二


 海水浴場というわけじゃないからか。人はそんなに多くない。容赦ない晴れ空の下。いつの間にか姉ちゃんの頭には麦藁帽子。無言で先へと進んでいく。砂浜にはサンダルのつけた跡。スニーカーで踏み潰す。


 足を止めてちら見した。どっちの跡もそれほど好みじゃない。ちらりと海の方を見る。寄せては返す波。膨れあがったり窪んだりするだだっ広い水面。ただただ青い。そして光っている。久々に見たからか。ちょっと新鮮。


 ぺたぺたとした足音。熱源が近付いてくる。顔を上げた。眼鏡越しの鋭い目付き。どうしたの。そう言ってるみたい。


「なんか久々に海を見たから、ちょっとね」


 我ながら説明になってない。けど、姉ちゃんは、そう、と答える。あんまり納得してくれてるわけじゃない気がした。それでも何も言わない。良くも悪くも姉ちゃんらしい。


 また海を見た。潮騒に耳を傾ける。塩の匂い。きらきら光っている砂を削って。また海に戻る。ただただそれを繰り返しているように見えた。


 しばらくしたあと。飽きて隣を見る。麦藁帽子を右手で押さえた姉ちゃんの横顔。上半分にかかる影。ざぁとさぁ。波打った髪が帽子の下で少し舞い上がる。右目にかかったレンズが光を反射してた。見えないけど左側もかもしれない。久々の姉ちゃんだとちょっとだけ噛み締める。


 姉ちゃんがこっちを見た。


「そろそろ行かない」


 ちょっと残念。もしくは嬉しい気もする。そうだね、と言ってから歩きだす。今度は姉ちゃんが後ろについた。延々と続く砂浜。またきらきら。目に痛い。顔をあげる。ずっと先の崖の上。灯台があった。ここからだと小さく見える。どれくらい大きいんだろう。


「姉ちゃん、あれ」


 指差しながら姉ちゃんの方を振り向く。ああ、というぼんやりとした声。反応が薄い。っていうより感動か。


「けっこうかかりそうだけどどうしようか」


 断わられるかもしれない。そう思ってすぐ。行ってみようか、って姉ちゃんは言った。


「どうせだし、行けばいいんじゃない」


 加えられた素っ気ない言葉。ちょっとだけほっとする。そのかたわら。微動だにしない顔。楽しくないのかな。そんなことを思う。


「うん、そうしようか」


 また歩きだす。ぺたぺた。足音が着いてくる。頬から首筋につーっと滴った。ちょっとくすぐったい。


 若い二人組みとすれ違う。男と女。たぶん、俺らより年上。男の方の舐めるような目。女の方のちらちらとした眼差し。なにを思って俺らを見てるんだろう。姉ちゃんが隣に並んできた。男の舌打ち。その手を引っ張る女。遠のいていく二人を見送ってから正面を見た。


「あの二人、デートかな」


 なんとなく尋ねてみる。さぁね、という答え。やっぱり素っ気ない。


「それっぽくはあったけどね」

「どっちでもいいよ」


 投げやりなそれでいて姉ちゃんらしい言葉。それからすぐ。また先を行こうとする姉ちゃん。どうやらお気に召さなかったらしい。というより、聞いといて何だけど俺もあんま興味なかったな、うん。


「待ってよ」


 またサンダルのあと。視線をあげる。姉ちゃんの長い髪。その隙間から見える白い項。不健康そうな色合い。元々、そんな感じだったかもしれない。


 鳴き声。顔をあげる。白い鳥。カモメ。ウミネコ。どっちかよくわかんないけど、たぶんどっちか。重力がないみたいに飛ぶ。ちょっとだけ羨ましい。砂に足をとられた。歩きにくい。けど歩く。暑い。鞄からペットボトルを取りだす。蓋を開けた。口に含む。すっかり温い。仕方がないけど。また歩きだす。姉ちゃんが振り向いた。


「それ、もらえる」


 指差されたのは。仕舞おうとしたペットボトル。


「どうぞ」


 差しだす。姉ちゃんが蓋を閉めたばかりのボトルの首をつかんだ。俺の手と姉ちゃんの手。その間の透明部分越しに砂浜が見える。同じような色だけど同じじゃない気がした。指先を離す。ペットボトルを引きこむ姉ちゃん。口をつける。乾燥してそうな唇。螺子みたいなボトルの首元。なんとはなしに見守る。綺麗だな。


 すぐに飲み終える。


「ありがと」


 答えと一緒に返されるペットボトル。受けとる。こころなしかプラスチックの表面が温い。けど、嫌な気分じゃない。


「どういたしまして」


 /


 しばらくして。ようやく灯台の足元にたどり着く。肩で息しそうになるのを抑えた。運動不足か。不甲斐なさを少しだけ恥じる。


 もっとも、目の前で苦しそうに膝小僧に両掌を置いて荒い息を吸ったり吐いたりしている姉ちゃんよりはましかもだけど。


「大丈夫」


 さっきと同じようにペットボトルを渡す。ありがと。短いお礼。ごくごくと減っていく容器の中身。これはここでなくなっちゃうかもしれないな。そう思いながら、灯台へと近付いていく。


 円柱状の白く細長い建物。すぐ傍にある出入り口っぽいところには鍵がかけられている。ちょっとだけ残念。後ろからついてくる気配。振り向けば姉ちゃんが少しずれた眼鏡の位置を戻している。


「ありがと」


 遊んでいる方の手でペットボトルを返される。中身はあと五分の一といったところ。どういたしまして。答えてから、灯台の脇を抜けて崖の隅っこまで歩いていく。落ちないようにという配慮からか。白木の柵が設けられていた。その上に肘をのっけって頬杖をつく。下を見た。崖下で波が何度も体当たりしている。思ったよりも激しい。


 隣にむわっとした熱気を感じた。姉ちゃんだ。


「海、綺麗だね」


 心にもないことを口走った。いや、思ってなくもない。けど。死ぬほど簡単にまとめてしまった気がする。


「まぶしい」


 どことなく噛みあわない言の葉。そもそも、姉ちゃん的には独り言なのかもしれなかった。たしかに見下ろしていると、大きな水辺から反射される光はたしかに眩しい。


「目が潰れるかもしれないね」


 大袈裟に言ってみせる。特に返事は期待してない。案の定、うんだとかああだとかいう相槌のようなそうでないような声。俺はなんとはなしに、そうかも、とか、目をつぶらないとね、なんて言葉を重ねていく。やっぱりまともな返事はない。いつものことだ。それに俺もあんまり中身のある話をしてるわけでもないし。からからから。風車みたいで、これはこれで楽しい。


 崖の下。寄せては返していく波。見下ろし続ける。たらり。額から汗が落ちた。気持ち悪い。顔をあげる。今度は鼻の上をつたった。ますます、気持ち悪い。ポケットを探りながら隣を見やる。姉ちゃんがこっちを見てた。いつからだろうか。


 感情が乏しげな目。それでいて目付きが悪い。眼鏡のおかげで多少印象が柔らかくなってはいるんだろうけど、充分きつめだ。睨まれているのかただ眺められているのか。どっちか判断がつき難い。


「もしかして、つまんなかった」


 とりあえずそう尋ねてみる。一応、今日誘ったのは俺の方だし。姉ちゃんが楽しめてないのはあまりよろしくない。


「別に」


 無機質な声。やはりどっちの意味でいっているのかわかり辛い。実のところ。姉ちゃん的にはどっちでもいいのかもしれない。つまらなくても、つまらなくなくても。そんな気がする。


「そっか」


 それは良かった。そう言いそうになるのを躊躇う。本当に良かったのかという疑い。貝みたいに口を噤みたくなる。けど、黙り続けるのもなんとなく落ち着かない。次の話題を探す。だいたい、俺の役目。たぶん、落ち着かないのは俺の方だけだし。


「司郎」


 思考と思考の隙間。滑りこんでくる俺の名前。なに、と間抜けに聞き返す。姉ちゃんは仏頂面を浮かべたまま。


「人がいないね」


 またもや唐突な、それでいて謎めいた言の葉。今日はいつにもまして難解な気がしたけど。なのにもかかわらず、ストンと胸に落ちるもの。答え合わせをしようと目を覗きこむ。二つのガラス玉。たぶん、俺がいる。そして、俺のガラス玉の中には姉ちゃんが。引力に誘われるみたいにして近付いていく。ガラス玉が薄い肌色の幕に覆われた。止まらない。


 言葉が止む。波音。それと鼓動。あと、柔らかさ。なんか満たされた。そんな気がした。


 

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