三
放課後。図書室内の出入り口近くに設けられたラウンジ。その中の丸机に、
「そっか。みんな受験に原稿に大変そうだ」
美亜姉が楽しそうに座っている。対面に座る俺はなんともいえない気分で、赤いブラウスと同色のスカート姿の一年上の先輩を眺めていた。高校時代には後ろで括られていた黒く長い髪は下ろされていて大人っぽい感じがする。
「笑わないでくださいよ。うちらだって必死なんですから」
俺の右隣に座る赤坂。ペットボトルのミルクティーの蓋を開けながら、口を尖らせる。
「ごめんごめん。もちろん、心配はしてるんだよ」
「そうは見えないんですが」
左隣にいる小山は仏頂面。
「誤解だって。あたしってば元々、こういう顔してるし」
自分の笑顔を指す美亜姉。どことなく憎たらしげ。たしかにこういう顔をしてることは多い。
「本当にそれだけですか。先輩、楽しんでません」
そんな小山の追及。美亜姉は腕を組んで唸ったあと、
「ほんの少しだけ、楽しんでるかもね」
右人差し指と親指で作ったわっかの端にわずかな隙間を開けて見せつけ、
「先輩としては君らがどうなるのか楽しみだしね」
なんて告げてから、俺の方にわざとらしい視線を送る。思わず映画みたいに肩を竦めたくなった。やらないけど。
「本当にそれだけなんだか」
小山は相変わらず険のある顔。美亜姉は苦笑いして。疑り深いなぁ、なんて茶化すように言ってみせる。尚も小山の表情は固いままだった。
「けど、美亜先輩はなんで今日、来たんですか」
どことなく悪い空気を感じとったのかいないのか。赤坂が手を挙げながら尋ねる。美亜姉は、そうだなぁ、と前置きしてから、
「午後の講義もなかったし、可愛い後輩たちの顔を見に行こうかなって思って。なにせ、歩いてすぐだし」
なんて言った。昼休み頃に来た、今日そっちに行くよ、という美亜姉のメールを頭に浮かべる。うちの高校の附属大生である美亜姉的には、ここはかっこうの暇つぶし場なんだろうな、と思った。
「大学生って随分と時間があるんですね」
相も変わらず突っかかる小山。懲りないな。なんて思い美亜姉の方を窺う。涼しい顔で、まあね、と口にしていた。
「後期のカリキュラムが始まったばかりでばたばたはしてるけど、そういうのは前期のうちに馴れたから。あたしとしてはけっこう楽かな」
「そう言えば、大学の夏休みって長いんでしたね」
姉ちゃんのことを思い出しながら言う。高校以外では使わない美亜姉に対する敬語。けっこうな期間使って、切り替え馴れているはずなのに、いまだに窮屈だった。そんな感覚は美亜姉もまた同じなのか、対面には苦笑いが浮かんでいる。
「ちょっとだけね。昔はもっと長かったらしいけど、年を経るごとにどんどん縮小されていって、今はスズメの涙だって何年も留年してる先輩が嘆いてたよ」
その先輩は何年くらい大学に残ってるんだろう。気になりはしたものの、聞くとどうしようもなくなるように思えて、そうですか、と答えるだけに留めた。なぜだか隣で赤坂が口を尖らせて、
「でも、羨ましいです。うちももう少し夏休み欲しかったなぁ。今年はあんまり遊べなかったし」
ガキみたいなことを言う。もっとも。俺もちょっと思っていたから人のことは言えない。美亜姉は、仕方ないよ、目を細める。
「もう少しだけ我慢だよ。そうすれば、ちょっとは余裕ができるからさ」
「それはわかってますよ。わかっててもですね」
自分の額に手を当ててげんなりとした顔をする赤坂。その頭をよしよしと撫でる大学生の女。あやすような仕種。去年から割と見慣れた光景。
「それに、余裕はないって言っても、原稿はあがってて、二本目書いてるんでしょ。小麦ちゃんは小説書くの嫌いだったりするの」
「今、三本目です」
なぜか、増えていた。美亜姉は、まじか、と小声で驚いたように呟いてから、
「だったら、今はそれを最高に楽しんだらいいんじゃない。たぶん、文化祭号の小説は君らにとっては卒業前最後の花火みたいなものだろうし、全力をこめてやれば、きっと楽しいよ」
およそ受験生相手にはあまり相応しくなさそうなアドバイスを送る。赤坂は顔を上げ、
「原稿で手を抜いたことなんて一度もないですよ」
力説し、ただ、と前置きし、
「そういうのとは別にして、もうちょい高校生っぽい遊びをしたかったな、と」
「いや、受験生的に難しいだろ、それ」
冷静に突っこむ小山。その顔を見返した赤坂は、わかってるよ、と何度目かの返しをしてから、それでもさ、と口を開き、
「やりたかったって気持ちだけはなかなか消しにくいよ」
などと吠えるみたいに言う。これも心の中では頷いている俺。けど、現実が許さないのも知っている。中には自由に遊んでいる人間もいるかもしれない。ただ、赤坂はそんなに余裕はないし、俺と小山にしてもたぶん同じだった。可能なかぎりの息抜きは行ったし、行うつもりではあるけども、どことない物足りなさはどうしても残る。そのためか、三年生三人が見合うみたいにして言葉を失った。これだったら、美亜姉が来ると知って自然と図書館からいなくなった後輩たちを見習った方が良かったかもしれない。そんなことを思っていると、
「よし。それだったら受験が無事終わったあかつきにはお姉さんがどこかに連れて行ってあげよう」
OGが自らの胸元を叩きながら、大きな声でぶちあげる。たまたまラウンジの横を通りがかった司書教師が白い目で見てきたので、俺がやったことでもないのに頭を下げた。
「それは奢りということですか」
「三人くらいだったらなんとかなるよ。たぶん」
尋ねた赤坂に応える美亜姉の目はやや泳いでいた。これはぎりぎりなんだろうな、と察する。そんな心情を知ってか知らずか、赤坂の顔にやや赤みがさした。
「ありがとうございます。ちょっとだけやる気が入りました」
単純だな。なんて思って赤坂を見ながら、俺もまたわくわくしている。なんだかんだで、仲がいい人間たちの集いはこれ以上ないくらい楽しみではあった。
「けっこうです」
そんな中、小山だけが美亜姉の提案を切って捨てる。赤坂の顔が少しだけ曇る中、このOGは笑みを消さない。
「そのけっこうですは、合意ってこと」
「どんな耳してたら、そんな風に聞こえるんですか。断ってるんですよ」
眉に皺を寄せる小山。なんとはなしに予想できてはいたけど、ここまで頑なだとは思わなかった。
「まあまあ。そんなに固く考えずに、奢られて欲しいんだけど」
「自分たちで卒業旅行に行くだけで間に合ってます。先輩がかかわる必要性はありません」
「それだったら、二回行けばいいじゃない。楽しみが二つになればよりやる気がでたりしないかな」
穏やかな美亜姉の声。けれど、小山の顔は固いままで、
「さっきも言ったでしょう。間に合ってますから」
そう繰り返すばかりだった。美亜姉は苦笑いを浮かべ。俺を見やる。なにを求められているのか察し小山の方を向いて口を開いた。
「いいだろ。行こうよ、旅行」
「一回で充分だろ」
素気無い反応。予想通り。
「俺は行きたいし、赤坂も行きたい。それだったら、小山も一緒に来て欲しいんだけど」
「だったら、こっちは気にせず、二人で先輩に連れて行ってもらえばいい。それで解決だ」
またもや予想通り。だからといって。友人の心を溶かす術はなかなか思いつかず。途方に暮れる。
「コヤ君がいた方が楽しいんだってば」
赤坂の援護も、
「そうか。おれはたぶん、楽しくない」
簡素な答えの前に沈黙。取りつく島もない。かといって。これ以上、無理やり引きずっていこうとすれば、愉快なことにならないだろう。
「答えは今じゃなくていいよ。全部終わってから答えてくれればいいから」
ついに美亜姉が折れる。俺は視線で謝ると。年上の女も、アイコンタクトで、気にしないで、と伝えてくる。
「答えは変わりませんよ」
やっぱり、小山の答えは変わらず頑なだった。
/
「なかなか難しいもんだね」
帰り道。夕焼けの下。家が近いのもあり。美亜姉と一緒になる。
「けど、小山が頷かないってわかってたのにつっついてたでしょ」
そう尋ねた際。二階建ての青い塗装のほどこされた電気屋の横を通り過ぎる。ちらりと車道に目をやった。いつもと変わらず多くの車が行き来している。この車の多くはこれから近くの高速道路にでも流れ込むのだろうかなんてどうでもいいことを考えた。
「嫌われてるのはわかってるしね。それでもあたしとしては来て欲しいんだけどな」
長い髪のはじっこを弄びつつ眉に薄らと皺を寄せる美亜姉。
「なんで嫌われてるってわかってるのに誘うの」
年上としての義務感か。あるいはそういう趣味でもあるのか。そんなことを考える俺の前で、
「あっちはあたしが嫌いでも、あたしは割と小山君のことを好ましく思ってるしね。だったら、誘わない理由はないでしょ」
迷いなく口にする。嘘を吐いている形跡はない。だとすれば相手の気持ちも考えた方がいいんじゃないの、なんて言いそうになる。
「それに、去年は今ほど仲も悪くなかったしね。仲直りもできれば一石二鳥かなって」
楽観的な見解。美亜姉と小山の不和の原因はよくわからないから、なんともいえないことではあるものの傍から見ている分には修復は難しく見えた。とはいえ、振り返ってみれば、たしかに、小山が最初から美亜姉を嫌っていたという記憶はない。むしろ以前はもう少し丁寧に接していたような気がする。だとすると、
「美亜姉に心当たりはないの。なんか小山にやってたりしない」
信号が青になる。横断歩道を渡りはじめた。隣にいる女は、グーッと伸びをする。
「そこそこあるよ」
どことなく緊張感がない声。それは、と先を促す。
「そうだな。思い余って、小山君が読んでた小説のネタバレをしたりとか。お昼を一緒にしていた時に横からおかずをいくつか強奪したりとか。去年、小山君が編集長をやってた時に毎回ギリギリ原稿を提出したりとか」
横断歩道を渡り終える。こっちに顔を向ける美亜姉。まだあるけどどうするなんて尋ねてくる。俺は首を横に振った。元々、小山の中でのこの年上の女の印象は良くなかっただろうと、容易に想像できる。
そんな俺の横で、けどなぁ、と首を捻る女。
「言っちゃ悪いけど、小山君って、この手のことに呆れはしても、嫌ったりはしない気がするんだよね。仮に嫌われたとしても、今みたいな露骨な感じにはならない気がする」
「それは自分のしたことを軽く見積もり過ぎてるんじゃないの」
茶化し気味に言う。一方で、俺もまた小山の態度に違和感を覚えていた。左に曲がるとまだ赤信号。足を止める。
「そうかもしれないね。ただ、もうちょっと、生々しい感情の捻じれがある気がするんだよ」
「根拠は」
「勘だね。けど、たぶん当たってると思うよ」
確信に満ちた口ぶり。本当に勘なのか。実は言わないだけで心当たりはあるのか。どちらかはわからない。ただ、当たっているんだろうな、とは思う。
信号が青になる。渡りはじめた。渡った先の右側。よく見慣れた酒屋。
「そう言えば、美亜姉」
「なに」
やや後ろ歩き気味になりながらこっちを見る笑顔の女。危ないなと思いつつ。姉ちゃんから聞いたんだけど。と前置きしてから、
「姉ちゃんの下宿に遊びに行った時に沼田先輩に会ったんだっけ」
と尋ねる。美亜姉は後ろにある酒屋を見てから、
「そうそう。スグルも色々と元気そうだったよ」
なにがおかしいのか目を細めてみせる。
「沼田先輩になにかあったの」
少なくとも、姉ちゃんはなにも言ってなかった。俺の言葉に、美亜姉はよりニヤリとする。
「どうしようかな。あたしは言ってもいいと思うけど、梨乃もなんも言ってないみたいだし」
明らかにもったいつけている。実際、興味がなくはない。ただ、美亜姉の言うとおり、姉ちゃんは俺に言ってないわけで。だから。
「じゃあ、いいや」
そう答えた。幸い、美亜姉の言い方からして、その起こったなにかは、沼田先輩をさほど困らせていないように聞こえる。だったら、放っておいて困るのは俺の野次馬根性くらいのものだ。
少しの間。隣に並んだ足音が消える。と思ったら、すぐにばたばたとしたものへと移り変わる。
「もうちょっと気にして欲しいんだけどなぁ」
わざとらしく語尾が伸びて聞こえる。けど、俺としては、
「でも、言うか言わないか迷ってるんでしょ。それだったら言わない方がいいんじゃないかな」
こう答えるほかない。いや、他の答えもあるとは思うけど。今はなんとなくこんな感じ。
美亜姉は、そりゃそうだけどさ、なんてぶつぶつ困ったように言っていたものの、程なくして軽く頬を膨らます。
「つれないな、司郎は」
「いつも通りでしょ」
応じて歩を進めた。自宅のマンションまでは間もなくあと二度ほど短い道を曲がるだけ。美亜姉にしたところで同じようなものだ。
「もう少し、お姉さんに優しくしてくれても罰は当たらないと思うんだけど」
「そこら辺は応相談だね」
てか、いちいち優しくするとかしないとか決めてかかる仲でもない。長いし、まあまあ濃い。と俺は思ってる。
不意に耳元に唇を寄せてくる年上の女。長い髪が揺れるのと口の端が弛むのが見えた。
「一応付き合ってるんだし、ね」
もったい付けたような、ね、の発音。その甘ったるさが鼻につく。足を止めた。周囲を窺う。先程、すぐ傍を通りすぎた主婦と子供たちは、俺と美亜姉に注意を払っている気配はない。後ろから近づいてくる老人もおそらく声が聞こえる距離ではなかった。ほっと胸を撫で下ろす。
「美亜姉、人がいるところでは」
「いけないいけない。言わない約束だったね」
全然わかってなさそうな顔。そういうものをわざとらしく作っているように見えた。
一見すればいつもの自由を絵に描いたみたいな表情。その実、いつも基準でみると、どことなく重心がぶれているような。そんな危うさがあった。ないとは思うけど、今すぐ道の端で叫ばれるというのはご勘弁願いたい。
通りがかかったばかりのレンタルビデオ屋の駐車場。その脇の自販機の辺りが人気がないのをみつけて手招きする。美亜姉も笑みを称えたまま従った。
「奢るよ」
「いいよ、別に」
嬉々とした声音に断りを入れる。美亜姉は無邪気そうに目を細めた。
「小山君じゃないんだから遠慮しないでよ。バイト代もあるしね」
どんと来なさい。誇らしげな女。渇いた笑いが漏れないよう押し殺し、じゃあコーラをお願いします、なんて答える。どうも毎度ありなんて答える声はやけに弾んでいた。遠くなった車の走り去る音。その間にある自販機が硬貨を呑みこむ微かな気配を耳にする。
「ごめんごめん。別に脅すつもりはなかったんだけどさ」
悪びれた様子のない声。どちらのようにも受け取れた。俺は、そうだと思ってたけど、なんて本音かどうかわからない答えを返す。ガコン。缶が取りだし口の中に落ちた。
「あんまり、冷たくされると、少しだけ不安にならなくもないんだよね」
「ごめん」
謝る。とはいえ、どこまで誠意が籠っているかは怪しい。謝らなくていいよ、と美亜姉の声は優しかった。
「あたしはただ、司郎と仲良くやれればそれでいいんだよ。仲良く、ね」
楽しげに、仲良く、という言葉を転がしたあと、はい、と缶を渡される。ありがと、と受けとり、プルタブを引いた。少しだけコーラが弾けたけど、缶の上の方に少しかかるだけだった。美亜姉はまたもや硬貨を投入しながら、
「だから、これからもよろしく」
なんて軽やかに言った。その軽やかさに、却って念押しされているみたいな気がしたけど、
「うん、よろしく」
なんて笑みを作る。本当によろしくして良かったのかは神のみぞ知ると言ったところか。ただ、最近、色々込み入っているせいか、今日の美亜姉は面倒臭く思えた。
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