四

 望んでも望まなくても〆切はやってくる。あれをやっておけばよかった、これをやっておけばよかったという後悔。そういった感情。その多くは、ここまで来ればほとんど用を成さない。


「はい、よろしくね編集長。いやぁ、今回も多くなっちゃってごめんね」


 赤坂はいつも通り横よりにくくった髪を嬉しげに揺らしながら、USBを現編集長の長谷部へと渡す。丸顔の少年編集長は優しげな目を泳がせながら、いつもありがとうございます、と応じた。


「いやいや、そんな畏まらなくていいって。ページを埋めるのだけは得意だから」


 どことなくハイになってバンバンと長谷部の肩を叩く女先輩。困り顔をしつつそれでも笑う後輩。本人の自己申告によれば、赤坂は今回短編五本を書いたらしい。しかも、できる度に一本一本提出していたらしく、結果として締め切り最終日である今日まで精力的に書き続けたとのことだった。一本一本の厚み次第ではあるが、事と次第では冊子の半分以上を占めることになるかもしれない。最上級生であるにもかかわらず、どうやら自重の心はどこにもないらしかった。


「悪いな。直前まで粘ってしまった。先輩失格だ」


 悪気がまったくななさそうな赤坂に対して、終始申し訳なさそうに頭を下げる小山。この態度には後輩である長谷部の方がより恐縮してしまう。結果として、図書館ラウンジ前は頭下げ合戦と化した。最終的に現部長の入江が、丸眼鏡を光らせ、やめやめと横から入るまで、そんな不毛な光景が繰り広げられることとなる。


「長谷部は何でも謝りすぎ。せめて、頭を上げてくださいくらいすればいいのにさ。コヤ先輩も〆切ぶっちしたんじゃないですから、いちいち謝らないでくださいよ。ちゃんと納期通りに仕上げたんですから」


 胸を張る現部長の三つ編みが揺れる。小山は尚も、元編集長の経験から〆切ぎりぎり提出が続出した場合に起こる面倒な事態を予想した上での自責の念を口にしようとしたが、結局入江の厳しい眼差しの前に矛をおさめた。


 そして、当の俺はといえば、


「先輩、まだですか」

「もうちょい」


 部長の呼びかけに悲鳴のように答える。ラウンジに持ち込んだノートパソコン。時に詰まり、時に流れるように。とにもかくにも速度を変えつつ、ひたすら打鍵を続けていた。


「ほらほら、遅いぞ。ハリアップ」

「とにかく諦めずに頑張れ」

 

 野次馬。もとい赤坂や小山といった同輩たちの生温かい声援。それに後押しされているような。あるいは邪魔されているような。なんともいえない気持ちになりつつも、指を動かしていた。情報処理室にあるパソコンでも借りて一人で作業した方が良かったかもしれない。少なくとも集中力は上がっただろう。そう振り返りつつも、周りからの圧力に押される今の状況ともそれほど悪いものではなかった。なんというか。生きている感じがした。


 図書館の入り口付近にあるこの場所の前を、通りがかる利用者の何人かは時折、奇異な目でこっちを見てくる。気持ちはわかった。むしろ、同じ立場だったらおそらく似たような眼差しをワープロの上で指を動かすやつに向けるに違いない。視線に曝される身としては多少の恥ずかしさはあったものの、だからといってそんなことに頓着はしていられなかった。


 これでいいんだろうか。手元で書かれている文章は謎解きの終盤部分に差しかかっているにもかかわらず、いまだに迷いが生じている。自分で書いたものの面白さに対しての疑問。書く前も書いている最中も、なんなら書き終わったあとも発生するような迷いは、この期に及んで膨らんでいく。


 完成させたところで恥を曝すだけではないのか。不完全なものを出すよりは、いっそのこと諦めてしまった方がいいんじゃないのか。なにせ、俺は三年生なのだから、無理をして出す必要はない。誘惑はどれもこれも必然性のあるものとして、降りかかってきて、何度も指を止めようと思った。


 けれど、結局は指を動かし続けた。既に書きかけた多くの部分を投げ捨てる気になれなかったこと。諦めてしまえば、俺の中でなにか大事なものがぽきりといってしまいそうなこと。そしてなにより、もう少しで気持ち良くなれそうだという予感があったこと。とにもかくにも、素早く指を動かし、指を止め考え、再び打って、また止まる。その繰り返し。


 程なくして、ひとまず書き終わり、傍らに立つ同じ部の仲間を眺める。心配そうにこっちを見る現編集長。丸眼鏡越しの冷やかな眼差しを向けてくる現部長。ただただ微笑む元編集長。そして、ニヤニヤしつつも絶対の信頼を目の中にこめた筆の早い同輩の少女。どれもこれも心強い。


「まだですか」

「ごめん。見直しだけさせて」


 急かすような部長の声。悪いと思いながら、最初のページに再び目を落とす。そこから素早く先程まで書いていたものを見直していった。もっともあまり冷静でないため、誤字脱字やまずい表現を見落とさないか気が気ではない。そして、どんなに注意を払っても何らかの取りこぼしはあるんだろうなと半ば諦めてもいる。そんな雑念を転がしながら。変な表現を直したり。抜けている字を補い。間違っている字を適切なものに直していく。


 そうして作業を進めている最中。これで終わりなんだな。という感慨が降りかかってくる。とにもかくにも三年近く書き続けてきた。その積み重ねが、受験という現実によって一端途切れることとなった。昔読んだ学内誌のバックナンバーを読むにさっさと推薦を決めて、三年の文化祭後から卒業まで書き続けた先輩もいるらしい。けれど、推薦などとれず、志望校の合格も危うい俺にそこまで遊んでいる余裕はない。だからひとまず。これでおしまい。


「悪いな入江。やっと終わった」


 仏頂面をした現部長が小さく肩を撫で下ろす。


「待ちくたびれましたよ」


 ほっとしたような女の声音を耳にしてから。差し込んでいたUSBに書いたばかりの原稿を名前を付けて保存。ファイルが所定の位置にあるのを確認し。テキストファイルとその他のウィンドウを閉めて、USBの取り出し処理を行う。


「編集長も待たせたな」

「いえいえ。無事に終わったようでなによりです」


 おっとりとした声で応じる長谷部。心から嬉しそうにしてくれている編集長の顔を見てほっとする。書き続けて良かった。ひとまずそう思えた。


 直後に思い切り肩を叩かれ、びくりとする。振り向けば、感極まったような赤坂がいる。少女は満面の笑みを浮かべながら正面から抱きついてきた。


「お疲れ様」

「ありがと」


 赤坂の体の柔らかさを感じる。疲れているせいだろうか。やけに生々しいような気がした。そう言えばまだ夏服着てたな。そんなことを他人事のように思う。


「小麦も嬉しいのはわかるから、離れてやれよ」


 小山の声がかかって、少しだけ冷静になる。なぜだか、隣で赤坂が頬を膨らました。


「これくらいいいじゃん。スキンシップだよ、コヤ君」


 その言葉の通り、赤坂は身内相手であれば、喜んでいる時は抱きついてきたりする。俺としても、相手がいいのであればあまり抵抗がないクチだから特に気にならない。けど、小山はそこら辺の倫理観が俺や赤坂とは異なっているらしく、眉を吊りあげる。


「小麦はそう思ってても、周りはそう見てくれないんだ。もうちょい、時と場合を考えてやれよ」

「けど、今、ここにはうちらしかいないじゃん」


 不満気な赤坂の声を耳にして、周り見回す。図書室内というくくりでは赤坂の言葉は不正確だったが、ことこのラウンジ内であれば正しかった。なにせ、赤坂と一年以上の付き合いがあるやつばかりでこういう抱きつき癖なんかもよく見ている間柄であるのだから。


「それでもこれから誰か来るかもしれないし、図書室内から引き上げてくるやつがいたら見られるかもしれない。小麦だけの問題で済めばいいが、司郎も巻き込むことになるだろう。それでいいのか、小麦」


 そう小山に窘められた赤坂は、ちぇっと、舌打ちをしてから、俺の腰に回していた腕を解いた。けど、すぐに嬉しそうに笑う。


「それじゃあ、これからどうしようか」

「これからなんかあるのか」

 

 唐突にわけのわからないことを言い出した赤坂に尋ね返す。赤坂は、もうわかってないな、と指を左右に振ってみせた。


「原稿が終わったんだし、打ち上げに決まってるじゃん」

「打ち上げ、ねぇ」


 少し前までであれば、一も二もなく飛びついた提案だった。ただ、時計が五時半を少し回ったところを指しているのを見て、躊躇いが生まれる。


「あれ、シローってば、あんま気乗りしない感じ」

「気乗りしないっていうか」

「昼にも話してた、親御さんのことか」


 小山が察しよく、俺側の事情を口にした。それ自体は情けなく恥ずかしいことではあったものの、今更否定できずに頷く。


「なんか、俺が家の中で笑っているだけでもぴりぴりしだすこともあってさ」


 心配されているんだろう。そう理解はしているし、ありがたくもある。現にケツに火をつけられて受験勉強に身が入らなくもない。ただ、やはり息苦しさがある。


 赤坂は、そっかぁ、と口にすると、目蓋を閉じ、眉間に皺を寄せた。そうして、俺や小山、残された後輩二人が固唾を飲んで見守っているところで目を開き、


「じゃあ、今のシローって門限があったりするわけ」

「遅くとも七時くらいかな。それも色々言い訳つければって感じだけど」


 一応、頼みこめばもう少し遅く帰ることも可能だった。ただ、母さんはともかくとして、今の父さん相手だと著しく機嫌を損なうことになる。赤坂はだったらさ、と前置きしてから顔を寄せてきた。


「途中で買い食いだけでもしない。ちょっと寂しいけど、それくらいだったら何とかならない」


 どことなく不安気な眼差しの赤坂。その提案は、考えた時間の割には意外性はなかったものの、とても妥当なものに思えた。


「うん、それだったら」

「やった」


 途端に顔を輝かせる赤坂。相変わらずくるくると表情が変わるな。そんな感想を持ちながら、隣にいる小山を見れば苦笑いをしている。もしかしたら俺も小山と似たような顔をしているのかもしれない。


「それで、部長と編集長はどうする。って、聞くまでもないか」


 小山は後輩達の予定を尋ねかけたところで、質問を取り消す。その視線の先には、現編集長の腕におさまった何本かのUSBがあった。おそらく、これから下校時刻まで二人でチェック作業だろう。


「どうぞ、私たちは気にせずに楽しんできてください」


 現部長のはっきりとした物言い。却って気になっている、と訴えかけているように聞こえたが、俺は気付かないふりをした。俺と似たような気持ちなのか、あるいはただただ部長の言葉をそのまま受けとったのか、赤坂は、それじゃあ、と力を溜めるみたいに言ってから、


「なにを食べよっか」


 餌を求める子犬みたいな顔をして俺と小山を見つめてくる赤坂。俺と小山は顔を見合わせる。なんだかんだで、楽しいと思った。


 直後に図書館の扉が開く。順ちゃん先生だった。


「よぉ、やってるか」


 このスーツを着た若い男性教師は、気だるそうな顔をしたまま頭を掻いている。順ちゃん先生の声に反応したのか、現部長は背筋を伸ばした。真面目一徹なこの後輩女子以外の周囲は、各々、こんにちは、だとか、やっほ順ちゃん、とか、気楽に挨拶をしている。


「はい。つい先程、原稿の回収が終わりました」

「はいはい、ご苦労さん」


 部長の堅苦しい報告に、先生はさして興味がなさそうな調子でひらひらと手を振って応じる。それから、ラウンジ内の机に置かれているノートパソコンを一瞥してから、その前に座っている俺へと視線を移した。


「お前、またぎりぎりの提出だったんだな」

「ええ、まあ」


 期限内に提出できはしたものの、こうして面と向かって言われるとなぜだか後ろめたい。途端に、先生はへらっと笑った。


「いやいや、別に責めてるわけじゃない。俺も宿題や書類はだいたい一夜漬けかぎりぎりで完成させるからな。なかなか、早め早めとは行かないもんだなって勝手に思っただけだ」


 先生の口から放たれた気軽な言の葉は一教師の発言としては無責任に聞こえた。自然と、ぎりぎりまで後回しにするということへの危機感も強まる。俺の気持ちを知ってか知らずか。先生はがははと笑ってから、部長と編集長の方を見た。


「お前らはこれから情報処理室で編集作業か」

「はい。軽く全体のチェックをしておきたいので」

 

 編集長は丸い顔にわずかな誇りを宿しながら、そんな風に応じる。その隣にいる現会長も頷いてから、


「今の内に校正しておけば、明日以降も楽ですから」 


 同級生の男の意見を肯定した。順ちゃん先生は、そうかそうか、と答え、


「なんかあったら言ってくれ。やれるだけのことはやってやる」


 あまり熱の籠もってない淡々とした声で応じた。とはいえ、この顧問の教師の調子はいつものことなので、この場にいる誰もたいして気にしない。どころか、編集長は、その時はよろしくお願いしますね、と嬉しそうにしていた。


 やる気はなくても人望はある。そういうところが不思議ではあったが、案外人気なんてそんなものかもしれない。


「ところで水沢」


 苗字を呼ばれ、なんですか、と応じた。


「今から少し時間、あるか」


 その問いかけに、赤坂と小山の顔を見る。そうしてから、首を横に振った。


「これから約束があるので」


 先約は先約。そしてそれ以上に、今はこれ以上、先生と話したいという気になれなかった。


「約束って言うのは、赤坂と小山とか」

「ええ」

「そうか」


 先生は目を軽く瞑ってそう答えた。諦めてくれたか、とほっと胸を撫で下ろしていると、


「そこを何とか、時間を作ってくれないか」


 なんと先生が両手を合わせ頼みこんでくる。俺は、やめてください、と返事をしてから、正直やりにくいなと思った。もっともこの男性教師がやりにくいのは、今にはじまったことではないのだが。


「先生の用事は今日じゃないとダメなんですか」


 時間稼ぎをしつつ相手を振り切るべく、そう尋ねる。しばらく間が空いてから、たぶん、とやや疑問系気味な答えが返ってきた。やはり、信用できそうにない。


「とにかく、今日はみんなと一緒に帰りますよ」


 俺は締めくくるようにして、そう応じる。そろそろ、諦めてくれないかな。内心でそんなことを思いながら。


「どうしても、帰る気か」

「ええ」


 くどい。そんなことお思いつつもできるだけ感情押さえるようにして声を出す。先生は面倒くさそうに溜め息を吐いてから矛先を俺の隣にいる赤坂と小山に向けた。


「なあ。お前らも水沢に残るよう言ってくれないか」


 訴えかけるような声音に、赤坂は困ったように瞬きをして俺と小山の間で視線をさまよわせてから、首を横に振る。


「ダメですよ。うちも、シローと帰りたいですし」

「そんなに卒業前の打ち上げが大事なのか」


 促すような声音に、赤坂は少し考えたあと、ゆっくりと頷いてみせる。


「って言うか、俺たち先生に打ち上げするなんて言いましたっけ」


 訝しげな小山に、先生は、わかるって、と笑った。


「何年か付き合ってればお前らの考えてるようなことくらいはすぐわかる。これでも教師だからな」


 誇らしげに胸を張る先生。それを見ながら俺は、何年経験を積んでも人の心がわからないままの教師もいるだろうな、とまったく反対のことを思う。


「けど、順ちゃん先生もうちらに用事があるって分かりましたよね。だから、またの機会にしたらいいんじゃないですか」 


 なぜだか嬉しそうに胸を張る赤坂。それにあわせるようにして先生は呆れ顔をした。


「一教師としては、生徒たちの道草は推奨できないんだけどな」

「何言ってんだか。先生って、そんな柄じゃないでしょう」


 なにがおかしいのかくすくす笑う赤坂。先生は少し困ったような表情を浮かべたあと、何度か瞬きをしてから、後頭部を掻いた。


「そこまで言うなら、仕方ない」


 その発言的に諦めたのかな、と思った。直後。先生は履いているズボンのポケットをごそごそと探りだす。程なくして、取りだしたのは近所にあるラーメン屋の割引券らしきもの二枚分だった。


「赤坂と小山。お前らにこれをやろう」


 訝しげな顔をした赤坂は、券を受けとるや否や、目を丸くする。


「半額券、って、すごくない」


 言いながら、隣にいる小山に券を見せる。俺もまた見てみると、たしかにそこには、半額券、と書かれていた。渡した本人はといえば、普通だと思うぞ、と平然と口にする。


「定期的に昼飯に通ってれば、それなりの頻度でもらえるからな」


 裏を返せば、半額券を定期的にもらえる程度にラーメン屋に通える財力があるんだな。そう、ぼんやりと思う。とはいえ、そこは大人の財力というやつなのかもしれなかった。


「いいんですか。もらっても」


 おそるおそるといった体で尋ねる小山。先生は、ああ、と無表情で頷いたあと、その代わり、と言い加えて、


「今日、水沢を置いていってくれないか」


 半ば俺の予想通りの答えを口にした。途端に不思議そうな顔をする小山の隣で、赤坂の表情が対照的に消える。赤坂は怒っているんだろうか。


「順ちゃん先生は、そんなに今日、シローと話したい。そういうことでいいのかな」


 だけど、予想に反して赤坂の声音は静かそのもの。何かを感じとったのだろうか。先生はどことなくバツが悪そうな顔をした。


「そこまでどうしてもかって言われると、そうでもない気がするんだが、なんとなく今話をしておきたくてな。あと、今日話さないと忘れそうだし」


 いつになく言っていることが支離滅裂だ。先生の言動に対してそんな印象を持つ。緊急性がないと言いながら貢物をしてまで他の二人を先に帰そうとしているあたり、もうわけがわからなかった。


「先生の話は長引きそうなわけ。なんなら、うちらは待っててもいいけど」


 確認するように尋ねる赤坂。それに先生はまた曖昧な顔をしてから、たぶん、とおずおず答える。赤坂は目蓋を閉じ、しばらく黙っていたが、


「そっか」


 やがて、納得したように口にした。直後に鞄を背負うとともに、小山に視線を向ける。


「そういうことだから、コヤ君。ラーメン食べに行こう」

「そういうことってどういうことかよくわからないんだが」


 小山は戸惑いつつ、赤坂と先生、俺、そして蚊帳の外に置かれている部長・編集長の間で視線を右往左往させていた。


「っていうか、当事者の司郎が残るって言ってないのに、俺らが決めるっていうのも変な話だろう」


 そう小山に指摘されて、ようやく自分の話だったな、と思い当たる。自分事であるはずなのに、いつの間にかどことなく他人事だという気がしていた。


「それで司郎はどうしたいんだ」


 どうしたい。その聞き方をされると、少々わからなくなってくる。さしあたっては、先約だからということ。そして受験が終わるまであまり友人たちゆっくりする時間も減りそうなこと。その二つから、赤坂の言うところの打ち上げに参加しようと決めた。ただ、同級生の二人と一緒にいたいという気持ちはぼんやりとあれど、それは今日である必要はあるか、という思いがなくはない。とはいえ、先約は先約だ。


「お前らと帰るつもりだけど」


 そう答えてみる。直後に小山がどことなくほっとしたような顔をした。


「うちらに気を遣わなくてもいいって」


 意外というほどではないにしろ反対意見は赤坂の方から出た。


「たぶん、順ちゃん先生は大切な話があるみたいだし、うちらの打ち上げは、また今度、みんなの都合のいい日を選んであらためてやればいいしね」


 口にした赤坂は、今度は取り残されている後輩二人を見やる。


「せっかくだし、後日に今日忙しい二人も一緒にまとめて打ち上げするのもいいかもね」


 それはもう趣旨が違うんじゃないだろうか。なんとはなしに三年だけで行くと思い込んでいただけに赤坂の発言にやや肩透かしを食らった気分にさせられる。


「そういうのは文化祭が終わったあとにやりたいです」

 

 俺と似たようなことを思っていたのだろうか。会長の入江はどことなく歯切れが悪そうにしながらも、そんな主張をする。直後に赤坂は、そうかもね、と笑みを浮かべ、俺の方を見た。


「とにかく、打ち上げはまた今度ってことでどうかな。たしかに時期が時期だけに、うちらも予定が合わせにくいところはあるけどさ、一日も暇がないわけじゃないんだし、また今度でも良くない」


 実のところ、一秒も無駄にできないかもしれない。現状の受験勉強の進捗からすれば決して楽観はできなかった。とはいえ、休まないでもつとも思えない。なので、赤坂に頷いて応じる。


「赤坂がそこまで言うんだったら、またの機会にするか」

「ちょっと待て。本当にそれでいいのか」


 口を挟んでくる小山。なにかが引っかかっているらしいが、俺から見るとどうにもピンとこない。


「たしかにちょっとパーッとやりたい気持ちは俺もあるけど、赤坂の言う通り、別の日にしてもいいわけだし。強いていうなら、お前らの方が先約だったのがちょっと気になるけど、それもさっきからの話であらかた片付いたしな」


 小山をやんわりと見やる。そのどことなくバツが悪そうな表情。この場で俺が残るのを了承していないの、もはや小山だけだった。


「悪いな小山、俺のわがままだ。許せ」


 さすがに無理やり引っ張っていこうとしていることに思うところがあるのか。先生が侘びを入れる。小山は首を横に振った。


「いえ。みんなが納得しているんだったら、俺も言うことはありません」


 表情からするに、まだ小山は納得していないように見える。とはいえ、そういった本音は飲み込むことに決めたらしい。俺は、悪いな、と謝ってから、


「また、今度。あらためて打ち上げをしよう」

「うん、そうしよう」

 

 小山は歯切れが悪い口ぶりながらも、作り笑いをしてみせる。そこに小さな痛々しさを見出して気まずくなったものの、今更意見を翻したところで元の空気に戻るわけでもないため、気付かないふりをした。


「話は済んだかな。早くラーメン屋に行くよ」


 どことなく変になった空気を察しているのかいないのか。赤坂が小山の手を引っ張って図書館の外へと連れて行こうとする。


「いちいち手を掴まなくても付いて行くってば」


 すぐさま腰の辺りに引き戻す小山。なぜだか、赤坂は、ちぇっと、舌打ちをする。


「いいじゃん。そんなに嫌がらなくても」


 相変わらず赤坂は人との距離感が近いな。そんなことを思いながら、言い合う二人をなんとはなしに見送る。程なくして、出入り口が開き閉まるのを確認してから、先生の方へと向き直れば、扉の方をぼんやりと眺めていた。まるで、周りの存在を忘れているような素振りに、帰っていいかな、という誘惑にかられる。


 /


「悪かったな。残ってもらって」


 図書館を出たあと俺らは人気のない校舎裏までやってきている。その場で順ちゃん先生は煙草の先端にライターを当てはじめた。


「今って、校内、全面禁煙じゃありませんでしたっけ」


 気付いたので指摘する。


「お前を喫煙室に連れ込むわけにもいかんからな。まあ、緊急避難みたいなもんだ」


 先生は悪びれもせずにそんなことを口にして見せた。言い訳としては下の下だったけど、今のところ人が来る様子はないので、まあいいかと割り切る。


「それで、何の話ですか」


 諸々の理由から早く帰りたかったので、単刀直入に切り込んだ。そんな俺の気持ちとは対照的に、先生は、焦るなって、と煙をゆっくりと吹かす。もう帰ってもいいかな。うんざりする俺の前で、先生は虚ろな顔をしたまま煙草を吸っていたが、


「最近調子はどうだ」


 唐突にそう切り出してくる。


「知っての通り受験生なんで、それなりに忙しいです。ただ、〆切までに文化祭用の原稿が提出できたんで、少しだけ楽になりましたけど」


 向こうから持ちかけてきた人生相談とか進路相談の類か。とはいえ、順ちゃん先生は文芸部の顧問ではあっても、担任ではない。となれば、個人的な心配といったところか。


「まあ、そりゃそうか。とりあえずまず脱稿、お疲れ様」

「はぁ、どうも」

 

 打ち上げを延期させ原因を作った当の本人に労われる。どの口が、と思いつつも、たぶんまだ本題じゃないしな、と割り切る。


 先生は煙草をもう一口呑んだあと、こころなしか背筋を伸ばす。


「お前が希望する進路は、たしか姉と同じ大学だったな」

「はい」


 俺の言葉に、先生は空いている方の手で後頭部を掻く。


「行きたい理由は、姉がいるからとかか」

「それだけじゃないですけど、それもあります」


 今のままでは合格できるか微妙なところが頑張るのにちょうどいい。同じ県内。面白そうな学部とサークルがある。そうして本音とも建前ともつかない事柄を一つ一つ挙げていく。ここら辺は進路相談の時に担任にも披露したからいつになく口が滑らかに動いた。


「模試の結果とか見るにけっこうぎりぎりらしいが、本当に大丈夫なのか」


 さほど気のない声で尋ねられた疑惑。ここら辺は毎回担任に尋ねられる痛いところだったが答えることも決まっている。


「やるだけやります。なるようにしかならないので」


 気概に欠けると俺自身も思わなくない。ただ、わかりもしない将来に、絶対という言葉を添えたくないという気持ちが大きかった。


「それもそうだな。気負ったところで成績が良くなるともかぎらんし、思いの強さで受かりやすくなるわけでもないしな」

 

 先生は気だるそうに口にする。言っていることはもっともだと思わなくもなかったが、教師が口にしていいことなのか、と首を傾げたくなる言動だった。ただ、背中をバンと叩いて気合を入れてこようとするみたいなのは、順ちゃん先生のキャラではないので、このくらいがちょうどいいのかもしれない。


「まあ、進路に関しては担任でもない一教師の俺が口を挟むことでもないだろうさ。そこら辺は、お前が散々悩んで決めたことなんだろうし」


 それがわかっているのなら、何で聞いてきたんだろう。心の中で呟いた疑問を読みとったように、先生は薄く笑ってみせた。


「お前ともそれなりに長い付き合いだしな。何を思って大学を受けようとしているのか聞いておいてもいいなと思ったんだよ」


 どことなく恥ずかしげな様子から、これが今日の本題かな、と推測する。逆に言えば、真剣に進路を聞かれる程度には気にかけてもらえているらしい。


「ってことは、赤坂とか小山とかも後日にまた似たようなことをしようとしてたりするんですか」

「いいや。あいつらから相談されたらもちろん受けるが俺の方から聞こうと思ったのはお前だけだ」


 不思議そうな目でこっちを見る先生。その言い方に戸惑う。どういうことだろう。だとすれば、俺は知らず知らずのうちにこの教師を心配させてしまっていたということだろうか。


「なんで、俺だけなんですか」


 尋ねたところで一つの可能性に思いいたる。


 先生は少しの間、紫煙を吐き出しながら、ぼんやりとしたまま黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。


「去年、お前の姉が急に進路を変えただろう」


 やっぱりだ、と思う。


「元々、お前の姉と譲原、たしか沼田も付属大学にそのままあがる予定だったからな。譲原は予定通りそのまま上がったが、お前の姉は進路を変えたいって唐突に言い出して、そのまま別の大学に行っちまった。あの時は、俺としても混乱の極みだった。お前の姉の場合、普通に付属にあがれるだけの成績は問題なくあったのに、急に外の空気を吸いたいとか言い出した時には、乱心したかと思ったよ。とは言っても、話を聞いたら乱心どころか、かなり理性的だっていうのがわかったから、よりわからなくなったんだが」


 がりがりと音がしそうなくらい頭を掻く先生。それを見てなんとはなしに背筋を伸ばしてしまう。


「おまけにお前の姉は、一緒の大学に行くって約束してた譲原にまで外部の大学に行くのを黙ってたらしくてな。その癖、沼田のやつはお前の姉と一緒の大学に行くって言うんだからお前の上の世代は大混乱の極みだ。いや、ここら辺は部長だったお前も当事者か」


 思い出すのは、姉ちゃんに掴みかかる美亜姉の姿。二人を落ち着かせようと割って入ろうとする沼田先輩。ラウンジでだべってた俺と赤坂、小山、それに現部長と現編集長を含んだ何人かの後輩は呆然と見ていた気がする。


 その時はなにが起こったのかわからなかった。後に出来事の裏側を知って、一気に罪悪感が押し寄せてもきたのだけど。


「もちろん、お前とお前の姉は違う人間だし、普段の振る舞いも趣味も違う。ただ、やっぱり姉弟だからか、通じるものがあると思っている」

「具体的には、どういうところですか」


 興味が湧いて尋ねる。先生は、そうだなぁ、と虚空を見上げ、


「ぱっと見て気付いたところは、思い込んで走り出したら止まらないところとかか。お前の姉は、普段は何が起きてもどうでも良さそうな顔してる癖して、妙なこだわりがあるし、お前はお前で適度に柔らかいように見えて折れないところは折れないし。まったくもって姉弟揃ってやりにくいやつら」

「そういうのって誰でも当てはまるんじゃないですかね」


 っていうか、生徒相手に直接やりにくいとか言うか、普通。そう思ったところで、順ちゃん先生自身が、微妙に普通と言うには差しつかえのある性格をしているな、と考え直した。


「たしかにお前の言う通り、多くの人は、そいつにしかわからない強いこだわりを持ってたりはするな。けど、お前ら二人はもっと頑なというか、引き返せないゴンドラに乗ってしまっているように見えるというか」

 

 ええっと、何が言いたかったんだったかな。眉間に皺を寄せる先生。その顔を見ながら、引き返せないゴンドラ、という言葉を頭の中で転がす。割と正確な評価かもしれないと思った。


「ああ、そうだそうだ。俺の見方はともかくとして、お前も姉みたいに急に進路を変えるとか、それ以外にでかい悩みがあるとかだったら、面倒だが相談に乗ろうと思ってるってことだけは言っておきたかったんだ」

「面倒なんですね」


 それはそうなのかもしれないけど、と納得しつつも、相も変わらず、歯に衣着せない物言いをする先生だった。とはいえ、そういう言い方をしていいのか、とは思っても、不快感はない。むしろ、はっきりしてる分、わかりやすくていい気がした。


 先生は、面倒に決まってんだろ、と言いつつも、


「その面倒くささの代わりに金もらってるわけだしな。ついでに言えば、お前もとっくに卒業したお前の姉も、割とかかわりが深かったから相談くらい乗ってやりたいし、乗れなかったら乗れなかったで寝覚めが悪い」


 そんなことを口にする。こうした先生の言を耳にして、俺はその真意を測りかねていた。いや、心配されているのはわかる。ただ、それがあくまでも俺が何かやらかすかもしれないという懸念に対しての釘刺しなのか。あるいは俺が何かをやらかすと確信したうえでの追及なのか。どうにも判断がつかないままだった。


「少なくとも今のところは進路を変えるつもりはないですけど」


 さしあたっては本音、というよりも事実を投げてみる。先生は、そうだろうな、と頷いた。


「今日、少し話を聞いてみただけだが、お前がかなり本気で姉と同じ大学に行きたいというのはわかった。むしろ、お前の場合、心配なのは成績の方だしな」

「そっちは鋭意努力中だから、突きつけて欲しくなかったんですけどね」


 苦笑いを浮かべつつ現時点での先生の心配はさほど大きなものではないのだと推測する。


 先生は煙草をもう一口吸ったあと、胸ポケットから平らな携帯灰皿を取りだした。


「ただその一方で、目標がしっかり定まっているっていうことに危うさを覚えなくもないな」


 開いた灰皿に煙草の先端を押し付けながら、不思議なことを言う先生。よくわからない、と思う。


「それはよくある、いざ受験に失敗した時にぽきりと折れてしまうとか、もしくは受かった時に燃え尽きてしまうとかいうあれです」


 口にした事柄の通りであれば、大丈夫なんじゃないかと、楽観する。なにせ、中学の時はこの高校ですら受かるかどうかわからずに受けて見事に受かったけど、その後も俺は俺のままだったわけで。順ちゃん先生は、いやそれもあるかもしれんが、とやや歯切れが悪そうに口にしたあと、


「また、お前自身とは関係ないことだから、気を悪くしないで欲しいんだが」


 などと前置いた。その瞬間、先生がなにを口にしようとしているのかを察する。


「そういうまっすぐなところも、進路を変える前のお前の姉と被るというかな」


 もっとも、お前の姉の時は、最初の付属に上がるっていう選択肢に疑いすら挟まなかったんだが。そんな風に付け加える先生の物言いは、ほぼほぼ、俺の予想した通りのものだった。


「また、姉ちゃんのことですか。卒業しても愛されているあたり、さすがですね」


 他人事のように口にしながら、去年の夏前辺りの姉に進路の話になった時の台詞のが頭に浮かぶ。


 正直、この町を離れた私っていうのが想像できない。だから、たぶんそのまま付属に上がるし、そうじゃなくても地元の大学に進学するんじゃないかな。


 気のない表情で紡がれた言葉は、姉ちゃんにとって自分事のはずであるのにもかかわらず、至極どうでも良さそうなのが印象に残っている。


「愛されているというか、なんというか。お前の一つ上の世代だと、いの一番の問題児は譲原で常識人なのは沼田だった。お前の姉はちょうどその真ん中くらいに思ってた。そんな印象があったせいか、受験前のごたごたで一気に見る目が変わった。覚悟を決めたときのお前の姉はやばいってな」


 俺のなんとはなしに口にした言葉を拾った先生は、姉ちゃんの話から、今はいない去年の三年生たちにまで話題を広げる。そして、その中で一番印象に残っているのはうちの姉ちゃんみたいだった。


 先生はこほんと一つ咳払いをしたあと、煙草をもう一本取り出そうとしてやめていた。


「まあ、何が言いたいかっていうと、なんか抱え込んでいることがあったら、爆発させる前に相談してくれってことだな。俺に話したところでどうにかなる問題でもないかもしれんが、その一回の相談で冷静になって考えられたら、自分の頭の中で考えているよりも窮屈にならないですむんじゃないかってことだ」

「俺が、なんか抱え込んでいるって言いたいんですか」

 

 さぐるように言葉を投げる。そうしてから笑みを作ってみせた。先生は結局、もう一本煙草を取り出したあと、素早く火をつけて一口。少しの間の沈黙。遠くからは帰宅する学生とおぼしき声の連なりが聞こえる。


「その年になってなんも抱えてないとは言えんだろう。俺の見る感じではお前自身が天に愛されてなんでも順風満帆思い通りってわけでもないんだから高校生らしい悩みの一つや二つはあって当然だ」

「そのくらいだったら、一つや二つあるかもしれませんけど」

 

 俺の答えに先生は我が意得たりと言わんばかりに笑ってみせた。


「そういうのも含めて、話したければ話してみろ。なきゃないでいいが」


 気楽そのものな言の葉。本当にどっちでも良さそうな声音。それでも、それなりに心配されているというのはわかったし、俺が持ちかける相談だったらとりあえずは乗ってくれるだろうと信頼できた。だからといって、今相談するかどうかはまた別問題だったが。


「とりあえず、模試で志望大学の合格率が上がらないのが目下の悩みですかね」


 さしあたっては当り障りなくはあっても、現時点ではどうにもなっていない現実を口にしてみる。


「それ、一番判断に悩むやつだな。特にずっと上がらないと精神的に来そうで嫌だな」


 先生も眉を顰めながら話に乗ってくれた。


「いっそ下がったとかだったら、もっと頑張るしかないな、と腹をくくりやすいんですけど。模試受けはじめてからずっと同じくらいだと、そもそも俺の勉強方法に効果あるんだろうかみたいな根本的な疑問が浮かびあがってくると言いますか。段々、手応えがなくなっていっている感じがなんとも」

「結局、やるしかないにしても、なんとなくやったことの成果は実感したいよな」

「そうなんですよ。もう少し手応えが欲しいと言いますか。点数的にも伸び悩んでますし」

「担当科目の現国、古典、漢文辺りだったら、俺でもなんとかなるが、たしかお前、そこら辺はほとんど問題ないんだよな」

「はい。伸びてないのはもっぱら英語と日本史以外の社会ですね」

「典型的な文芸部にありがちな成績だな。高校の時の俺の周りにも多かったし、たしかお前の姉も似たような感じだったな」

「その言い方だと先生は高校時代も文芸部だったんですか」

「まあな。なりゆきというか付き合いというかで、あんま真面目にはやってなかったんだが。そのおかげか知らんが、現国の成績はあがった気がするな」

「そういうのたまに聞きますけど、どっちが先なんですかね。文芸関係に興味を持ったから国語の成績があがるのか、国語のコツを掴んでようやく楽しさがわかりだして文芸関係に興味を持つのか」

「卵が先か鶏が先かみたいな話か。どっちもあるんじゃないか。全員が全員同じ理由じゃないだろう。っていうか、話が逸れたな」

「いいんじゃないですか。この場ではどうにもならなくて、俺がどうにかするしかないですし」

「そりゃそうなんだが。とりあえずは、苦手教科の先生に相談してみろ。とっくにやってるかもしれんが、なんかのきっかけくらいにはなりうる」

「なると、いいですね。とりあえず、やれることはできるだけやってみるつもりです」


 時折、雑談に逸れていったりしつつも、俺の悩みらしきことを話していく。先生もまた、面倒そうにしつつも、煙草を吸う合間に合間に、もっともらしいことを口にした。だいたいわかりきっている事柄の確認作業に近かったけど、これはこれで気持ちが楽にならなくもない。


 そんな楽な気持ちのかたわら。頭の片隅にどことなく心細そうな姉ちゃんの顔が浮かんでいる。


 一回、物理的に距離をとろう。そうしないとなにもかもダメになっていく気がするんだ。


 急な進路変更を家族に伝え喧々諤々の議論を終えたあと、そんな風に吐き出した少女の疲れた顔。


 その頃の俺と姉ちゃんは事実上付き合っていて、こそこそ隠れながらあれこれをしていた。常にある種の後ろめたさ付き纏っていたけど、それ以上に心は満たされていて。無条件に姉ちゃんも同じようなことを思っていると信じていたし、それはたぶん半分くらいは当たっていたと今でも確信している。ただ、年上である姉ちゃんの方が後ろめたさとかこんな関係になってしまった責任を大きく感じていたんじゃないだろうか。


 それが、外の空気を吸いたい、という言葉に繋がったと俺は見ている。そして、地元以外で生きていくことができない、と口にしていた姉ちゃんは悩んだ末に今の環境から離れることを選んだ。新天地で一人、全てをなかったことにしようと。そうさせなかったのはほかならぬ俺で。そうさせなかったことを悪いとは思っていても、後悔はまったくしていなくて。


 目の前では、先生が楽しげに、高校時代の受験時の失敗談を話している。俺は校舎裏の暗闇の中で目を凝らしつつ、反射的に楽しげに相槌を打った。正直、全然楽しくはなかったけど、こうやってからからと話している分には、色々ごまかせて良かった。


 風に乗ってきた煙草の臭いが濃くなるのに合わせて、一本もらえないかなと馬鹿なことを思う。同時に姉ちゃんの前で吸ったらどんな顔するんだろうという想像に、なんとはなしに笑みが漏れた。

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