三
文化祭二日目。俺は図書館内で前日と同じように古本市に店番をしながら、欠伸を噛み殺していた。
「シロー眠そうだね。なんか、あったの」
不思議そうに首を傾げる赤坂を、
「まあ、色々」
などとごまかす。原因はおおむねわかっていたものの、直接言うのにどことない格好悪さをおぼえたため口を噤んだ。赤坂は少々むっとしていたが、小さく息を吐き出し、
「なんかあったら言ってね。うちにできることなら、可能な範囲で気が向いたらやってあげるから」
気が向いたらかよ。心の中で突っこみながら、その時は頼む、と応じる。赤坂がニカッと笑い、うけたまわった、と気どったように言った。その笑顔に気持ち良さを感じている最中、頭の中で今朝、夜逃げみたいに家を出たのを思い出す。
前日、感想会が中断されたあと、店番をする文芸部員や図書委員と迷惑にならない程度にぐだぐだ雑談したりして時間を潰し、家に帰れば帰ったで父から気が弛んでいるということを中心とした朝から続いた説教がなされ、解放されたあとは英語の勉強をこなした。今の父の怒りのきっかけがどこに転がっているのかはわからない。それでも普段であれば甘んじて受けとるだろうけど、文化祭二日目に水をさされたくはなかったため、母の協力のもと早めに家を出た。
一応、こころ多めに睡眠時間をとってはいたものの、いつもより早い時刻の起床に体が慣れてないせいか、登校中から学校に着くまでの間、とんでもなく眠く、クラス内に設けられたオバケ屋敷の裏にもぐりこみ、小道具やオバケの衣装などを改修するクラスメートに断わりを入れ、短い仮眠をとった。そして、スピーカーから流れてくる開会の合図を耳にして、一路図書館へと向かい、今にいたる。
「それにしても、今日はまだ午前中だって言うのにお客さんが途切れませんなぁ」
どことなくだらけた赤坂の声は、昨日に比べればわずかに疲れているように聞こえた。
「そうだな」
同意しつつ、前方を見る。段ボール箱を覗き込む、紺のキャップ帽をかぶる老人。そのダンボールを境にして同じように本を覗き込むスーツを着た三十がらみの女性。前者はつまらなさそうな顔、後者は楽しげな顔をしている。この二人が来る前はこの高校のOBOGとおぼしき大学生らしき男女が、並んでいる本のうち読んだことのある本についてイチャイチャと語り合っていたし、その前には様子を見にきた校長先生が写真を撮ってから、頑張ってくれたまえ、と実に楽しげな笑顔を浮かべたりしていた。
現時刻十一時少し前。九時半少し前に祭りが始まってから今のところ赤坂の言う通り、ぽつぽつとではあるが客が途切れない。
「文芸部員としては嬉しい悲鳴だよね」
そんなことをぼんやり告げた赤坂の視線は、すぐ手前にある文芸部誌の文化祭号の山へと移る。今日もまた、俺や赤坂、是非お手にとってお読みください、と勧めたり、お客さんの方から一冊いいですかと言われたりしながら、冊子は順調に捌けていた。
「毎回、ちょっとどきどきするけどね」
おおむね同意しつつも、文化祭号のカラー表紙を眺める。生涯三度目の文化祭号の配布。文芸部や姉ちゃんみたいな身内に読んでもらう時とは違い、少しも知らない誰かに読んでもらうというのはいつになく緊張した。
「ありゃりゃ、シローってば、自分の原稿が読まれるのが怖かったりする人」
「怖いな」
躊躇なく吐露する。赤坂は、いつになく素直だね、と目を丸くしてから、
「うちにはその感覚わかんないかも。だって、うちはうちの原稿が面白いってわかってるし、それに」
もったいぶるように言葉を止めてから、俺の顔へと上目遣いを向けた。
「シローの話が最高に面白いって知ってるからね」
同級生の女から注がれる謎の信頼。それが俺には少しだけむず痒く、少々重く感じられる。
「赤坂って怖いもの知らずなんだな」
「心外だね。うちだって怖いものくらいあるよ」
不満気な返答。参考までにと思い、なにが怖いんだ、と促すと、そうだなぁ、ととぼけた感じで返され、
「怒ったお母さんとかかな」
と遠い目で応じた。なんとなく今の水沢家の事情と通じるところがあるため、たしかにそれは怖いな、と納得する。
「でしょでしょ。最近だと受験勉強のふりして原稿書いてたのがばれた時は、なかなか大変だったよ」
あんなに正気を失ったみたいに怒らなくてもいいのにね。映画みたいにやれやれと肩を竦める赤坂。
「いや、そりゃ怒るだろ」
「そうかもしれないけど。娘としては、本当にやりたいことくらいは見逃してほしいわけですよ」
そう言って、頬杖をつく赤坂。横顔にはなにかしらの歯痒さが見え隠れしている。まあ、わからなくもない。
「見逃して欲しいとは思わないけど、もう少しこっちを信じて自由にやらせてくれればとは、時々思うな」
目を瞬かせる赤坂。しかし、すぐに訳知り気な顔をする。
「シローも色々あるんだね。複雑なお年頃ってやつ」
「こういうのは誰でも思ってるのかもしれないけどな。っていうか、お前もその複雑なお年頃とやらなんだけどな」
「それもそうだね。じゃ、お互い思春期ってことで」
雑に一まとめにしたあと、元々何の話してたんだっけ、と首を捻った。俺もまた半ばわからなくなっていたため、なんだったっけ、と記憶を引き戻そうとする。
「すみません」
声をかけられ振り向けば、キャップ帽を被った老人が、有名雀士のエッセイと古めの競走馬のガイドブックを手にしていた。
「これください」
「はい、二冊ですので二百円になります。一冊増えた三冊セットでも二百円になりますが、いかがでしょうか」
隣にいる赤坂は、既に自分の中にあるスイッチを切り替えたらしく、気持ちのいい笑顔を浮かべて老人に接している。
「そうなんですか。だったら、もう一冊持ってくるので待っててもらえますか」
「はい。ゆっくりとお選びください」
赤坂はそう言って小走りで段ボール箱の乗った机へと向かっていく老人の後ろ姿を見送ったあと、小さく息を吐き出してから、ごめん、と小声で話しかけてくる。
「ついつい、盛り上がって気が散っちゃってたね」
この言い方からするに赤坂もまた、声をかけられてはじめて老人がレジまでやってきたことに気付いたらしい。
「いや、俺の方も気付かないでくっちゃべってたし」
「それはそうかもしれないけど。ダメだなぁ」
そう口にした赤坂は、新たな本を選んでいる老人と五冊ほど本を持った三十がらみの女性を一瞥してから、ひっそりと溜め息を吐いた。
「こういう時の赤坂って真面目だよな」
「それは、普段は真面目じゃないって言いたいのかな」
目尻を吊りあげる赤坂に一瞬、いやそうだろう、と応じそうになったあと、心の中で揉み消す。
「そうじゃなくて。いや、これって人としては当たり前かもしれないけど、ふざけるところとふざけるべきでないときをしっかりと分けているというか」
この言い方だと、授業中でもおおむねマイペースを貫くこの同級生女子にとっては、授業というのは真面目にするべき場ではないことになってしまいかねなかったけど、たぶん、そうなんだろうと俺は納得していた。
俺の言葉に、赤坂はなぜだか照れくさげに鼻の頭を掻いてみせる。
「うちはいつでも楽しく生きたいし、窮屈なのはごめんだと思ってる。けど、しっかりやらないと誠意が伝わらない時があるっていうのも知ってるから」
ごくごく当たり前の言葉。けど、俺の中ではストンと落ちる。そういうことか、と。直後に赤坂が再びレジの方へと顔を向ける。目の前には三十がらみの女性が、六冊の文庫本を持ってこちらへと歩み寄ってきていた。
「いらっしゃいませ」
「これください」
いたく満足げな声とともにテーブルに下ろされた本は、新本格ミステリーを中心としたラインナップでそこに海外や古めのものが添えられている。
「合わせて千円になります」
「ちょうどでお願いします。袋はいりますか」
頷きながらお札が差し出す女性。俺はそれを受けとりながらあらかじめ用意しておいた袋に文庫本を詰めていく。
「よろしければ、こちらの冊子もいかがでしょうか」
こちらの作業中。赤坂が文化祭号を勧めはじめる。そちらに注意を移す女性。
「これは」
「実はわたしたち文芸部の冊子をこの機会に無料で配布させていただいてます。よろしければいかがですか」
柔らかい声で勧める赤坂。女性は一瞬表情を消したあと無邪気な顔をして、
「面白いの」
などと尋ねてきた。直後に赤坂は我が意得たりといった風に微笑む。
「はい。とても面白いですよ」
/
「あはは。それは見たかったかも」
三十がらみの女性とのやりとりがあった二十分ほどあと。例のごとくやってきた美亜姉がレジに使っている机の端を叩く。営業妨害ですよ、と注意をしようとも思ったが、現在、今日はじめて客がいない時間帯なので、注意もし辛い。
「何か、おかしいところとかありましたか」
不思議そうな顔をする赤坂。そのきょとんとした顔がつぼに入ったのか、美亜姉は腹を抱えだす。
「小麦ちゃんのそういうところ、あたし、だっいすき」
「なんだかよくわかりませんけど、美亜先輩が嬉しいんだったら良かったです」
にっこりと微笑む赤坂。いつになく綺麗な笑顔を引き出せる辺り、美亜姉は大物なのかもしれない。
「こんなことなら昨日から忍びこんでたら、もっと面白かったかもね」
くくくと声を出す美亜姉。たしかに付属大学の距離の近さを考えれば、可能だろうし、やっぱり考えていたのか、という納得感もある。
「参考までに、昨日来なかった理由はなんですか」
試しに尋ねてみた。美亜姉はなぜだか眉を吊り上げるものの、ああそれね、と言いながら笑顔を取り繕う。
「あたしとしては最初から突撃するつもり満々だったんだけど、舞い上がって梨乃とスグルに『これから下見してきます!』って送ったら、二人に全力で止められちゃってね。『初日にOGが突っ立ってたら邪魔』とか『少しは待てないのかお前は、ガキか』とか、メールで散々心ない言葉を浴びせてきて、もうあたしの心はばきばきですよ」
大袈裟に肩を竦めて、よよよ、と泣くふりなんかをしてみせる。
「うちは一日目からいてくれてたら、とっても嬉しかったですよ。会えれば会えるだけ嬉しいですし」
それを即座に慰める赤坂。嬉しいよ小麦ちゃん、なんてわざとらしい震えた声を出した美亜姉は、今度はこちらに視線を向けてくる。
「司郎はどう。あたしが一日目からここにいたら嬉しかった」
いたずらっぽい目。なんだか試されているみたいだ。
「俺個人としてはいてもかまいませんけど、先輩たちがメールで指摘した通り、いるだけでやり難いと感じる人もそれなりにいると思います」
とはいえ、悩んでもたいした答えは出てこないだろうし、間を置いたら置いたで勝手に美亜姉があることないこと解釈してきそうだったので、さほど考えずに玉虫色の答えを返した。途端にまた眉が釣りあがり、頬まで膨らむ。
「つまんない」
そんな一言で切り捨てられた。まあ、そうだろうな、と納得する俺を差し置いて、美亜姉はすぐ傍にいる赤坂に、小麦ちゃんもそう思うよね、と同意を求めに行く。即座に後輩女子は片側に結んだ髪を揺らしながら深く頷いてみせた。
「っていうか、シローって美亜先輩と幼なじみだし、すごく仲がいいわけじゃん。だったら、一も二もなく、先輩が来てくれたを喜んだらいいんじゃないの」
自明の理と言わんばかりの物言い。たしかに美亜姉が来るという一点だけを取りだせば、個人的には楽しい気分になれそうだった。ただそれはあくまでも、俺個人の事情でしかない。
「俺一人だったらそれでいいし、赤坂が大歓迎なのもわかる。ただ、ここで古本市の手伝いをするのは俺や赤坂だけじゃない。外部に解放された祭りの今日ならいざ知らず、昨日みたいに建前は現役生だけってなってる時にOBOGが来たら、驚いたり固くなったりする後輩はいるだろうし、古本市を手伝ってくれている図書委員の人たちも困惑するかもしれないし、口うるさい先生に目を付けられる可能性だってある」
個人的に美亜姉を苦手にしていたり嫌悪感を持っている人間が絡んでくるかもしれない。おおいに心当たりのあるこの考えは心の奥に封じこめた。
「だから、昨日来られたとしたら困ったな、と思っていたかもしれない」
もうとっくの昔に部長でなくなっているのになんで文芸部全体を気にしているのかという疑問は、大事にしているからだろうと単純な答えとして導きだされる。
そんなことをぐだぐだ考えていた直後に、同輩女子と卒業した先輩女子の白い目が突き刺さる。二人は各々の口元に自分の手を重ね、ひそひそと話しだした。
「どう思いますか、先輩」
「う~ん。言ってることはもっともだけど、あたしとしてはもう少し男の子としての甲斐性を見せてほしかったところだね」
「ですよね。こういう時は周りがどうとかより、シローの気持ちを見せてほしいですよね」
「そうそう。う~ん。ここら辺は子供の頃からもっと言い聞かせておくべきだったかな。いや、でも、こういうのは幼なじみの一存でどうにかなるわけでもなくて、どっちかといえばずっと身近にいた姉の方が」
「全部聞こえてるんだけど」
きりがなさそうだったので、わざとらしい子芝居に口を挟む。途端に赤坂は、何言ってんだこいつ、という顔をした。
「聞こえるように言ってるに決まってるでしょ」
「さいですか」
いや、そうだとは思ってたけど。赤坂は、やれやれ、と例のごとく肩を竦めてみせたあと、いいシロー、とこっちを指差す。
「たしかに周りは大事だし、部の仲間だったら尚更だとは思うよ。けど、それよりも会いたいという気持ちは優先されるべきなんじゃない」
そこんところどうよ。背凭れに体重をかけ行儀悪くふんぞり返る赤坂。お前、今店番だろ。今回の文化祭で何度かお互いに指摘し合った注意が口から飛び出しそうになったものの、幸か不幸か客はおらず、普段の行儀の悪にまで口を出すほどの真面目さもないため、飲み込む。反射的に目に付いたところが通り過ぎてすぐ、同級生の女子の言葉が頭に沁みこんできた。
会いたいという気持ち。それは他人の不快を気にしないようにしてまで優先していいのだろうか。
「どうなんだろう」
首を捻る。赤坂が、優柔不断だなぁ、とうんざりとしたような顔をした。その傍で美亜姉はいつの間にかとてもにこやかな顔で俺らを見守っている。
「俺個人の感性は無視してもいいって言ってるんだけど」
「だったら、それでいいじゃん。何を迷う必要があるわけ」
「さっきから言ってるように、周りのことかな」
答えながら、俺自身の発言を滑稽に思う。
「面白いことは大歓迎だけど、人に迷惑かけてまでそれを通したいとは思わない」
少なくとも人に見えるところでは。心の中で言い訳のように付け加える。
「シローってば、いつからそんなにつまんない真面目ちゃんになっちゃったの」
「真面目ちゃんってほど真面目なつもりはないけど、たぶん、昔からじゃない」
自らの滑らかな舌の動きを少しばかり目障りに思いつつ、美亜姉の方を見れば、目を細めて口元で笑みを作っていた。
「いやいや、司郎ってば真面目になっちゃったんだね。お姉さん、驚きだよ」
いつになくわざとらしく言の葉を紡ぐ年上の女。俺に向けられる目は静やかな冷やかさを有している。心臓にぬるっとした感触の指先が触れているみたいな心地に、背筋がざわついた。
「いやいや、弟の成長を見れて嬉しいね」
「譲原先輩と姉弟になった覚えはないんですけど」
いつも通りを装おうとする。美亜姉は眼差しの温度を低くしたままで、悲しいことを言わないでよ、と俺の肩に手を置いてきた。
「ずっとずっと一緒にいたんだよ。あたしと司郎、それに梨乃はもう姉弟みたいなものじゃない」
血の繋がりなんて些細なものでしょ。蛇のように纏わりついてくる言の葉。それには呪いじみた言霊が宿っているように聞こえた。
「いいなぁ。そういう物語みたいなの。うちは一人っ子だし、幼なじみなんていなかったし」
こちらのやりとりにくっついている不穏さに気付いているのかいないのか。赤坂はどことなく暢気に口を尖らせる。
「簡単に言うけどな赤坂。長く続くことなんていいことばかりじゃないよ」
ついつい口から出てしまった言葉。それに付随して美亜姉の目の鋭さが増す。
「その言い方は、姉と幼なじみがいるからだよ。ずっと仲良い相手がいるのってとっても幸せじゃん」
「ずっと良い関係でいられるとはかぎらないだろ」
無邪気な一人っ子の同級生の感想に、返した本音。ずっと良い関係でいるための努力。そんなことはきっと多かれ少なかれ誰しもぶち当たって、頑張ろうとする人もいれば無視する人もいて、上手くいったり上手くいかなかったりするんだろう。比較的相手の内実がわかりやすい姉や幼なじみであってもそれ自体はさほど変わりない。
「もしかして、シローはうちの知らないとこで、美亜先輩とか梨乃先輩と喧嘩とかしてたりするわけ」
素朴な問いかけ。俺の言い方を素直に受けとればたしかにそういう想像に結びつくだろう。
「そんなことないよ。あたしたち三人はずっと仲良しのまま。それは人間だからたまには喧嘩もしたりするけど、そんなのはたまにもいいところだよ」
後輩女子の疑惑をあっさりとした物言いで否定するOG。赤坂は、そうですよね、とほっと胸を撫で下ろす。
「もう驚かせないでよ、シロー」
ばんばんと肩を叩いてくる赤坂。俺は無言で受けいれつつ、喧嘩だったら簡単なのにな、と少しだけうんざりする。
「そう。ずっとずっと仲良しなんだよ」
美亜姉は、一聴きするかぎりだと軽やかかつ楽しげに。よく聞くと噛みしめ言い聞かせるようにそう告げた。
「仲は、悪くない、ですね」
一応、表立っては肯定する。仲が良いのは変わりないはずなのに、そう口にするのは躊躇われた。
「もう、またもったいぶったことを言っちゃって。思わせぶりなのは女の子に嫌われるぞ」
「そうだよ。シローってば普段からやたらとかっこつけたがってるけど、そういうの逆効果だからね」
両側から笑いとともに軽く肩を叩かれる。俺はそれをなんとも言えない気持ちで受けいれていた。ずっと、仲良く。そんな言葉が耳の奥に気持ち悪くへばりついているように思える。
それから幾らか時間が経ったところで、図書館の出入り口がガタリと音を立てた。途端に姿勢を正す赤坂と、レジから離れる美亜姉。お客さんに助けられたとほっとしていると、顔を出したのは見慣れた顔の茶髪の男。見慣れないところといえば、白いトレーナーの上にジージャンを羽織って、薄青のデニムを履いているところ。要は私服であることに物珍しさがあった。
「久しぶりだな水沢弟。それに赤坂も」
「お久しぶりです、沼田先輩」
これ幸いとばかりに軽く礼をする。沼田先輩は、律儀だなお前、と苦笑した。
「とりあえず元気そうで安心したよ」
「スグル先輩、うちはうちは」
右手をひらひらと振る赤坂に、沼田先輩は、言うまでもないだろう、という目を向けたあと、
「はいはい、元気元気」
雑な返事。途端に赤坂がむっとし、扱いが雑ですよ、と文句を口にする。
「ちょっとスグル。あたしとも久しぶりでしょ」
一人置いてけぼりにされた美亜姉が参戦した。沼田先輩は鬱陶しげに、ああ譲原か、と目を向ける。
「たしかに久しぶりだけど、正直なところ後輩たちよりは会ってるし、あんまり久しぶり感がないっていうか」
「いや、数ヶ月ぶりの再会なんだから、もうちょい感動して欲しいんだけど」
わざとらしく声を張り上げ絡んでいこうとする美亜姉に、ややうんざりしたような目を向ける沼田。
その後ろで再び出入り口が動く。この時、俺は誰よりも早く反応した。仮に事実でなくてもそんな確信がある。
程なくして、丸眼鏡をかけた肩まで伸びた波打った髪の女が出てくる。女は黒いブラウスの上に白いカーディガンを羽織り、灰色のデニムを履いていた。一瞬で目が合う。
「姉ちゃん、久しぶり」
「久しぶり」
姉ちゃんはいつも通り無機質な声で応じたあと、ゆったりとした足取りで古本市のレジへと近付いてくる。いくらか遅れて、美亜姉が、梨乃じゃん元気にしてた、と作り笑顔で声をかけ、それより少し遅れて赤坂が、リー先輩だぁ、と小走りで駆け寄っていった。そんな三人の姿を俺のすぐ前まで来た沼田先輩が遠巻きに見守っている。
「沼田先輩は姉ちゃんと一緒に来た感じですか」
「ああ。今も近くに住んでるし、どうせならまとめてきた方が色々手間が省けそうだったしな」
寝坊されるかもしれないとちょっと不安だったけど幸い杞憂で済んだよ。しみじみとした沼田先輩の述懐を耳にして、下宿生いいなぁ、と羨望の眼差しを向ける。
来年は絶対、姉ちゃんと同じ大学に受かろう。そうあらためて決意を固めてから、積極的に話しかける同輩女と幼なじみと、それをどこか気だるそうに受け答えする姉ちゃんの方を見る。
随分と懐かしい、幸せそのものの残り香がした気がした。
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