や模試などを通して似たようなものをいくつも目にしている。高校や夏期講習などで教えられた読解法に従い、優先順位を決めて一つ一つばらしていく。さながら、爆弾を解体するゲームみたいなものだろうか。もっとも、俺のうちには古い携帯ゲーム機が二台ほどあるだけなので、その類のソフトは友人の家でしかやったことがない。
思考が逸れた。心の底から逃げたがっているのかもしれない、と察し、あらためて集中力をあげなければと目の前の紙切れに神経を注ぐ。カリカリカリ、カリカリカリ。
タイマーが鳴る。小さく息を付き、天井の木目を見上げて目を閉じた。一秒、二秒、三秒。ゆっくりめに十秒ほど数えてから、瞼を開き、答えを書きこんだノートを覗きこむ。一応、解答欄はすべて埋めたものの、手応えはあまりない。いずれにしても、採点はしなくてはならない。ノートの上に置いた問題集をめくり、解答を確認。素早く○×を付けていく。
結果。想定より点数が低かった。溜め息がこぼれる。
既に十一月に入った。まだ時間はある、と自分に言い聞かせるほどの余裕はもうほとんどない。今はただ、このままでいいのか、という漠然とした不安ばかりが先立つ。欲しいものに手が届かないのではないのか。最悪の想像。そんなものを振り払おうと、復習に努める。
ふと、壁のカレンダーに目がいった。姉の学祭の最終日。すなわち、今日。
今から電車に乗ればまだ間に合うんじゃないのか。まだ、午前中なのだから。そんな誘惑にかられる。けれど、すぐさま首を横に振って、さっき自分でつけた赤いバッテンを見下ろした。この現実を前にして、自分で決めたこと。そう思い切り、ノートに手を添える。
*
当初はなんとか時間を作って姉の大学の学祭に行くつもりだった。けど、高校の文化祭を終えた時点で押し寄せてきたのは、このままじゃだめなんじゃないか、という思いだった。
受験に向けて全力で突っ走っている。俺自身としてはそのつもりだ。だけど、現状、父さんに指摘されたとおり伸び悩んでいる。こうして俺が足踏みしている間も、周りはどんどん成長を遂げていることだろう。
不安の根っこはどれもこれも周りでよく聞く話の焼き直しではあった。ただ、実際に、勉強以外の事柄で時間を潰している間、追い上げてくるものに更に差をつけられたりしたら、目も当てられない。
そんなわけで姉の学祭直前まで。ぐだぐだに悩みに悩んで、決断を下した。少し前まで、絶対に行く、と断言していたにもかかわらず、情けないにもほどがあるな、と悔やみつつも、姉に電話を入れた。
そっか。なら、仕方ないね。
いつも通りの平静な声音が、俺の中にある情けなさに拍車をかける。とにもかくにも、どうにかしなければ。そんな決意の元、休日は予定と異なり、自らのための更なる投資に費やされることとなった。
/
昼食中。ポテトオムレツをもしゃもしゃ食す。薄いハムと玉葱、ジャガイモと卵、それにケチャップが口の中で合わさる。慣れ親しんだ味。疲弊していた頭と空になりかけていた腹が満たされる感じ。
テレビ画面には朝ドラの再放送らしきものが映っている。
「どうだ、調子は」
既に自分のポテトオムレツを食し終えている父からの問いかけ。
「まずまず、かな」
実際はまずまずよりも悪い気がしたが、これ以上、ましな答えは思いつかない。
「漫然とやっているだけでは身にならないぞ」
百も承知な言葉。わかってるよ、と心の中で苛立ちつつ、
「そうならないようにしてるつもりだよ」
と答える。
「つもり、なんて弱い気持ちでどうするんだ。言い切るくらいの気持ちじゃなければ戦う前から負けるぞ」
どうやら、こちらの言葉はやる気のなさととられたらしい。ひどく心外だった。
「じゃあ、聞くけど。わからないことを断言できるわけ」
言い返すと、父さんは目を細め、
「だから、それくらいの気概を持たなければ、受かるものも受からないと言ってるんだ」
あくまでも気構えの問題であると主張する。父の言い分を頭では理解していた。けれど。
「結果がわからないことを、そうなるに決まっているって言うのって、すごい不誠実なんじゃないの」
口にしてから、頭に姉に文化祭に行くと約束したことを思い出す。そう。約束した。それなのにもかかわらず、俺は自分の力不足で。
目の前には冷えた父の眼差しがある。なにを言っているんだこいつは。口を閉ざしているけど、そんなような意思が読みとれる。
「だから俺にはつもりとしか言えない。不誠実な人間にはなりたくないから」
何を言っているんだこいつは。父さんが注ぐ視線と同じように、そんな言葉を自分にぶつけたい気分だった。
「呆れたな。お前の本気はそんなものか」
父さんの言葉。心底忌々しかったものの、そうとりたいならご勝手にどうぞ、とポテトオムレツをもう一口食した。顔を伏せている間も、額の辺りに視線を感じる。無視した。
「どう、シロ君。おいしいかな」
かたや何事もなかったかのような穏やかな母さんの声音。俺は短く頷いてから、
「うん、おいしいよ」
と応じる。
「そっか。良かった」
母さんの嬉しそうな声音。不愉快そうに鼻を鳴らす父さん。ただただもしゃもしゃと昼食をとる俺。テレビ画面内からは若手女優の情感が籠もった慟哭が聞こえてきた。
胸の中には苛立ちと不快さと自己嫌悪。それに一滴のケチャップの甘酸っぱさが混じりこんでいた。
午後はただただひたすら机に向かった。試験を想定した問題に時間制限をつけて説き明かし、終われば採点、即復習。赤本を使った本番に近い環境でのそれは、あまり良いとはいえない結果ばかり生み出し、ただただ疲れのみが堆積していった。
それからすぐ、母さんが持ってきてくれたクッキーを何枚か食べると眠気がやってくる。このまま午前中と同じように漫然と勉強をしてもあまり意味がない。そう判断して、ベッドの下の段に寝転がる。ここ何日かはずっと気分が悪く苛々していた。それが少しでも晴れないかと体を転がす。どんよりとした気分。かまわず瞼は重くなり、意識は薄れ、
*
目の前には色とりどりの花畑。その上をひらひらと飛んでいる。ただただ美しいものばかりがあった。ふわふわふわふわと自由に飛び回る。
ふと、一軒家を見つけた。その窓には退屈そうにこちらを覗きこんでいる人間の少女。眼鏡をかけた彼女。寂しそう。そんな気持ちのようなものに誘われて、ふらふらと家へと近付いていく。そして窓際に寄ったところで、少女の手が伸びた。その指先に止まる。とても温かく居心地がいいと思い、寄りそう。程なくして両掌に包まれる。暗くて、狭い。けれど、なんだかとても温かい。ずっとここにいたい。そう思って、狭い場所の中でじっと眠りにつく。平穏。ずっと平穏だった。
それからとてもとても長い時間が経ったあと。空間が開ける。いつの間にか外も暗くなっていて、目の前には少女がぼんやりとこっちを見ていた。少女のことをこの上なく綺麗だと思う。いつの間にか体大きくなり、羽だったものが黒い毛むくじゃらな腕になった。その両腕で少女の左腕を抱きこんでぶら下がる。しっかり掴めて嬉しく思った。程なくして頭の上に少女の右掌が伸びる。優しく撫でられた。とても嬉しく思う。このままずっといたくて、いつまでもいつまでも少女に甘えたいと思う。月明かりに当てられながら、少女の腕にいつまでもぶら下がって、
/
ぼんやりと目を開く。頭を撫でていた柔らかいものの動きが止まった。
「あっ、起きた」
緑色のセーターを着た女性が、丸眼鏡越しにこっちを見下ろしている。
「姉、ちゃん」
「そうだよ。それ以外のなにかに見える」
聞かれて首を横に振る。姉ちゃんは、指先を俺の目の下に当てた。
「クマ、濃いね」
「そうかな」
「うん、濃いよ」
素っ気なくそれでいてはっきりとした声音。人差し指が目の下をなぞる。
「今、何時」
「八時くらいかな。母さんがこれから夕飯だって」
起きられる。そう尋ねてくる姉ちゃんに、いつにない優しさを感じた。ようやく頭に血が巡りはじめて、
「姉ちゃん、今日は打ち上げだったんじゃないの」
素朴な問いかけ。事前に聞いていたかぎりだと、これから学祭の打ち上げがあるはずだった。ここにはいない、はずだ。
「疲れたから、早めに帰らせてもらったんだよ」
返ってきた答えもまた単純なものだった。元より、人の多いところとか騒がしいのがそれほど得意じゃない姉ちゃんのことだから、さほど不自然というわけではない。ただ、
「だったら、うちまで帰ってくるのは、もっと疲れるんじゃないの」
こっちまで帰ってくる理由としてはやや弱い。なにせ姉ちゃんの下宿から実家までは移動だけでも電車で一時間半ほど。より疲れてしまいかねない。
姉ちゃんはじぃっとこっちを見下ろしながら、ベッドに腰かける。
「司郎は私が帰ってくるのは迷惑だった」
落ち着いた口ぶりで質問に質問を返してきた。首を横に振って応じる。
「そんなことは、ないよ」
「そっか。だったら良かった」
胸を撫で下ろす姉。その間も、掌は俺の顔のいたるところをもてあそぶように撫ぜていく。
「なんかあった」
反射的に追求しようとした。根拠らしい根拠は、いつもより柔らかいというガワの印象だけだったけど、それだけでも十分な気がする。姉ちゃんは眼鏡の奥で瞬きをしたあと、
「特になにかあった覚えはないけど」
静かにそう答えた。ごまかそうとしているのか、それとも本当に心当たりがないのか。どちらとも判断を付け難い表情。そんな中、姉ちゃんは、
「ホームシックなのかもね」
普段、あまり縁がなさそうな言の葉を紡ぎだす。
「それ、本気で言ってるの」
口にしてから、親しき仲であっても失礼な物言いな気がした。案の定、頬をやや強くつまみあげられる。
「私がホームシックになるのがそんなにおかしいかな」
「いや、そういうわけじゃないけど」
なんというか、仮に本当にホームシックだったとしても、自分からすすんで認めようとはしない。俺の中にある姉ちゃん像にはそんなところがあった。
「っていうか、この前、帰ってきたばっかりじゃなかったっけ」
この間の高校文化祭二日目の後にあったことを思い出す。自分のクラスと図書館でその日の分の片付けとほんの短い打ち上げを終えたあと、家に帰ると姉ちゃんと美亜姉が待ち構えていた。結局、後日下宿へと戻っていったけど、短いながらも姉ちゃんは実家に泊まっていった。
「帰省は何度してもしたりないもんだよ」
どこかしみじみとそんなことを呟いてみせる姉ちゃん。まだまだ、実家に厄介になっている俺にはよくわからない。
「そういうものなんだ」
「そういうものだよ」
答えた姉ちゃんは、俺の顔から掌を引っこめる。少しだけ心細かった。
「そろそろ、行くよ」
何に、と尋ねそうになったあと、これから夕食だと思い出す。言われてみれば、腹が減ったような気がした。うん、と応じて身を起こす。先に立ち上がった姉ちゃんの髪がふわっと広がった。
「姉ちゃん」
「なに」
無機質に応じる姉。俺はその顔をまっすぐ見ながら、
「ごめん」
ここのところずっと言いたくて仕方がなかったことを吐き出す。姉ちゃんは髪を抑えて首を捻り、
「何が」
と聞き返してくる。言わなくてもわかってそうに思えたけど、通じているともかぎらないので言葉にしようと決めた。
「学祭、行くって言ってたのに行かなくて」
レンズ越しの目は縮まったように見える。
「それはこの前、電話で言われた」
「顔を見てもう一度言いたかったから」
端的に言えば自己満足だった。そして、後悔はその自己満足を果たしたところで拭えない。姉ちゃんは目を逸らさず、じーっとこっちを見つめたあと、
「そう」
と短く答えてから、ぽんぽんと俺の頭を軽く叩いた。少しの間、黙って受けいれる。薄っすらと温かく、そして少しだけこそばゆくもあった。やがて、姉ちゃんは手を引いたあと、部屋の出入り口の方へと踵を返す。
「しばらく、こっちから通おうと思うんだ」
おもむろに言ってみせる姉ちゃん。どうして、という疑問がすぐ湧き尋ねよう思い立つが、再びこちらに振り向いた姉の顔に目を奪われる。
「だから、またちょっとの間、よろしく」
途切れ途切れに告げてから、今度こそ踵を返し、子供部屋を出ていった。俺はその後ろ姿を見送ったあと、どことなく寂しげな姉ちゃんの無表情について考えを巡らそうとして、
「シロ君、ご飯、冷めちゃうよー」
母さんの大きな呼び声に断ち切られる。すぐ行く、と応じたあと、今は考えても仕方がないか、と部屋を飛び出した。この匂いはビーフシチューだろうか。
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