四

 それから十数分ほど。お客さんがいない合間をぬって旧交を温めたり、新たにやってきたラフな格好をした中年男性二人を見ていっせいに黙りこんだり、その間俺と赤坂以外はラウンジに引き上げ声を潜めつつ雑談を楽しみはじめたり。とにかく、次の店番担当がやってくるまでの時間を潰した。


「お待たせしました、水沢先輩に赤坂先輩」


 昼少し過ぎ。予定していた時間より少し早めに担当の片割れ現部長の入江がやってくる。図書館に入った途端、足を止めてラウンジの方を見やった。急に静止をかけたせいか、三つ編みが揺れる。こころなしか、かけている四角いフレーム眼鏡の奥にある目がすぼまったような気がした。


「やっほ、霧香ちゃん」


 元気に手を挙げる美亜姉。入江は眼鏡をずらしてから、どうもと頭を下げる。


「入江、そんなに堅くならないでいいから。いや、この言い方がまず堅苦しいか」


 久しぶりに会ったせいか、どことなく距離感をはかりかねているような沼田先輩。入江も、ああはい、とどう応じていいかわからず戸惑っているように見える。


「久しぶり霧香ちゃん。元気だった」


 そんな中、一際優しく聞こえたのは姉ちゃんの声だった。言い方自体はいつも通り素っ気なさの塊みたいなもののはずなのに、そこからは後輩に対する素直ないたわりみたいなものが感じられる。入江は、はい元気です、と今日一番力の入った声で応じてから、ようやく頭をあげ、照れ臭そうに、


「お久しぶりです、先輩方。卒業式以来でしょうか」


 あらためて挨拶を交わした。


「そうだね。もう少し、遊びに来た方が良かったかな」


 どこまで本気なのか首を傾げながら尋ねる姉ちゃん。入江は、いえ、先輩たちが好きな時に訪れていただければ私としてはとても嬉しいです、と顔を伏せながら応じる。


 姉ちゃんの隣に座る美亜姉が後ろからその肩を抱く。


「そうだよ。梨乃は出不精過ぎ。もう少し、あたしと遊ぶべきだよ。あっ、もちろん後輩ちゃんたちともね」


 そう告げて、今度は入江の方を見やった。


「そう言えば、あたし、それなりにこっちに遊びに来てるけど、なかなか霧香ちゃんと会えないよね。あれ、ちょっと不思議だったんだけどな」


 どうしてかなぁ。不思議そうという体を作りつつも、実のところ答えはわかっているという物言いに、それは、たじろぐ入江。直後に視線がこちらに向く。俺が、もう少しであがりだし、と自らに言い訳をつけて入江の元に駆け付けようと立ち上がろうとしたところで、


「その辺にしといたらどうだ譲原」


 ラウンジの丸テーブルの向かい側に座っていた沼田先輩がここに来て美亜姉に口を挟む。美亜姉はひるまず、なんで、と無邪気な風を装って聞き返した。


「あたしはただ、霧香ちゃんで楽しく遊び、もとい霧香ちゃんと楽しく遊びたいと思っているだけなんだけど」

「お前の遊びは、その前に、もて、がつく感じのやつだろ。とにかく、傍からみてるといじめみたいに見えるぞ」


 少々不愉快そうな沼田先輩の表情。それに美亜姉は、へぇ、と微笑む。


「それは心外だなぁ。あたしはただ楽しくやりたいだけなのに」

「お前の楽しいが他のやつの楽しいと重なるとはかぎらないだろうが。もっと、周りを見て喋れ」


 一方は険しい表情で。もう一方はただただ愉快そうな表情で。見つめ合い、あるいは睨みあっているのかもしれなかった。


 その間で板ばさみになっている入江がたじろいでいる。今の学年に上がってからというもの、毅然とした部長としての態度しか見てなかっただけに、その姿は俺の目にやや不謹慎ではあるものの新鮮に映った。とはいえ、このまま放っておくと入江だけでなく、沼田先輩と美亜姉までこの喧嘩を引きずったまま一日を終えるかもしれない。


「二人とも、ちょっと落ち着いてください」


 口を挟む。途端に複雑そうな表情を浮かべた沼田先輩と静かな笑みを称えた美亜姉が振り向いた。


「俺は落ち着いてる。ただ、譲原を」

「いいえ、熱くなってます。気付いてないかもしれませんが、譲原先輩の煽りにやられて熱くなってます」


 こちらの指摘に沼田先輩は苛立ちをあらわにしたもののすぐさま矛をおさめる。


「心外だなぁ。あたしは霧香ちゃんとスグルと楽しくお話してるだけなんだけど」


 一方、当事者の美亜姉はただただ知らんふりを決めこんでいた。その表情は、噓です、すべてわかってやってます、と語っている。


「だったら、会話を楽しむのは落ち着いてからにしてください」

「ええ、あたしは落ち着いてるよ。司郎こそ熱くなってるんじゃないの」


 どことなく神経を逆なでするような物言い。この会話に付き合うときりがないとわかっていたので、無視して、ことのなりゆきを不安げに見守っている入江の方を向いた。


「入江さん。お昼は食べた」


 そう問いかけると、入江は何度か瞬きをしてから、首を横に振る。俺はこれ幸いと言わんばかりに、あらためて腰をあげた。美亜姉が、もしもしぃ、とか話しかけてきたけど、聞こえないふりを決めこむ。


「じゃあ、当番の前にお昼ご飯を買いに行こうか。赤坂、もうちょっとだけ任せられるか」


 隣に座る赤坂に尋ねると、ああうん、とどことなく気の抜けた声で頷かれる。


「でも、そろそろ私の担当時間ですし」

「幸い、人だけはいるからなんとでもなるよ。最悪、そこら辺にいる元気なOBOGに任せてもいいんだし」

「いや、それはさすがにまずいんじゃ」


 呆れたような現部長の声。普段のはきはきとした調子が戻ってきたのを確認し、一安心する。


「それは冗談にしても、赤坂がいるから大丈夫だよ。もう少ししたら、西田さんも来るだろうからついでにそっちの分も買ってくれば一石二鳥だ」


 一年の西田は昨日もお昼ごはんを食べてなかった。その経験を生かして前もって買ってくる可能性もあったが、半年ほどの付き合いから察するに今日も買ってこないまま来る気がした。


「だけど、私は自分の当番時間は空けたくないです」


 ブレザーの上から胸元に手をあてて控え目に主張する入江。真面目だなぁ、と他人事のように思いながら、笑みを作る。


「入江さんはよく部長をこなしてくれているけど、元部長としてはここのところ頼ってくれなくなって少し寂しかったんだよ。だから、こういう時に使ってくれると嬉しいなって」


 言い終わった途端に、微かな照れくささが顔に競りあがってきたが、なるべく表に出さないように心がけた。入江は、はぁそんなものですか、とすっかり冷静さを取り戻しているのも、恥ずかしさに拍車をかける。


 直後にぽんと肩に手を置かれた。振り向くと、赤坂が妙に嬉しそうにしている。


「シローだけにいい格好はさせられないね」


 そう告げると同時に腰をあげたかと思うと、俺の背後にやってきて両肩を下に押し再び着席させた。こちらが呆けている間に、赤坂は早歩きで入江へと歩み寄り、その手を握る。


「じゃあ、お昼買いに行こうか」

「でも」


 尚も躊躇いを見せる入江に、赤坂は俺を指差しながら、


「あそこにいるかっこつけた先輩の顔を立ててあげなよ」


 なんて言ってみせたあと、優しく微笑み、


「それにお腹が空いてると力が上手くだせなくなるかもしれないよ。キリカちゃんは今日これからずっと店番でしょ。だったら、いっぱい食べないと」


 強く後輩女子の手を握って引きずっていく。


「手を離してください。一人でも歩けますってば」

「いやいや、キリカちゃんってば真面目だからね。うちが目を離したら逃げちゃうかもしれないし」

「もう、そんなことしません。だから離してください」

「それはどうかな~」


 同輩女子と後輩女子はそんな会話をしながら図書館から出て行った。後にはOBOGたちと俺が残される。三人の視線はこちらに集中していて、なんとも気まずかった。


 長机の上に乗ったダンボールの方に視線を逸らせば、状況がわかっていないらしい子供連れの主婦が面食らった顔で、俺とOBOGの間で視線をさまよわせている。お客さんがいるのにもかかわらず、騒ぎすぎてしまったなと反省し深く腰かけた。とりあえず西田さんが来るまでは静かにしていよう。


 直後、隣に誰かが腰かける気配がした。見れば、姉ちゃんが座っている。


「えっと、姉ちゃん」


 立てたばかりの、静かにしていよう、という気持ちをさっさと廃棄し、囁くように話しかけた。姉ちゃんは無表情のまま、


「OGに任せるつもりだったんでしょ」


 なんて、さっきの俺の言葉を拾って応じる。


「いや、そうは言ったけど」

「現役生が他にいるんだったら遠慮するけど、まだ代わりの人員が来てないみたいだし。緊急避難だと思ってくれればいいよ」


 しれっと口にする姉ちゃん。


 いや、古本市の店番が二人いるのは念のためだし、なんなら一人でも足りるし、そういうのは去年までここにいた姉ちゃんならわかってるでしょ。目線でそう訴えかけたが、姉ちゃんは動じず静かに座りこんでいる。


 堅いことは言いっこなしか。姉ちゃんに譲る意思がないのを確かめるや否や、俺は小さく深呼吸をした。


 唐突に柔らかいものがスラックス越しに膝頭に触れる。確かめるまでもない。隣に座る人の掌だった。


「えっと、姉ちゃん」


 たしかめるように尋ねたあと、姉ちゃんは空いている方の人差し指を口の辺りに立てる。表情に変わりがないせいか、とんでもなく色気がない。


 掌は膝頭から付け根の方へと何センチか動いたかと思うとまた戻ってくる。要はなんでかわからないけど、撫でられていた。


「私、去年もここに座ってたんだよね」


 誰に言うでもないぼんやりとした調子の声。話しかけられているのか、そうでないのか判断がつかないながらも、そうだね、と同意を示す。


「大学生になったんだね、私」


 感情の色合いが薄い声。それでいて、どこまでもしみじみとした感じがひどく心を揺さぶる。


「あと半年で卒業か」


 俺もまた呼応するように呟いた。答えは求めていなかったけど、


「いつかはどうしても訪れるものだからね」


 なんて見も蓋もない返事。水を差されたような、あるいは求めていたような答え。笑みが漏れる。


「もうちょっとだけいつかが伸びて欲しいね」


 古本の敷き詰められたダンボールの前にいる客は、若い西洋人のカップルらしき人に変わっていて、ラウンジでは美亜姉と沼田先輩が言い合いのようなじゃれ合いのようなやりとりを繰り返していた。


「いつまでもこのままではいられないからね」


 素っ気ない答え。どことない歯痒さが纏わりついている気がした。俺は動き続ける姉ちゃんの手を捕まえる。


「できるだけ、長く、楽しくやれればいいな」


 姉ちゃんの掌は少しの間、抵抗するように上下に揺れたものの、程なくして動きを止めた。


「ほどほどにね」


 窓越しの日差しは、わずかな温かさを伴っている気がする。




 それから程なくして、昨日と同じく昼飯をとり忘れた西田が駆け足でやってきて、それからすぐに買出しに行った赤坂と入江が戻ってきた。再び姉ちゃんと入れ替わって隣に座った赤坂と俺で、後輩二人が昼食を終えるまで店番をこなしてから、あらためて自由時間に入った。


「こうして学校を歩くのも久々だな」

「甘いね。あたしは今もしょっちゅう顔出してるから、慣れたもんだよ」

「それ、自慢できることじゃないから」


 自然と沼田先輩、美亜姉、姉ちゃん、それに赤坂をともなって祭りを回ることになった。


 元々、姉ちゃんとは回るつもりではあった以上、事前に一緒に楽しもうとメールを出してきた美亜姉はもちろんのこと、この二人と仲が良い沼田先輩が付いてくるのは折りこみずみだったし、自由時間が一緒な関係で赤坂も同じようについてくるんだろうなというのは予想していた。それにしても大所帯だな、と思う。もちろん、もっと大勢で回っている人もいるにはいるのだろうけど、去年まではもう少し少ない人数で祭りを楽しんでいたのもあり、新鮮ではあった。


「先輩たちはどこか行きたいところありますか」


 先行する赤坂が振り向きながら、三人に尋ねる。


「とりあえず、なんか飯を食いたいかな」


 沼田先輩の無難な答え。俺も家で朝ご飯をとって以来、何も胃に入れてなかったので賛成だった。


「そうだねぇ。腹が減っては戦はできぬ、なのはあたしらも霧香ちゃんも同じだからね」


 両掌を重ねながら後頭部に当てる美亜姉は、さっきの図書館内でのぐだぐだを引きずるような物言いをしつつも、賛意をあらわにする。


「なんか食べたいものはありますか」

「とにかく祭りっぽいもの」


 尋ねる俺に、最も早く反応したのは意外にも姉ちゃんだった。やや食い気味な口ぶりに驚き瞬きする俺の前で、祭りっぽいねぇ、と沼田先輩が腕を組んで眉間に皺を寄せる。


「少しぼやっとし過ぎてるな。第一、文化祭なんだからどこもかしこも祭りっぽいでいいんじゃないのか」


 無粋かつそりゃそうだという指摘。姉ちゃんは、


「祭りにでもならないとなかなか食べなさそうなやつがいいかなって」

 

 相変わらずなんとも言えない条件をつけてくる。飲食店自体はやや少なめなこの文化祭であっても、該当する場所はそれなりにあった。


「じゃあ、あそことかどうかな」


 美亜姉が指差した先を見て、自分の顔が強張るのがわかる。少し遅れて同じ方を見た赤坂も、あそこかぁ、と頭を掻いた。その先には、黒地の看板の上にでかでかと、たこ焼き屋と書かれていた。


「どう、いかにも祭りっぽいでしょ。ちょっと並びそうだけど、見てるとけっこう早く食べられそうだし」


 そんな美亜姉の言葉の通り、いくらか作り置きでもされているのか、あるいは作っているものの手際がいいのか、たこ焼き屋の列はけっこうな速さで消化されていってる。


「いいんじゃね。まずは少しでも腹を埋めたいし」


 反射じみた速度で頷く沼田先輩。俺は、それとなく、別のところに行きませんか、と提案しようとしたが、


「そうそう。兵は神速を尊ぶとかいうらしいし、早く行こ行こ」


 返事を聞く前に早足気味に列の最後尾に向かう美亜姉を止められず、仕方なしに後ろにつく。


「ねぇ、シロー。大丈夫かな」

「都合よく表に出てるかどうかはわからないし、仮にいたとしても向こうも事を荒立てたりしないだろ」


 同じ懸念を抱いているであろう赤坂とひそひそと言葉を交わす。赤坂は、いやそうかもしれないけど、後が怖くない、と面倒くさそうな声で応じた。俺も似たような事を思っていたけど、もはやこうなってしまっては結果を待つほかない。


「あのたこ焼き屋になんかあるの」


 大学生三人組の一番後ろについてた姉ちゃんが首を傾げる。声音も俺らに合わせたのか、自然と小さめだった。俺は赤坂と顔を見合わせ、


「なんかあるっていうか」

「別にたこ焼き屋自体には何の問題もですし、おいしいと思うんですけどね」


 そんなことを言い合う。姉ちゃんは益々訝しげな顔をした。別に隠すことじゃないな、と口を開こうとしたところで、


「あれれ、小山君じゃん」


 いつの間にか最前列にたどり着いていた美亜姉の元気な声音が響き渡った。声の方を見れば、嬉々とする美亜姉とあからさまに嫌そうな顔をする小山の姿がある。


「いらっしゃいませ。ご注文をどうぞ」


 嫌悪感こそ隠さないものの、小山はマニュアル通りの接客で応じていた。


「たこ焼きを五箱お願い。それにしてもそのエプロンに合ってるね。クラスで作ったの」


 一方の美亜姉はまったく物怖じせずに、注文をしながらそんなことを尋ねている。普段通り、実に楽しげだった。


「申し訳ございません、お客様。ただいま、大変混雑しておりますので、私語は謹んでいただけませんでしょうか」


 小山の眉の皺が薄っすらとではあるがはっきりしだしたように見えたが気のせいかもしれない。とにかく、今の小山は見る人が見れば紛れもなく不機嫌だと断ぜれたものの、面識がなければ、まあわからない程度の接客ではあった。


「ごめんごめん。知ってるかもしれないけど、あたしってばどうにも無駄なことばっかり喋っちゃうもんだからさ」

「ですから、お客様」

「うん、わかってる。だから聞き流してもらってかまわないから」


 明らかに非常識な物言い。小山はそそくさと作り置きとおぼしきたこ焼きの箱を用意しはじめるものの、数が足りないせいか、隣で大型のたこ焼き用プレートの前に立つ同級生に視線を送っていた。


「おいおい。小山に迷惑かけるなよ」


 一番近くに並ぶ沼田先輩が美亜姉を嗜める。美亜姉は小山の方を向いたまま、


「親しい後輩を見かけると、ついつい口が動いちゃうたちなんだよね、あたし」


 なんて悪びれるでもなく言ったあと、そこら辺はスグルもよく知ってるでしょ、なんて付け加える。列の方とプレートの間で視線をさまよわせている小山の目が尖ったように見えた。


「そこら辺はお前の事情だ。押し付けられる方の身になってみろ」

「う~ん、そういう言い方はあんまり好きじゃないけど、たしかに迷惑になるのは本意じゃないしね」


 美亜姉は、沼田先輩の発言を煙たがっているようではあったけど、元々自分に理がないのには自覚的であるからか、比較的あっさり引き下がり、


「ごめんね、小山君。さっきも言ったけどついね」


 頭を下げる。小山は険しい表情を変えないまま、


「いいえ。わかっていただければそれで」


 素っ気なく応じた。こころなしか顔をあげた美亜姉の顔は寂しげだった。


「小山君って美亜と仲悪かったっけ」


 遅れて事態を察したらしい姉ちゃんが、俺と赤坂にひそひそと尋ねる。俺は、そうらしいんだよね、と控え目に頷いてみせた。


「いつからかははっきりとわからないんですけど、少なくとも美亜先輩が遊びに来るようになってからはぎこちないですね。って言っても、うちの見るかぎり、コヤ君が一方的に嫌っているっぽいんですけど」


 俺の認識をそんな言の葉で肯定する赤坂。


 姉ちゃんは、そうなんだ、と不思議そうな顔をする。


「なにかあったの」


 囁くように発せられる当然の問いかけに、俺と赤坂はお互いに顔を見合わせる。


「シローは、知らなそうだね」

「そっちも同じっぽいな」


 赤坂は文芸部以外でも比較的交友関係は広く、それなりに周りの情報は耳に入ってくる。その赤坂でさえ、たしかなことは言えないらしい。距離感だけでいえば、同姓である俺の方が赤坂よりも小山により近いといえるかもしれないが、仲がいいとは思っていても、なにもかも知っているというほど深い仲ではなかった。


 進行中の出来事であるものの、俺も赤坂もおそらく渦中の人ではなく、何が起こっているのがわからないというのが現状らしい。


「なにがあったんだろうね」


 ぼやくようにして口にした赤坂の視線の先を追えば、声を潜めて沼田先輩に話しかける美亜姉と、呆れ顔をしてひそひそと受け答えする沼田先輩、OBOG二人を冷やかな目で見つめる小山の姿がある。


「人生色々だからね」


 姉ちゃんのわかった風な物言い。


「なんか心当たりあるの」


 思わず問いかける俺に、


「全然」


 素っ気なく応じ、首を横に振ってみせる姉ちゃん。現時点でとても離れたところに住んでいるにもかかわらず、姉ちゃんの方が俺や赤坂よりも現状を把握しているとしたら、なにかしらの自信を失いそうだったので、思わずほっとする。


「わかんない、けど」


 何かが歯に引っかかったような言い方をした姉ちゃんは、ちょうど五箱目ができてほっとしたような顔をする小山の方を見ながら、


「小山君の中には、並々ならない感情の捻れがあるようには見えるかな」 


 どことなく確信するようにそう言った。


「そうですね。コヤ君がこれだけ長く引きずっているってことはきっと、すごく嫌なことがあったんだと思います」


 赤坂もまた、その意見に追随する。俺もおおむね同意見だったのもあり、控え目に頷いてみせた。直後、


「ちょうどです」


 事務的にお代を受けとった小山が、二つの袋に分けたたこ焼きのパックを美亜姉と沼田先輩のそれぞれに受けた渡した。


「ありがとう。ごめんね、忙しい時に話しかけちゃって」

「そうだよ。もう少し、時と場合を選んで話しかけろよ。悪かったな、小山」


 受けとると同時に謝る美亜姉とより強く苦言を呈する沼田先輩。その二人に、小山は、いいえ、ありがとうございました、と半ば死んだ声で応じた。


「小山君、お疲れ様。頑張ってね」


 列からの離れ際。姉ちゃんが小山に労いの言葉をかける。こころなしか、小山の表情が少し柔らかくなったように見えた。


「はい。水沢先輩も文化祭、楽しんでください」


 笑みを作ってそう言ってから、小山は新たにやってきた客に対して、いらっしゃいませ、と応じはじめようとする。その直前、俺と赤坂は目線で、色々と悪かった、というような意思を伝えた。返ってきたのは、こちらの希望的観測でなければ、気にするな、と読みとれる。


「一緒に回れたら、良かったかもね」


 姉ちゃんがぽつりと言った。誰が、というのは言うまでもない。


「どうだろ。あっちは望まないかもしれないし」


 いいところがあるんですよ、と全員を誘導しようとする赤坂。その後ろを歩く美亜姉と沼田先輩の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、姉ちゃんの言葉に応じた。答えは求められていないのかもしれない、といつも通り少しだけ思ったけど、話しかけられたということにしておく。


「そうだね。だから、これは私のエゴ」

「エゴ」

「そっ。高校時代みたいな気分を味わいたいんだと思う」


 姉ちゃんが自分の考えを具体的にかたちにするのは比較的珍しい。そんな姉ちゃんの願いは、俺にはさほど難しいこととは感じられなかった。


「今も似たような気分じゃないの」


 辺りを見回す。廊下では老若男女が蠢いていて、いつにない活気に満ち溢れていた。人数や年齢という違いはあるものの、文化祭で高校の中を回っている、と言うのは以前にもあった状況なのだから。


 姉ちゃんは軽く目を瞑り、首を横に振り、


「もう、私は高校生じゃないから」


 わかりきった事柄を口にする。


 高校生じゃない。その一点は、この学び舎から姉ちゃんをどれだけ遠ざけたのだろうか。まだ、高校生である俺にはわからない。卒業したら、わかるのだろうか。




 赤坂に連れられてやってきたのは美術室だった。扉には『ミュージアム喫茶』と書かれた緑色の看板があり、その横にはモナリザを模したと思われる女性の油絵がかけられている。


「食品の持ち込みはまずいんじゃないのか」


 たこ焼きのパックが入った袋を持ち上げた沼田先輩が不安げに赤坂が尋ねる。


「ご心配なく。こちらをご覧ください」


 ジャジャン。口で効果音をつけ、モナリザのそっくりさんの下に張られたお品書きらしきものの端の方にある赤い※を指差す。その部分に目を通すと、ワンドリンク制です、という注意書きと、他店舗からの持ち込みをしていただいてもかまいません、という但し書きがあった。


「へえぇ。食堂とかだったらともかく、こういうのって珍しいね」


 目を丸くする美亜姉に、赤坂は、


「うちの友だち曰く、喫茶店の方はあくまでついでで、ゆっくり絵とか彫刻とかを見て欲しいそうです」


 楽しげにそんな説明をする。たしかにメニュー表を見るに、商品はホットコーヒーとかオレンジジュースとかシンプルなものだった。


「ほうほう。ということは、美術部員の子たちはそれだけ自分の作品に自信があるっていうことかな」


 悪い笑顔を浮かべる美亜姉。赤坂は少しだけ困ったように、どうですかね、と首を捻りながら入り口をくぐる。


「いらっしゃいませ。何名様でしょうか」


 スーツ姿の背の高い男子生徒が、その整った顔を生かして飛び切りの笑顔を向けてきた。


「五名です」


 反射で答える。それにしても、高く見積もっても俺の一つ上の年齢のはずなのに、えらく大人っぽい。少しだけ敗北感を覚えなくもなかった。


「五名様ですね。少々お待ちください」


 男子生徒は店内の方へと視線を向ける。それに釣られて見てみれば、六つの学習机がくっつけられた塊が五つほど設けられていて、そのうち三つは埋まっていた。思いのほか盛況らしい。


「お待たせしました。こちらへどうぞ」


 背の高い男の店員に促されるまま、五つある机の塊のうち、教室前寄りかつ窓際へと案内される。こちらが全員座ったのを確認したあと店員は、メニュー表を二つ優しく机の上に置いた。


「では、ご注文が決まりましたらお呼びください」


 一礼とともに、入り口付近へと引きあげていく店員。ほっと一息吐いてから教室を見回せば、店員はだいたいにおいてスーツ姿で統一されているらしかった。本物のスーツなのか、あるいは模して作られたものなのかは判断はつかなかったけど、俺たちを案内してくれた店員以外も、こころなしか大人の薫りがする。


「あれが美術部ご自慢の作品かぁ」


 俺の対面右側に座る美亜姉が、教室後方に設けられた黒い壁を指差す。そこには小さな感覚を空けていくつもの絵が敷き詰められるように張られていた。


 絵は水彩もあれば油彩もあり、中にはパステルとおぼしきものやコラージュっぽいものもある。題材も様々で、画面いっぱいに不気味な顔があるもの、うちの高校を遠くから書きとったらしき風景画、ころんと丸まるチワワの絵、やたらとかくかくとした何が描かれているかわからないものなど様々だった。


 更に視線を巡らせれば、五つの机の塊の間にあるスペースを利用していくつか彫刻が置かれている。ギリシャ彫刻を模したような筋骨隆々とした男性像、白鳥とおぼしき鳥の全体像、ただただ黒く丸い塊。そんなものが置かれていた。


 今まで美術室には選択授業の時くらいしか足を運んだことがなかったけど、室内には想像よりもそれっぽい作品が並んでいる気がする。中学の美術部とかは、もう少し傍目から見て素人が描いたようなものが混ざっていたけど、ことこのカフェ内においてはそう言った作品はぱっと見たかぎりみつけられない。


「どうよ。なかなか、いいっしょ」


 隣に座る赤坂が飛び切りの笑顔を向けてくる。


「そうだな」


 なぜ、そんなに嬉しそうにするんだろう。そう考えた後、元々、ここへの案内してきたのも赤坂だったな、と思い当たった。赤坂が美術部と兼部しているという話は寡聞にして聞かないところからするに、知り合いか友人が美術部にいるのかもしれない。


「全員、もうなにを頼むか決めたか」


 沼田先輩にそう尋ねられ、正直、全然考えていなかったものの、はい、と答えてしまう。しまったと思ったときには、赤坂が、すいません、と巡回していた女生徒の店員を呼んでいた。


「ご注文をお伺いします」


 黒皮のメモ帳を手にする女生徒は、入り口からこの席まで俺らを案内した男子生徒と同じようなスーツっぽいものを着ている。服装こそ様になっているものの、顔は薄っすらと紅潮していて、どことなく緊張が見え隠れしていた。


「レモンティーを一つ」


 美亜姉が指を立てて言ったのを皮切りに、赤坂がオレンジジュース、沼田先輩がホットコーヒー、姉ちゃんがホットココアといった風に次々に注文を終えていく。程なくして、すぐさま店員の視線が俺の方へと向けられた。自然と他の面々の眼差しもこちらに集まる。困った。まだ、決めていない。


「じゃあ、俺もホットココアをお願いします」


 結果として搾り出した言葉は、最後に耳にした飲み物の名前だった。


「それでは、ご注文を確認させていただきます」


 そう言ってから、スーツを着た女生徒は少したどたどしい口ぶりで注文の確認を行い、間違いがないことを確認し終え、


「それでは少々お待ちください」


 くるりと踵を返した。その背中に、


「頑張ってね、ミドリちゃん」


 赤坂が親しげな声を密やかに投げかける。ミドリ、という名詞は、とても最近、耳にした覚えがあって、記憶を探りはじめたが、なかなか像を結ばない。


「どうですか、先輩方。いい場所だと思うんですけど」


 隣では赤坂が、案内をした自らの功を誇るようにして先輩三人に話しかけている。俺はその様子をぼんやり眺めながら、やりとりを耳にしていた。




 さほど時を置かず飲み物が届いたあと、昼食兼休憩と相成った。机の真ん中に広げられたたこ焼きをやや場違いに思いつつも、爪楊枝を差し口に放りこむ。たこ焼きをココアで流し込む際、あまり合わないなと思った。


「今年の文化祭号はよく捌けてるんですよ。昨日なんか、キリカちゃんたちが増刷したらしくて」


 なんとはなしに交わされる雑談の内容は、よく売れている文化祭号に及んでいる。姉ちゃんは図書館を出て行く際に受けとった件の冊子を見下ろし、沼田先輩は、良いことだ、とうんうんと頷いていた。


「それで、小麦ちゃんとしては捌けている理由はなんだと思ってるの」


 美亜姉はそう尋ねたあと、ティーカップに口をつける。赤坂は、そうですねえ、と腕を組んでから、


「ぶっちゃけると、表紙かなと思ってます」


 身も蓋もないことを口にした。美亜姉も、やっぱりそうか、と納得したように頷いていた。


「あたしも今回の冊子もらった瞬間に、なんかいつもと違うなって思ったからね。要は霧香ちゃんが描く表紙じゃないってことなんだけど」


 そう。昨年の後半あたりからは、もう既に文芸部の冊子の表紙は現部長の入江の担当だった。それが入れ替わったのだから、入江の表紙に慣れ親しんでいるOGとしてはすぐに勘付くところだろう。


「けど、今の文芸部にこんな絵を描ける人っているの」


 顔をあげた姉ちゃんの出した当然の疑問。俺は赤坂を指し示しながら、


「今回は、赤坂が推薦した、部外の人が描いた表紙です」


 と説明する。へぇ、とどことなく感情を欠きつつも意外そうな姉ちゃんの反応。その隣で目を丸くした沼田先輩は、


「なんで、そういうことになったんだ」


 素朴に尋ねた。赤坂は自らの片側にまとめた髪を触りながら、


「いやぁ、それがですね。一学期に偶然、いい絵を描く子と知り合いまして、この子が表紙を描いてくれたら面白いことになりそうだなって思って。そしたら、いてもたってもいられなくて、定例会議で提案するところまでいってました」


 事情を正直に語る。沼田先輩は、そうか、と一応、納得しつつも、どことなく釈然としない面持ちでいた。


「部内で揉めたりしなかったの」


 良くも悪くも嫌なところに突っこんでくる美亜姉の問いかけ。俺はびくりとしつつも、赤坂の方を見る。案の定、やや気まずげにしていた。


「最初は今のままでいいって子たちが大半でした。そこからうちなりにプレゼンした結果、表紙は部内コンペで決めようって話になって、それであらためてこの表紙になった次第です」


 控え目に、それでいてはっきりと赤坂は自らのわがままを認めた。姉ちゃんが薄っすらと眉を顰めたのが見える。


「三年になってからのわがままを言うのは、少しどうかと思うぞ」


 それは先々代の編集長であるところの沼田先輩も気にかかるのか、声を抑えつつもそんな意見を吐露した。


 うちの高校の文芸部は、二年生の部長が一年から次代の部長をこの文化祭の時期に指名し、その後、三学期から本格的に次代に役職を移行することになっている。つまるところ、一年の三学期から二年の二学期までのおおよそ一年間のみ主導権を握ることになっていた。それと同時に、役職を終えた二年三学期から卒業までの間はほとんど引退同然になり、現役職がよほどおかしいことをしていなければ口も手を出さないことがほとんどだった。


 そういった前例からすると、赤坂の口出しはやや越権行為にもみえる。


「うちは提案しただけですよ。多少、強引だったかもしれませんけど」


 主張しつつも、赤坂もどこかに後ろめたさがあるらしく、どことなく歯切れが悪い口ぶり。沼田先輩が溜め息を一つ。


「あのなぁ。強引だったって言ってる時点で、お前にもゴリ押ししたって自覚があるんだろう。それに表紙の宛が急になくなったとかだったら別だが、今までと同じで入江が描く予定だったんなら、新しい表紙をという意見を取り入れる必要はないはずだ」


 しかも、その入江はこの提案がなされるまで自分で書くつもりでいた。心の中で思った事柄は、口にした途端、沼田先輩のなんとも言えない表情をより渋いものにしかねないと思い、飲み込む。


 こう振り返ってみると、今年の赤坂はやたらと部内をかき回している。今は文化祭号も比較的人気なことや、入江自身が部内コンペで負けたあとあっさり表紙変更を認めたのもあって、一見丸くおさまっているようには見えるが、一歩間違えれば部内で争いの一つや二つ起こったかもしれないし、赤坂の行動自体を掘り起こせば再び争いの火種になりかねない。こうして、直接かかわっていないOBOGたちの一部ですら問題視する辺り、尚更だった。


 赤坂は一端顔を伏せ、オレンジジュースをストローで長めに吸いあげたあと、再び沼田先輩の方へと向き直る。


「必要は、ありましたよ」


 その宣言には、妙な力強さがあった。たじろぐ沼田先輩。隣でニヤニヤする美亜姉。無表情で頬杖をつく姉ちゃん。


「聞かせてもらってもいいか」


 OBの問いかけに、赤坂は頷いてから、


「今回の文化祭号が、いい雑誌になる予感があったからです」


 質問に対しては少々奇妙な答えを返した。


「悪い、赤坂。お前の言っていることがよくわからないんだが」

「もう一度言いましょうか。今回の文化祭号が」

「いや、聞こえてはいたよ。俺が言いたいのは、なんでそれが表紙を変える必要性に繋がるんだ」


 こめかみに指を当てる沼田先輩に、赤坂はキョトンとした様子で、わからないですか、と口にする。


「いい雑誌になりそうだから、できるだけ多くの人に手をとってもらう可能性を増やすべきだ。みたいなことを言いたかったりする」


 唐突に姉ちゃんがそんな言葉を赤坂に向けた。途端に同級生の女は喜色満面になる、そうですそうです、と何度も頷いてみせる。


「うちも卒業前に一花咲かせようと思ってましたし、それはシローやコヤ君も同じかなって。二年も一年の時にもましてかっちりしてきたキリカちゃんをはじめとしてみんな力をつけてきてたし、一年も新星のサキちゃんが何かやってくれそうな雰囲気が漂っていました。これは色んな人に読んでもらわなきゃなっていてもたてもいられなくなったんです」


 少し興奮した様子の赤坂。会議の時もここまで踏みこんだ発言はしてなかったので、俺もまた初めて聞かされたことだった。とはいえ、色んな人に読んでもらいたい、とはちょくちょく言っていたため、想像できなくはなかったのだけど。


「赤坂の言い分はわかったが、それはお前のエゴであって、部員の総意ではなかったんだろう。全員が全員、お前みたいに色んな人に読んで欲しいと思っているとはかぎらないんだし、仮に表紙を変えたとしてもいい多くの人に手にとってもらえるという保障もない。それをわかったうえで自分の意見を通したのは、少々やりすぎだったんじゃないのか」


 とはいえ、依然として赤坂の勝手であるというのには変わりがなく、その点が沼田先輩の中で引っかかっているように見える。かく言う俺も、表紙の交代にはいまだにもやもやしたところがあるのも否めなかった。


 赤坂は、そうかもしれないですね、と認めたうえで、


「勝手ついでに言ってしまえば、多くの人に読んで欲しいという以上に、うちは見たかったのかもしれません」


 そんなことを口走る。


「見たかったって」


 思わず口を挟んだ俺に赤坂は姉ちゃんの手元にある文化祭号を指差してみせた。


「これだよ」

「文化祭号を」

「うちらができうるかぎり、最高の文化祭号をだよ」


 最高の文化祭号。その響きは単純ながら、かつて夢想した、いやもしかしたら今も夢想しているものである。とりわけ、小山とともに編集業務をやっていた二年の頃には、最高とまでは言わないまでも、できるだけいい雑誌をというぼんやりとした気持ちはあった。ただ、俺らの世代三人組のうちで、もっとも編集業務にかかわりがなかった赤坂が、雑誌としての良し悪しを語る姿というのは意外な気がする。


「わがままであるというのはうちも重々承知してました。ただOGになってからじゃ、もう『OVERFLOW』に手どころか口すら出せなくなるから、なにかできるうちにできるかぎりのことはしておきたいって思ったんです」


 切実な声。直後にストローに口をつける赤坂。微かな音を耳にしながら、三年近くともにいるにもかかわらず、赤坂の内側にある熱量を推し量れなかったことを悔しく思い、コーヒーカップを傾ける。冷めているな、と思い、壁の絵に目を走らせはじめた。


「個人的には最高の文化祭号ができたと思うんですが、いかがですか」


 自信が感じられる赤坂の声音。走っている三毛猫の絵だった。シンプルに可愛らしい。


「いいと思う」


 真っ先に聞こえた姉ちゃんの声は単純ではあったものの、内面の賛同が感じられるものだった。隣に視界を移すと、窓の外の鳥を眺めている少女像がある。難しいことはわからないがただただ綺麗だった。


「あたしも好きだよ、この冊子。とは言っても、まだ中身は確認してないから表紙だけの感想になっちゃうんだけど、とてもいいと思う」


 冊子に対して惜しみのない賛辞を贈る美亜姉の口ぶりは、言葉通りだけではない得体の知れない空白を窺わせた。更に視線をずらす。俺の目の前には、血のような赤い背景の真ん中に群青色の箱らしきものを描いたものがある。正直、よくわからない。


「正直、赤坂のやり方には疑問は残る。それはそれとしてこの表紙絵は割と好みではあるが」


 不承不承という体ではあったものの、沼田先輩は冊子の表紙自体は認めているようだった。更に更に隣の絵を見れば、墨らしきもので描かれた、部屋の中で突っ立ている少年の白黒自画像がある。暗めで不器用ながらも作者の人柄の良さみたいなものが伝わってくる気がした。


「シローはどう思う」


 唐突に尋ねられ振り向く。


「どう、とは」

「今回の冊子の表紙のこと」


 まっすぐな問いかけ。姉ちゃんの手元にある件の表紙にじっとりとした視線を注ぐ。校舎裏とおぼしき場所、色とりどりの紅葉が降り注ぐ中で見つめ合う少年と少女の絵。構図自体にさほど目新しさは見受けられなかったものの、最小限の線かつ淡い色合いで描かれたそれの背後には、絵を描いた人物のこれまでの積み重ねのようなものが感じられた。


「いい表紙じゃないかな」


 そう答える。本音であるはずなのに、反響してきた自分の声音はどこか薄っぺらに聞こえた。


「なんか、引っかかってそうだね」


 こういう時の赤坂は目ざとい。


「そんなことはないけど」


 いい絵であることに異論はないし、外部委託したことによって冊子がより良いものになったのもまず間違いないだろう。そのかたわらでコンペがあったとはいえ、元々書く予定だった入江の気持ちを勝手に想像し、いたたまれなくなっていた。


 赤坂はストローの先を二度ほど噛んでから、苦笑いする。


「シローの言わんとしていることは、なんとなくわかってるつもり。仮にコンペで今の表紙を推していても、気持ちとして割り切れないよね。けど」


 一端、言葉を止めた赤坂は壁の方をちらりと見てから、こっちに向き直った。


「とにかく、うちはできるかぎりのことをやりたかったんだよ。それだけはわかってほしい」


 そのことはさっきから似たようなことを言っているからわかっている、とか、なんでいちいち俺に同意を求めてくるのか、とか思ったりしつつも、ああ、と曖昧な返事をしてしまう。なにより、コンペの時、入江の描いた教室内で楽しげに話し合う五人の少年少女の絵を蹴落として、今の表紙を選択した俺には、気持ちは置いておいて不満を口にする権利はないように思えた。


「みんな固いね。結果としてはいい冊子が出来たことを喜べばいいじゃない」


 どことなく重苦しくなった空気を振り払うかのような美亜姉のお気楽な声音。そうだね、と静かに同意を示す姉ちゃんだったり、気に入ってもらえて良かったです、と嬉しそうにする赤坂を横目に、冷めたコーヒーを飲み終え、再び壁の方へと視線を滑らす。その際、なんとはなしについ先ほどの赤坂はどこを見ていたのだろう、と疑問を感じ、ここら辺かな、とあたりをつけたところを見つめた。


 そこにあったのは淡い色合いで描かれた青空の絵。絵の中心かつ一番下では肩くらいまで髪の伸びた制服の少女が背を向けているのが見える。


 覚えた既知感。その正体はすぐさま自分の中で結びつき、絵の下に描かれている名前に目を見張った。


 


 しばらく美術カフェで時間を潰したあと、同じ中学だった後輩がやるバンドを見たいといった沼田先輩の誘いに乗るかたちで、体育館へと移動する。


 到着した時、沼田先輩のお目当てのバンドまでまだ時間があったものの、席はけっこう埋まっていて、全員一緒に座るのは難しいなとなり、空き状況から、二人と三人に分かれるかたちとなった。


「こうして三人でいるのは久しぶりだね」

「そうだっけ」


 こころなしか声が弾んでいる美亜姉に対して、それに応える姉ちゃんはどことなく静かだった。


「そうだよ。司郎とはそれなりに会ってたし、梨乃ともたまに会ってたけど、三人でいるっていうのは半年ぶりぐらいじゃない」


 比較的、ステージから見て中心かつ前寄りの席。俺を真ん中において、左に姉ちゃん、右側に美亜姉が座っている。俺の体を境にして美亜姉の言葉が、しきりに姉ちゃんに投げかけられていた。

 

「お互いに忙しかったしね」

「梨乃ももう少しこっちに帰って来てくれればいいのに」

「時間があれば」

「そこは作ってよ。あたしも司郎もそうしてくれれば嬉しいんだし」


 淡々とした声で状況を振り返る姉ちゃんとやや甘えるような美亜姉。いつにもなく親しげな雰囲気に、混ざりたいような聴いていたいような、どうにも複雑な気持ちになる。


 そんな風にこそこそと話しているうちに、ステージにスポットライトが落ちた。小休憩が終わり、舞台がはじまるようだ。これにはさすがに姉ちゃんも美亜姉も黙るけど、観客席はどことなくざわついたままだった。


 幕の下がったままのステージ端から眼鏡をかけた背の高い男子生徒が出てくる。


「これより、演劇部の劇、『帰り道』を開演いたします」


 マイクから聞こえてきたのは聴きなれないタイトル。オリジナル作品か、あるいは俺が知らないだけか。いずれにしろ、沼田先輩の目当てのバンドまではまだまだけっこうな時間を待たなければならないようだった。


 ゆっくりと幕が上がっていく。途端に右側の掌に柔らかな感触。ちらりと見れば、にやけた美亜姉の姿があった。少々文句を言いたくなったものの、これくらい別にいいか、と思い直す。ただ、そうなると左手になにもないことに寂しさを感じなくもなかった。


 雑念にまみれていたところで舞台が上がりきる。背景セットから夕方の田舎道らしきものの上。一人の少年と少女が歩いている。二人の表情は見るかぎりではどことなく寂しげに見えるが、それはあくまでも背景の淡い橙色がそうさせるのかもしれない。


『あと、どれくらいかな』

『まだまだだよ』


 こころなしか不安気な少年の声音に、少女は少々いらだったような答え。


 おそらく、タイトルの通り帰り道の途中の出来事なのだろう。そう察しつつも、二人の間柄はぼんやりとしている。幼なじみ、友人、姉弟、兄妹。舞台上の距離感を見るにない気がするけど、今日たまたま会ったばかりの少年少女二人なのかもしれなかった。


 二人はその帰り道の途中で色々な人に会う。友人、両親、見知らぬ他人、かつての同級生、幼なじみ、恩師などなど。そうやって誰かしらに会う度にちょっとした挨拶を交わしたあと、


『二人だけで大丈夫』


 だとか、


『これからカラオケに行かないか』


 だとか、


『一緒に行こうか』


 だとか誘われるものの、少年少女は一貫して断わり続けたあと、結局別れていく。それを繰り返していくうちに、徐々に徐々に舞台が暗くなっていった。


 これはなんなんだろう。ただただ静かに進行していく舞台上の出来事がよくわからないまま、それでも何かが起こるの期待して見守った。劇自体の退屈さのせいか、ところどころからざわついた声が耳に届く。俺もまた、大分集中力を欠いていたのもあり、ふと左側見た。


 真顔の姉ちゃんがじっとりとした眼差しを舞台上に注いでいる。その横顔はまるで彫像みたいに、ずっとこのままでいたみたいに見えた。姉ちゃんの素振りが、舞台を見る礼儀としてのものなのか、あるいは強く惹きつけられるものがあるからなのかは、いまいち判断がつかなかったものの、なんとはなしにそちらに目線を注いでしまう。


『まだかな』


 少年の声音が聞こえたのを耳にして、再び舞台へと向き直った。とはいえ、この問いかけ自体はこの少年少女が誰かに会った合間合間に行われていたので、またか、という感じでもあった。この定形に乗っ取れば、次の少女の台詞は、まだまだだよ、と返される。


『つかないよ』


 しかし、少女の無機質な声によって予想は破られた。呆然と立ち尽くす少年。少女はややうんざりした様子で溜め息を吐き、


『まだまだまだまだ、ずっとずっとつかないよ』


 そんな答えを返す。


『じゃあ、いつになったらつくの』


 少年の口から発せられた素朴な疑問は、俺の中で育まれたものそのものだった。しかし、少女は再び疲れたように息を吐き出して、


『いつまでもつかないよ。ずっとずっと、ずっとずっと歩き続けて、ようやくついたって思えるんじゃない。もしかしたら、錯覚かもしれないけど』


 漠然とした声。


『そんなに歩きたくないよ』


 少年の口から発せられるもっともな意見。少女は首を横に振った。


『歩きたくなくても歩かなくちゃいけないの』

『どうして』

『帰らなくちゃならないから』

『けど、歩いても歩いても着かないよ』


 疲れきったようにうなだれる少年。少女は少年の手を握りこむ。


『けど、歩かなきゃいけないの。そういう決まりだから』

『そんなの嫌だよ』

『嫌でも歩かなきゃいけないの』

『嫌だよ』


 そんな不毛なやりとりが繰りかえされる。やがて、少女が今までになく大きな溜め息を着いた。


『じゃあ、ずっとここにいたら』

『えっ』

『先に行くから。勝手に好きなだけここにいればいい』

『ちょっと、待ってよ』


 止める間もなく少女はぐいぐい歩いていってしまう。少年はその場に留まった手を伸ばした。


『待ってよ。置いてかないでよ。一人にしないでよ。一緒にいてよ』


 悲痛な叫び。けれど、少女は先へ先へと行ってしまい、ついには舞台上から姿を消してしまう。


 ぎゅっと右掌が強い力で押しつぶされた。隣を見れば、美亜姉が苦しげに額から脂汗を流している。今まであまり見たことのない表情だった。


 直後、舞台上から慟哭が響いたので振り返る。


『嫌だよ。置いていかないで。ねぇ、置いていかないでよ。ねえってば。ねえ』


 叫び続ける少年。けれど、その足は依然として動かないままでやがてうずくまってしまう。暗転。幕が下りる。そのままなにも起こらずに時が経過し、おもむろに照明がつく。


 どうやら、終わったらしい。そう判断したものの、頭には謎ばかりが残る。いったい、どんな劇だったんだろうか。強く握られる右掌の痛みに、さすがに話して欲しいと訴えかけようとしたところで、


「寂しいね」


 という姉ちゃんの呟きが耳をかすめた。思わず、そちらを見れば、どことなく心細げな顔をしている。なんとはなしに空いている掌を頬に伸ばした。指先が触れるとともに姉ちゃんがこっちを見る。


「なに」

「いや、なんとなく」

「わけがわからないんだけど」


 力を抜いたような笑顔。らしくない、と心がざわついたものの、だよね、と肯定して手を引こうとする。途端に指先を握られる。


「なにかな」

「なんとなく」


 今度はいつもの無表情。少しだけ心が晴れたような気がした時には、体育館は暗闇に包まれはじめる。指先と指先が離れた。


 いつになく心細かったけど、気付かないふりをして舞台に視線を注ぐ。ドラムとベース、そしてエレキギターが音を出すのを耳にしてもその気持ちは晴れないままだった。

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