三
それからしばらくしたあと。灯台を離れて元の道を戻る。特に何をするわけでもないんだから当然かもしれない。
砂浜の上。腹が鳴りそうだった。
「お昼、どうしようか」
尋ねる。
「なんでもいいよ」
投げやり。それでいて一番困る答え。
「そっか」
苦笑いする。隣には姉の無表情。
この人は何を考えてるんだろ。また思う。
全てに対して、どうでも良さそう。かと思えば、まったく欲望がないってわけでもない。案外、深く考える必要なんかないのかもしれなかった。見たまま、が姉ちゃんのすべて。そう割り切った方が楽な気がした。
中年男性二人とすれ違う。漁協の人かな。なんとはなしに振り返る。怪訝そうな顔をしたおじさんたちと目が合った。理由もわからず罰が悪くなる。たぶん、向こうも同じ気分だろう。それをごまかそうと黙礼した。おじさんはますます不思議そうな顔をすると踵を返して行ってしまう。なんでか裏切られた気がした。
手を引かれる。振り向けば隣には仏頂面。
「どうしたの」
尋ねてみると、
「それは、こっちの台詞なんだけど」
なんて言われた。心当たりがない。いや、後ろを見てたことか。
「なんか、おじさんが変な目でこっちを見てたから」
「変な目、ね」
姉ちゃんは薄っすらと眉に皺を寄せる。握る力が強くなった。痛い。あと、ちょっとぬめって。滑る。
「気のせいじゃない」
程なくしてそんなことを呟かれる。いや、実際に見たんだけど。見たままのことを語ろうとすると、ずるずると俺を引きずるみたいにして姉ちゃんが少しだけ早足になった。
言おうとしてたことを飲みこみ、ついていく。黙りこむ姉ちゃんの頭の後ろ。肩の辺りまで伸びた癖っ毛気味の髪。揺れ方が心なしか寂しげな気がした。
/
海岸と駅の間の道に一軒のレストランを見つけた。特に迷うこともなくそのまま入る。
「いらっしゃいませ」
中年の女性店員が笑顔を振りまく。少し疲れ気味な気がした。目礼する。人数を聞かれて指を立てながら、二人です、と答えた。その間、姉ちゃんはやっぱりなにも言わない。店員さんが俺たちを案内する。
案内された窓辺の席。だだっ広い海が臨めた。いい加減見飽きそう。けど、不思議と飽きない。姉ちゃんは頬杖をついて海を見ている。メニューを広げて、なににしようか、と尋ねた。姉ちゃんがこっちを向く。メニューを姉ちゃんが見やすい向きにして渡した。眼鏡越しの視線が紙の表の上を這う。
「これにする」
人差し指。指された先にはシーフードカレーと書かれていた。地味に俺も目を付けていたので、とられた気分になる。なんだかんだ十数年。同じようなものを食ってるせいか、味覚は似てた。
「美味そうだね」
声を弾ませながら、今度は自分の食べたいものを探す。姉ちゃんがメニューをこちら向きに直してくれた。
「じゃあ、これにしようかな」
なんとなく海っぽいもの。そんな先入観からエビフライ定食を選ぶ。姉ちゃんはいつもの調子で、そう、の一言。ちょっとくらいにこりとして欲しいな。そんなわがままを心の中に押しとどめて店員さんを呼ぶ。のたのたとした足音。両手にはお冷や。カコン。そんな音が鳴る。たぶん、二回鳴った。けど、重なって聞こえたから一回だったように思える。
「注文、いいですか」
尋ねる。はい。店員さんの快さげな返事。俺の分と姉ちゃんの分を注文する。以上でよろしいですか。はい。そんなやりとりを交わしたあと店員さんが引き上げていくのを見送る。そうしてから姉ちゃんの方を見た。相も変わらず窓越しの海を眺めてる。
「食べるところがあって良かったね」
海辺だし何軒かはありそうだと思ってたけど。そんな内心は口にしない。姉ちゃんは、そうだね、と気のない返事。元々、テンションが高い日というのがあまりないけど、それにしても今日は低い。誘うべきではなかったか。そんな考えがチラつく。すぐに打ち消した。
「姉ちゃん、今日は朝ご飯食べたの」
俺は食べた。というよりも、起きたらあったというのが正しい。出発した時の母さんの笑顔を思い出す。ちょっとだけ後ろめたかった。
姉ちゃんがこっちに向き直る。首を横に振った。
「けっこう、ぎりぎりだったから」
「そっか」
ちょっとだけ意外。実家にいた頃の姉ちゃんは、けっこう時間に余裕を持って出てくる人だったから。
「ちょっと、本読んでたら遅くなっちゃって」
少しバツの悪そうな声。わざわざ理由を話してくれるのは珍しい。
「どんな本」
尋ねる。姉ちゃんの眉に皺が寄った。怒っているわけではないみたいだ。けど、なんとなく言いにくそう。無理に言わなくてもいいよ。なんて答えようとしたところ、
「姉と弟とか周りの人が、いつの時代もいる話」
かな。首を捻りながら付け加えた姉ちゃん。ちょっと聞いただけではよくわからない。
「それって、生まれ変わり的なやつ」
「ちょっと違う気がするし、そんなような気もする」
答えはやっぱり煮え切らなかった。どっちなの。そんな風に突っこみそうになるのを押さえて、誰が書いたかを尋ねる。何年か前にとある大衆小説の賞を取った女性作家の名前が滑りでた。もう二十年以上も前の本であるとも。
「それで面白かった」
「どうだろ」
相変わらず不明確。けど、読んでる途中の本なんてそんなものかもしれない。ってか、たぶん俺も同じことを聞かれたら似たように答えた気がする。だったら、
「じゃあ、読み終わったら貸してくれるかな」
読んでみればいい。簡単な答え。ってか、たぶん、これしか実感する方法はないだろう。
「面白くないかもよ」
「面白いか面白くないか試してみるのも、楽しみの一つじゃないかな、たぶん」
いや。つまらない本読むのは嫌だけど。とはいえ、どんなに面白いって言われてても、合わないものは合わない。逆にどんなにつまらないと言われててもすごく面白い時もある。結局、踏みださなきゃ、お話にもならない。
「変な話だけど、大丈夫」
珍しい。こんなに何度も尋ねてくる人じゃないのに。実のところ、貸したくないのかもしれない。そんな気がした。ここは引き下がるべきか。
「うん。とりあえず、読んでみたい」
理性を口が蹴破る。怒られるかもしれない。上目遣いで窺う。姉ちゃんはこっちを見つめた。無言。いや、睨まれてるのか。レンズ越し。瞳孔。大きくなった気がした。気がしただけかも。窓の方に目を逸らされた。
「そう」
短い答え。感情が窺いにくい。てか、顔の左側しか見えないし。じゃあ、声は。ちょっと寂しげ。違うかも。確信が持てない。姉ちゃんが黙りこむ。ある意味、いつも通り。けど、いつもより、なんだか沈黙が痛い。そんな気がする。
なんか言わなきゃ。飢餓感じみた観念。でも、普段は淀みなく動くはずの口が動いてくれない。そもそも、姉ちゃんといれば何も言わないでいる時間の方が長いのに。おかしい。なんでこんな気持ちになるんだろ。言葉。言葉を探す。けど、出てこない。口を開いても。金魚みたいにパクパクする。それだけになりそうで。そうやっててぐだぐだしていると、姉ちゃんがこっちを見た。何か言わなきゃ。強迫観念は強まるばかりだったけど、やっぱり言葉は出てこなくて。
「お待たせしました。シーフードカレーになります」
声。顔をあげる。中年女性の皺っぽい笑顔。机の上に置かれるカレー。ルーの中には。イカやタコ。ムール貝にエビ。そんなものがちらほら見えた。店員さんが一礼してから厨房へと引き上げる。それを見送ってから姉ちゃんの方を見た。既にスプーンが手にある。言うまでもないと思ったけど。先にどうぞと言う。
「いただきます」
小さな。それでいて芯の通った声。スプーンに掬いあげられると同時に、匂いがより強くなった。なんでか、ほっとする。
*
あっさりと昼食を終える。エビフライ定食。素材は良かった気がする。シーフードカレーも一口もらった。否。四つあったエビフライのうち半分とトレード。姉ちゃんは草でも食べるみたいな顔。どこか、心ここにあらず。でも、たぶんおいしく食べていた。そう思うことにする。こっちはおいしかったしね。
飲み物を頼んだ。俺はレモネード。姉ちゃんはアイスコーヒー。
「これからどうしようか」
尋ねる。元々、海に行こう、以上のことは言っていない。その割に海水浴じゃないのは、姉ちゃんが人ごみを嫌ったからだった。まぁ。俺も好都合だと思ったんだけど。
姉ちゃんはとても気だるげに、
「休憩」
一言告げて、また窓の外を見た。ちょっとだけ寂しく思う。とはいえ、いつものことといえばいつものことなんだけど。釣られるようにして窓の方に顔を向けた。空の色。淡いオレンジに染まりつつある。海もそれを映しこみ始めていた。遠くには白い船影。すぐ上に雲。鏡みたい。なんて思った。いや、それだと船が何隻もないとおかしいんだけど。
飲み物が届く。会釈をすると快さげな女性の笑顔。引き上げていくのを見送った。姉ちゃんは無言のまま。喋らなきゃ。いつもだったらそう思う。さっきもそう思った。けど、今は飢餓感みたいなものは過ぎ去っていて、なんとなく横顔覗きこむかたちになる。無表情。じゃあ、それを見てる俺の顔は。挟まる疑問。窓を鏡にすれば目にすることはできるかもしれない。でも、たぶん覗いた時には別の顔をしてる気がした。じゃあ、姉ちゃんの目には。よく見てみる。見えない。けど、たぶん映ってない気がした。そして、海だけが映ってるんだと。
心がここにないのかもしれない。連れ戻さなきゃいけないのか。そんな疑問を俺自身に投げかける。ちょっと考えて。別にいっか。と結論を出す。せっかく一緒にいるのに。そんな後悔がなくはない。だからといって、気の向かない姉ちゃんをわざわざ連れ戻す気にもなれない。だったらこうして顔でも見てた方がいいに違いない。割と綺麗な作りだしね。
梨乃は絶対眼鏡を外すべきだよね。姉ちゃんの顔の話になると、頑なに主張していた年上の幼なじみのことが頭に浮かぶ。美亜姉的にはどうしても譲れない何かがあるらしい。譲原だけに。つまんね。
もっとも。俺としてはこっちの方が見慣れてて安心する。小学生くらいから姉ちゃんはずっと眼鏡で。美亜姉は裸眼で。俺は高校の半ばからコンタクトだし。それがたぶん一番平和な気分。きっと、それがいい。
じっと見る。はっとしないくらいの綺麗さ。これくらいが眺めてる分にはちょうどいい。姉ちゃんがこっちを向いた。
「なに」
どうやら、姉ちゃんの目には俺が入っていたらしい。ちょっと安心。もっとも。最初から横目で見ていたのか。途中から見られていたのか。あるいは今気付いたのか。どれであるのかはわかりかねるけど。
「見てただけ」
けっこう満足しながら言う。
「なんか言いたいことがあるなら言って」
ありゃりゃ。なんか腹に一物あるなって思われたらしい。そんなことないのにな。いや、ないよね。ないはずだ。
「いや、綺麗だなって」
感想を添える。
「あっそ」
素っ気ない答え。顔色も特に変わらない。残念。
「誉めたのに」
「本気じゃないでしょ」
「本気だって」
「そうは聞こえない」
手厳しいご意見。信じてもらえないらしい。いつものことだけど。いや、本気だって。そうもう一言付け加える。姉ちゃんは、ふぅん、って言ったきりまた窓の外に視線を移した。さっきと似たような角度の横顔。見つめる。やっぱり、割と綺麗だと思った。
本気じゃないでしょ。
姉ちゃんの声が頭の中で響く。なんとなく自分の言葉にすら自信が持てなくなりそうだった。視線はそのままで。レモネードに口をつける。酸っぱ甘い。舌先から浮かびあがってきた言の葉。姉ちゃんの手前にあるアイスコーヒーのコップの中。氷がからんと揺れた。
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