四

 そこから後は特に何事もなく。姉ちゃんが言うところの休憩が長引いた。その一点に尽きる。


 ぼんやりとしてる姉ちゃん。それを見てる俺。合間にぽつぽつと尋ねたり、尋ねられたりもした。夏休み中の姉ちゃんのこと。俺の受験勉強のこと。夏期講習のこと。例によって姉ちゃんが次に書く小説の話。文芸部で俺が最後に書くものについての話。などなど。


 とはいえ。どの話もたいした中身はともなわなかった。お互いに今日はいつにもまして歯切れが悪く。相対的に話が弾む小説のことですら、たいした熱が伴わなかった。空が焼けるような色になるくらいまでそんな調子で。姉ちゃんも俺ももう一杯ずつ冷たい飲み物を頼んで粘った。なんとなく、出て行くタイミングつかめないまま、ぐだぐだしていて。お会計を済ました時には、店員さんはどことなく苦笑い気味だった。いや、そう見えただけかもしれないんだけど。


 そうして、それから、


 *


 四階から見下ろす海。黒々としていてよく見えない。なんとなく不安になった。


 後ろを振り向く。大きなベッドの上。横になっている姉ちゃん。安らかな顔。たぶん顔と同じくらいやすらかな寝息を立てている。ここまでは聞こえないけど。


 足元を見下ろす。白寄りの肌色。腕とか顔はちょっと焼け気味だから余計引き立つ。間抜けだな。そんな気持ちが胸の中で溢れる。いたたまれなくなって姉ちゃんの方へ顔を戻した。相も変わらず眠っている。ように見える。


 一歩。また一歩。ベッドへと近付いていく。後ろから潮騒が聞こえた気がした。たぶん、気のせいだけど。代わりにクーラーの稼動音。いつの間にか、姉ちゃんがすぐ近くにいた。薄暗い部屋の中。珍しく眼鏡をかけてない姉ちゃんの寝顔がある。


 たしかに綺麗かもしれない。どこぞの女の幼なじみの言葉に同意する。とはいえ、かけてる方とどっちがいいかは甲乙付け難い。


 脇に置いてあった椅子に腰かける。じっと姉ちゃんの顔を見下ろした。頭の中で。今日一日が巡る。


 早起き。英単語。Inferno。麦藁帽子をかぶった姉ちゃん。並んで歩いた砂浜。スポーツドリンク。灯台。崖下の海。唇。帰り道。おじさん。曇った姉ちゃんの顔。女の店員。寝不足の姉ちゃん。なんかわからないけど姉と弟の本。シーフードカレー。エビフライ定食。窓の外を見る姉ちゃん。休憩。信じてもらえない言葉。退屈な時間。


 そこまで頭に浮かべて我に帰る。全体を通して。あまり愉快な日とは言えない気がした。とりわけ、それなりに楽しみにしていた身としては。けど。愉快は必ずしもただで振ってくるわけじゃないし。もう少し、やりようはあったかもしれない。まあ、こういう日もあるってことで一つ。


 で、今。っていうか、ついさっきまで。こんな姉ちゃんと寝てたわけで。あまり愉快でない時間のあとで。やることはしっかりとやっている。


 これはどこかで聞いた倦怠期というやつかもしれない。いや。そもそも。盛りあがっていた時期があったかどうかすら怪しいけど。あるいは、いつも。盛りあがっていたり。酔ってたりするのかも。姉弟だし。普通じゃないんだし。とはいえ。長いとは言いにくくても短いとも言えない時間。こうやってきたせいか。そこんところが麻痺しはじめているのもある。


 なんでこうなったのか。あまりよく覚えてないけど。別れようなんて言うのもしんどいし。第一、今がいやってわけでもない。っていうか。姉と弟で別れるってなんだよ。血が繋がってるのに別れるもなにもないだろう。


 たぶん、そこんとこの考えは姉ちゃんも一緒か。いや、わからん。なにを考えてるかなんてさっぱりわからない。少しは言ってくれよ。と思わなくもない。けど、まあ。それも姉ちゃんだしね。って。諦めてる。いや、楽しんでるのかも。


 ちょっとだけ愉快になってきたとこで。姉ちゃんが目を開く。焦点を合わせる。口を開いた。


「私、寝てたの」

「うん」


 それはもうしっかりと。心の中で付け加える。姉ちゃんは数度瞬きを繰り返してから。手元の机にある携帯電話の液晶画面を覗きこんだ。十九時半を少し回ったところだった。


「司郎は時間、大丈夫」


 どうやら、こっちの心配をしてくれるらしい。


「大丈夫だよ。母さんには遅くなるかもって言ってあるし。そんなに焦んなくても」

「そう」


 相も変わらず感情薄めな答え。俺は。ちょっとくらい動揺させたいなと思い。延長する。なんて口にしようとしてから。泥みたいな疲れを感じとって思い止まる。


「帰ろうか」


 姉ちゃんは。シャワー浴びてからねと答えてから。布団を被る。


「シャワー、浴びるんじゃないの」

「あと、五分」


 小学生みたいな言い訳。姉ちゃんにしては珍しい。もしくは一人暮らしが人をずぼらにするのか。数日前、久々に会った沼田先輩もそんなことを言ってた気がする。とにもかくにも、


「五分だけだよ」


 苦笑いしながら応じた。同時に目を閉じる姉ちゃん。うん。やっぱり、綺麗だ。


 *


 帰りの電車。途中で降りた姉ちゃんと別れてから、文庫本を取りだす。むしろ、英単語帳を取りだすべきでは。なんてことも思ったけど。そういう気分じゃなかったし。なにより、姉ちゃんに渡されたものだったから。昼食前に話題になった本。どうやらとっくに読み終わっていたらしい。


 音楽用語みたいなタイトルの薄い小説。ぱらぱらと捲っていく。


 冒頭。結婚前の若い女性。行ったこともない館に覚える既視感。


 次の章で舞台は過去に遡り。この国の華族。若い男の視点から姉の姿。その姉の名前は冒頭に出てきた若い女性と同じ名前だった。


 まだ、よくわからない部分が多い。けど、この時点でなんとなくふわふわと不思議な感じがした。早くもたどり着いたその章の最後の方で、弟が姉とことに及ぼうというところで閉じられる。その後、二人が震災で死亡した旨が書かれて章が終わる。


 ページを閉じる。なんとなく姉ちゃんが俺に読ませたくなかった理由を察してげんなりする。


 今度こそ英単語帳を取りだす。半年くらいしか残されていない。あるいは半年もあるととるべきなのか。なんとなくぱらぱら捲っていく。頭に入っているのか入っていないのか。よくわからないまま、機械的な作業を続ける。


 そんなことを繰り返している最中。スマホが振動する。姉ちゃんかな。思ったあと、必要以上の連絡をするかな、と首を捻る。だったら、母さんか迷惑メール辺りか。なんて考えて、液晶画面を見る。


 譲原美亜。美亜姉からの連絡だった。


『今、大丈夫?』


 そう書かれていたのですぐに『電車の中だけど、大丈夫だよ。』と伝える。またすぐに震えるスマホ。


『別にたいした用はないんだけどさ、』


 そんな前置きからはじまる本文は、


『梨乃とデートだったんでしょ? 楽しかったかなって。』


 無邪気な問いかけで締めくくられていた。俺もすぐにぽちぽちぽち。


『普通、かな。なんか、いつにもまして上手く噛み合わなくて。』


 送ってからすぐ。けっこうな本音を姉ちゃん以外の人に伝えるのはどうなんだろう。そんな疑問が浮かんだけど、まあ、いっか、と開き直った。


『実は相性悪いんじゃないの二人とも。梨乃って司郎相手だといつもむすっとしてるし、司郎の方も余計に神経遣ってる感じだし。』


 意地が悪いな。そう思いながら、ぽちぽちぽち。


『俺相手じゃなくても姉ちゃんの顔っていつもあんな感じじゃん。気を遣ってるように見えるとしても、それが俺の姉ちゃん相手の自然体だよ。』


 送りながら、本当にそうかなと思った。


『そうかな。まあ、どっちでもいいけど。』


 どっちでもいいんなら絡まないで欲しい。


『いや、どっちでも良くはないかな。あたしとしては、二人が仲がいい方が嬉しいし。けど、』


 そこで一旦、沈黙。駅名のアナウンス。次の乗り換え駅まであと一つか二つ。メッセージが表示される。


『あたしも一応、司郎の彼女だし、できるだけ一緒にいる時間を作って欲しいなって思うわけだよ。』


 あざといな。なんて苦笑いしながら、ぽちぽちぽち。


『美亜姉とはけっこう会ってるじゃん。それに俺も高三だし、時間がないのはわかるでしょ。』


 書いてすぐに返事。


『時間より質を求めてるの。司郎ってば、あたしと一緒にいてもなんだかんだで身が入ってない感じだし。』 

 

 さっきは普通に時間のことを言ってた気がするんだけどな。とはいえ、突っこんでもうやむやにされそうだし、ぽちぽち。


『そんなことはないって。美亜姉といる時も楽しんでるって。』

 

 送ってから。誰といても楽しいな、なんて思う。姉ちゃんと美亜姉辺りは特に。とはいえ、


『いる時「も」か。まあ、今はそれでいいけどね。』

 

 こんな感じに絡まれると面倒くさくなる。姉ちゃんのわからなさとは別系統の面倒さだ。そんなことを思いながら、


『それで今日のデートはなにをしてたの。』


 あらためて姉ちゃんとの一日の話題を尋ねられて、ぽちぽちぽちしはじめる。ああでもないこうでもないと本文を練りこみつつ、今の状況について考える。


 姉ちゃんと美亜姉、あと受験とか文芸部とか。やることも考えることも山積みだった。整理してないのは俺だから、自業自得だけど。


 救いはさしあたって手と頭を動かさなきゃならないのが受験くらいだということか。今すぐ、答えとかを求められているわけじゃないところは楽だし、ちょっと面白い。


 乗り換え予定の一駅前まで着いたところで、行ったところとかを書いて教える。


『あたしも行ってみたいな。』


 なんて送ってくる美亜姉の文面を見つつぽちぽちする。その間、姉ちゃんはどうしてるかな、と考えた。たぶん、もう下宿に帰っていて。ちょっとでも、俺のことは頭にあるかな、なんて。


 窓の外を眺める。街灯りがない田園地帯は、四階から見下ろした海みたいな色をしていた。

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