第二部

ある夏の一日

 一

 暑い日。昼頃。よく知らない駅のホームのベンチ。座りながらぼんやりとしている。


 手元には英単語帳。ぱらぱらと捲る。頭にはほとんど入ってこない。薄っすらとした危機感。アブラゼミの鳴き声。ミンミンミン。何秒経っただろう。紙面に再び目を落とす。Inferno。地獄。という意味らしい。単語とその響きは本で読んだことがあったけど、意味は知らないまま流していた。あらためてスマホで検索してみようかと思ったあと、そこまで興味が湧かず次のページに移る。固い紙の感触。文庫本の柔らかい紙が懐かしい。って言うほど触ってないわけじゃないけど。目の前を流れていく英単語。ミンミンミン。どれもこれもつまらなくて頭に入らないけど無理やり詰めこもうとする。あくびが漏れだした。手で口を覆う。温い息。鼻に返ってきてやっぱり暑かった。


 目線をあげる。ホーム。その下に焼けた線路。その向こう側に山。緑。どこまでいっても緑。ミンミンミン。少しシャンシャンシャンも混ざっている。集中力が解けていくのがわかった。置いておいたスポーツドリンクをごくり。喉が潤う。左目。ボトルの透明部分と液体越しに見える緑。右目に見える色とはまた違う気がした。こころなしか右側の山は揺らめいている。陽炎。浮かんだ言葉。今は遠いけど、そのうちこっちの体まで揺らぎそうな気がした。いや、気のせいだろ。脳が溶けかけているのかもしれなかった。それこそ気のせいかな。たぶん。


 カンカンカンカン。聞き覚えのある音。英単語帳を鞄の奥に仕舞い文庫本を取りだし開き目を落とす。数秒後。顔をあげる。日に焼けた線路の上。列車が走りこんでくる。止まった。温い風が顔にふりかかる。扉が開く。数人が出てくる。その中の一人。見覚えのある顔。黒いTシャツと紺のジーンズを着た女。姉ちゃんだった。扉が閉まる。肩くらいまで伸びた波打った髪が少し揺れる。ゆっくりと動きだす列車。丸眼鏡をずらした姉ちゃんがこっちに来る。速度をあげていく乗り物。あっという間にすぐ傍に立つ姉ちゃん。走り去る列車。


「おはよ」


 女にしては低くめ。それでいてとても聴き慣れた声。そしてなんでかちょっと懐かしさもある。こっちをじっと見る目。何を考えてるのかよくわからない。


「おはよう。元気だった」


 とりあえず聞いてみる。


「普通」


 面白味のない答え。相変わらずだな。つまらなさとおかしさがこみあげてくる。瞳が尖った。笑いそうになる。


「そっか、だったら良かったよ」


 自分で言っててなにが良かったのかわからない。ちょっとだけ考える。たぶん、姉ちゃんは元気。それで安心した。そういうことにしておく。


 黙ったまま隣に座ってくる姉ちゃん。ちょっとだけ暑くなった。また聞こえだすミンミンミン。うるさい。


「それ、なに」


 姉ちゃんの人差し指の先。紙のカバーのかかった文庫本。


「どうぞ」


 そう言ってから差しだす。黙って受けとる姉ちゃん。表紙を捲った。白い指先と爪越しに見えるピンク色の肉。その次に本のタイトルが見えた。


「これか」


 読んだことがあるらしい。俺の趣味と姉ちゃんの趣味。あんまり重なってないからちょっとだけ新鮮だった。


「姉ちゃん、それ読んだことあるんだ」

「うん」

「それで面白かった」

「言っていいの」


 胡乱気な姉ちゃん。文庫にはさみっぱなしの栞の端っこに指をかけている。実を言うとまだ、五分の一も読めてない。ろくに話すら動いていないのに尋ねるのも変な話だ。そう思い直す。


「やっぱり止めておこうかな。楽しみは後にとっておかなきゃね」

「その方がいいよ」


 仏頂面のまま呟く姉ちゃん。なんだかほっとしたみたいだ。今この本を読んでるのは姉ちゃんなわけじゃないのに。変なの。


 文庫本を鞄に仕舞う。姉ちゃんが腰をあげた。顔をあげる。ホームには二人しか残っていない。ミンミンミンとシャンシャンシャン。それに混じってざぁざぁざぁ。後ろを見る。きらきらした海が広がってた。視線を戻す。姉ちゃんが背を向けて歩きだしていた。後を追う。下り階段が近付いてきた。さっさと海に行こう。


 蝉の鳴き声と潮騒。それに俺の呼吸と姉ちゃんの足音。視線を下げる。白いビーチサンダル。その隙間から焼けてない肌色の踵の一部が見えた。

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