Walkin`
一
昼前。数学教師の桂のきびきびとした声が耳に入ってくる。ちんぷんかんぷん。とはいえ、元々理系は切って捨てているのでさほど関わりがない。できれば、この時間を使って英単語や古文辺りの内職をしたいところだった。もっとも、この中年男性教師は目端が利くので、なかなかそれもかなわない。
退屈しのぎに周りを見る。真ん中二列。その窓寄りの最後尾にいるから、観察対象には困らない。
カリカリとシャーペンを動しているのは級長の男。容赦なく寝こけている太り気味の女。立てたノートを壁にして果敢に内職に勤しむ痩せ気味の眼鏡をかけた男。千差万別。ってほどじゃなくても、けっこうな種類の人間がいるんだな。などと思う。
「じゃあ、この問題を解いてみろ。ええっと、赤坂」
俺の右隣三つ前の席に座る赤坂が桂に当てられた。びくりと背中が沿った瞬間を目撃する。その振動が肩にかかった片側に寄せて縛った髪に伝わったらしい。ばさり。なんて音がしそうなくらい揺れる。赤坂は教科書を手にし、ええっと、とか細く呟いたあと、
「すみません、わかりません」
へにゃりと諦めた。これもいたし方なし。赤坂も俺と同じく文系一本に絞っている。それはそれとして、
「それじゃあ、次は。村中、できるか」
次に赤坂の後ろの席にいた女子が当てられる。この女は特に戸惑うこともなく、教師の要求にすらすらと答えた。桂はややふくよかとした顔で満足げに微笑み、黒板に素早く数式を書き込みはじめる。それを見ながら、黒板の上にある丸時計をちら見した。授業が終わるまで、おおよそ二十五分くらいの時間が残されている。
桂は頻繁に生徒を当てるタイプではない。とはいえ。授業の進行に必要な程度には当ててくる。そして、順当に当ててきた場合、三回あとに俺が当てられる可能性があった。もしかしたら、廊下側に進んでいくかもしれないけど。当たる可能性があるというだけで人並みに緊張はする。
たしかに理系はほぼほぼまるっとスルーしているから、受験には関係ない。けれど、それとは別にして。当てられて答えられないのはやっぱり恥ずいわけで。頼むから来ないでくれよ。なんて密かに。っていうかはっきり願った。
一応、付け焼刃気味に今やっている範囲とおぼしきところの教科書部分と黒板の書き込みを見比べる。けれど、悲しいくらいに頭に入ってこない。ダメだこりゃ。なんて思っていると、赤坂が妙に楽しげにこっちを見ているのが目に入った。かなり、あからさまに後ろの席をがん見している辺り。桂に見つかることなんて考慮してないらしい。あっ、手振ってきやがった。
アホだ。人のことを言えない感想を抱く。とはいえ、呆れ半分。退屈な授業時間の中の面白要素としてはまあまま機能している。ある意味。本当にある意味だけど。ありがたかった。
「どこを見ている、赤坂」
さっそく桂に捕捉される。びくりとしてから中年教師の方を見る赤坂。頭の後ろを掻き、
「いや、どこみてたんでしょうね」
苦笑いでごまかそうとする。
「そうか、そんなに私の授業はつまらないか」
淡々とした声音。桂の顔はこころなしか少し寂しげに見えた。
「いや、そんなことないですよ。ちょっと空気の入れ替えをしようとしてたといいますか」
「まったく意味がわからんぞ」
中身のないやりとり。教室中、そこかしこから聞こえるくすくす笑い。気まずそうに頭を掻く赤坂。それを阿呆だと思う傍ら、黒板と教科書を見比べる俺。
相も変わらずちんぷんかんぷん。うん。いつも通りだ。
/
「ああいう時は助けてよ、シロー」
昼休み。図書館の扉前の廊下。椅子に座った赤坂がコロッケパンを片手にぶーたれている。
「席が離れてる俺にどうしろっていうのさ」
そう抗弁する。とはいえ、納得はしてくれないらしく、頬を膨らました。
「そこはほら。なんか派手なことをして桂の注意を司郎自身に向けるとか」
「嫌だよ。俺は赤坂と違って、残りの学園生活を平穏無事に終えたいんだから。変なところで目を付けられるのは、赤坂だけで間に合ってるだろ」
最後は余計だったかも。瞬時に反省した時にはもう後の祭り。赤坂は自らの垂れ目を尖らせる。
「なんだよ、澄ましちゃって。頭の出来はうちとそんなに変わらない癖してさ」
吐き捨ててからコロッケパンを齧った。大袈裟なそぶりからは感情の高まりが感じとれる。お前もすぐに熱くなり過ぎだろう。とちょっとだけ鬱陶しく思う。
「まあまあ。小麦も司郎も落ち着けって」
赤坂と俺の間に座っていた小山が仲裁に入った。眼鏡の奥からほの見える目は少し困っている。そんな男の様子を知ってか知らずか、赤坂がむっとしたまま口を開いた。既に噛んでいたものは食べ終えている。
「うちは落ち着いてるってば」
嘘を吐け。
「ただ、シローの人間としての冷たさを友人代表として憂いているというかなんというかね」
冷たさ、ね。っていうか、あの授業の場で冷たさもなにもあったもんじゃないと思うんだけど。
「でも、元はといえば小麦が後ろを向いたりしてたからなんだろ。だったらまず、司郎の冷たさよりも小麦自身が悪かったんだろ」
小山の物言いにうんうんと頷く。直後になぜか同級生の男は俺の方を見た。
「司郎も余計なこと言って火をつけるのやめろよ」
そう嗜めるように言ってみせてから、小声で小麦の性格はわかってるだろ、と付け加える小山。たしかになんだかんだで、文芸部で三年近くいるし、赤坂の割と荒っぽい気性は心得ている。っていうか、そんなに経つのか、もう。
「悪かったよ。赤坂だけで間に合ってる、ってところは言い過ぎだった、かもしれない」
「かもしれないってなに、かもしれないって」
きーきー喚く女。かもしれないという意味だけどそれがなにか。なんて言い足しそうになったけど、やっぱり余計な一言だな、と思ってやめる。今、小山にも余計だって言われたばっかなんだし。
「司郎はこういう言い方をするやつだって、小麦だってわかってるだろ。だから、いい加減落ち着こうな」
どうどう。とでも言いたげな小山。赤坂も完全に納得がいったわけではない顔をしていたが。小さく深呼吸をしてから、
「わかったよ。うちもぎゃーぎゃー言い過ぎた」
かたちだけでも矛を納めた。
「はい、この話終わり。じゃー次」
ぱんぱんと手を叩く小山。それから程なくして。安堵したように溜め息を吐いた。苦労をかけてるな。なんて思いながらも、あんまりこの友人の助けになれていないのをほんの少しだけ申し訳なく思う。とりわけ、三年になって図書館入り口から少し離れたで食べはじめてからというもの。ずっと、三人の舵取りを努めてもらっている感は否めない。
「はいはいはーい。文化祭号の原稿書けた人」
そんな調整役の苦労を知ってか知らずか。目下、最大の爆弾を投げ込んだ女が一匹。言うまでもなく赤坂だった。
「あー、あれな」
あからさまにごまかそうとする小山。こころなしか目が泳いでいる。いたしかたないだろう。
「うちは書けてるよ。夏休み中に。余裕があればもう二三本書きたいなって思ってる」
一方、赤坂。さすが部で一番筆が早いだけはある。良くも悪くも迷わないからかもしれない。
片や。俺と小山の男性陣はそうではない。小山は少しずつ岩みたいに積み上げてしっかりとした時代小説を組み上げる。けど、その歩みは。もどかしくなるほど遅い。人のことは言えないけど、締め切り前にひぃひぃ言っている姿を何年か見てきた。
俺は俺でミステリー好きなりにトリックを思い浮かべようとする。トリックや展開が降ってくれば、赤坂ほどではなくてもまずまずの速度で書けた。しかし、なんにも思いつかなければ小山以上に締め切り前に大苦戦を強いられることになる。そして今は。もちろん、そんな感じで。
「コヤ君は、言わないでもいいや。わかるし」
小山の状態をすぐに察した赤坂はすぐに俺へと視線を向けた。
「シローもわかりやすいね。スランプ、ってやつ」
その表情に悪意は見受けられない。ただし、理解には程遠いといった面持ち。信じられないけど、赤坂は文章を書く際に一度も詰まったことがないのかもしれない。怖くて訊きたくもないけど。
「放っておいてくれ」
「そりゃできないよ。うち、シローのファンだし」
衒いなくそんなことを口にする赤坂。初めての部誌への小説投稿以降。何度も繰り返された言葉。それでも慣れず。いまだに気恥ずかしい。
「それに、たぶん高校最後の小説だし。そりゃ、なんとしてでも書いてもらわないと」
この発言にもまた悪意はない。ただただ期待だけがあった。もっとも、そちらの方がきついこともあるんだけど。
「こればっかりは運だしな」
今まではたまたま書けて、今日はたまたま書けない。そんな気がしている。
「運じゃないよ。シローが努力して書くの。大丈夫、書けるって」
なぜこうも全面的に信頼されているのか。三年になった今になってもよくわからない。どころか、言葉を聞けば聞くほど首を傾げたくなった。
「なんとかするよ」
そう答えてお茶を濁す。赤坂の眉に少々皺が寄っていた。
「うん、わかったよ」
それでも矛は収めてくれたらしく。期待してるからね。なんて繰り返しつつも、この話題を終らせてくれた。ほっとする反面。そろそろどうにかしなきゃ。という気持ちもある。
元々。ただ単に話題の一端だったのもあってか。すぐさま原稿の話は流れ。昨日深夜アニメを見た。なんていう小山の出したものへと移り変わっていく。見ていないせいで、ついていけるようないけないような話題になんとはなしに相槌を打ちながら、頭の中では、先程の原稿の話、思いの外成果があがらない受験勉強についてのわだかまり、最近姉ちゃんに会えてないな、なんてことが引っ掛かっていた。
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