三
『よくわかんないや』
電話越しから聞こえてきた弟の感想を耳にして、すぐさま手が出そうになったけど、物理的に触ることができない距離にいるのを思い出し、そっか、とできるだけ感情を込めないように口にして、天窓を見上げる。あいにくの曇り空のせいでただただ暗い。それを確認したあと、卓袱台の上においたノートパソコンの画面に目線を戻した。
高校生の頃、あるいはもっと前から行っていた姉弟で原稿の感想会。一緒に住んでいた時と違って、その場で指摘できないのはちょっと面倒だったけど、データをお互いに送りあったうえで電話を使うことで代用していた。知り合いに聞いたところによれば、パソコンや携帯でもっと便利な通話手段があるらしいけど、あまり詳しくない今の私にはこの方法が一番馴染んでいる。
『いつものことだけど、姉ちゃんの書いている人ってなに考えているのかよくわかんないままわけのわからないことするから、読んでる俺も混乱するんだよね』
繰り返し、そっか、と呟きそうになるのを抑える。弟は、あくまでも俺にはよくわからないって話だから、とわかりきった断わりを入れてから、
『喋れなくなった女の人が色々と訴えようとするのはわかるけど、それを聞いている男の対応が雑過ぎて人間なのにロボットみたいに見える。その後、たぶん普通っぽく描かれていた喋れない女の人の方も人格が変わっていってるように見えるけど、その変わったあとの考え方も俺には理解不能だった』
「そういう風に書いてるんだって」
苛立つのが大人気ないように思えて、できるだけ控え目にと心がけて反論する。司郎は、たぶんそうだろうね、と認めたあと、けどさ、と言葉を繋げる。
『わからないにはわからないなりの理屈ってものが必要なんじゃないかな。今回の話で説明すると、女の人の豹変がいきなり過ぎるように見えるんだよ』
「その方がインパクトが大きく残せそうだったから」
あまり言いたくないことだったけど、正直に口にした。
『姉ちゃんの作風だったらそういう色気を下手に見せない方がいいんじゃないかな。そこはあくまで徐々に淡々と変えていった方が迫力が出ると思う』
案の定、もっともな指摘が飛んできた。
「その書き方だと地味だし、人によっては伝わりにくくない。なにより、飽きられそうだし」
『それを決めるのは姉ちゃんの同級生や先輩でしょ。最初なんだし色々試してみればいいんじゃないかな』
他人事だと思って言いたい放題して。そんなことを思いつつも、弟の言葉をやっぱり的確だと感じている。
「そうだね。今の段階だったら好きにやればいいのかも」
『ずっと好きにやればいいんじゃない。姉ちゃんの書きたいこと書けなかったら本末転倒なんだし』
今日はいつも以上に弟の物言いがまっすぐな気がした。元々、遠慮する仲というわけでもないけど、それにしてもずけずけと踏みこんでくる。
「なんかあった」
『特にないけど、なんで』
反射的に尋ねると、司郎は訝しげな声をだした。おや、外れかな。一人で首を捻ったあと、今日はやけに口が回ってるから、と正直に告げる。
『そうかな。自分ではよくわかんないけど』
どうやら、自覚はないらしい。だったら、私の気のせいかもしれなかった。そっか、と応じてから、他にはなにかある、と口にする。
『ぱっと読んだとこだとそこ以外は特に。あとは、さっきも言ったけどいつもの姉ちゃんの書いたものだよ』
「わかった。ありがと」
お礼を言ってから既に書き直しについての案を頭の中で練り直していく。とにもかくにも、〆切一週間前に下読みをしてもらえたのはありがたかった。
『じゃあ、次は俺の原稿の感想を聞かせてよ』
おずおずとした弟の口ぶりからはこの時を待ちかねていたことが察せられた。
私の母校かつ司郎の通っている高校の文芸部は長期休暇なんかを除けば、実質一月に一回コピー誌を作っている。去年の私は受験があったので、実質二学期初め頃には書かなくなっていたものの、それまでは毎月原稿を提出していた。司郎もまたその例に漏れずせっせと原稿に精を出している最中みたいだった。
「その前に。受験勉強は大丈夫」
『たぶん』
やや心もとのない声には身に覚えがあった。きっと、あまり自信がないのだと察せられる。大丈夫なのか、という不安が身内としてよぎったものの、こんなことをやっている暇はないでしょ、なんてことを言うつもりにはなれない。なによりも、去年の私自身も似たようなものだったので強く言えなかった。二学期が始まって少し経ったあとくらいまでは原稿を書いていたので、尚更。
「そっか。けど、支障が出過ぎないように気を付けなよ」
『わかってる』
珍しく声がささくれだっているように聞こえた。もしかしたら、お父さんやお母さんにも度々言われているのだろうか。ゴールデンウィークの時の、司郎は頑張っているみたい、発言辺りからは窺いにくかったものの、この時期に小説を書いていることに対する風当たりは強いのかもしれなかった。
「うん。それだったらいいや。私の感想だったっけ」
いずれにしろ好き好んで弟を不機嫌にさせる必要もないだろう。そんなことを思いつつも、感想を口にしていく。
どことなく人物造詣が人形っぽい、という定形文を口にすれば、それはお約束だよ、という理解不能な答えが返ってくるいつも通りから始まった感想会は、人が空を飛ぶトリックの非現実性、そしてそのトリックの伏線が充分に撒かれてないことに対する指摘などに繋がっていった。司郎の方もまた実現可能だという一応の理屈付けをしたあと、個人的な伏線の箇所を提示してみせる。
「トリックが非現実的で派手な分、細かいところまで目が届いてない気がする。トリックの理屈付けを強化したうえで、伏線をわかりやすくした方がいいんじゃない」
門外漢なりに改善箇所らしきものを口にしてみせる。司郎は小さく唸ったあと、『けど、下手にちゃんとした理屈に近づけていくと意外性が薄くなりそうなんだよね』と言った。そこら辺は弟がさっき私にした指摘と似たような言葉ではあったものの、書いているジャンルが違うため、同じ指摘が必ずしも同じ効果をもたらすわけではない。むしろ、今回の場合は逆効果になりそうだった。
「そこを曲げられないとなるとその他の部分の粗を削ぎ落としていったらいいんじゃない。今回の場合はトリック以外の部分が整然としていればしているほど、トリックと作中世界のギャップが活きそうな気がするし」
描かれる物語世界から浮きすぎてしまえば不自然さばかりが強調されてトリックどころではなくなってしまうかもしれない。けど、今回はある程度整えたところで屋台骨が揺らぐことはなさそうだというのが今の私の感想だった。
『うん、じゃあその方向で直していこうかな。ミスリードは上手く働いてた』
「少なくとも私は騙されたし、きっちり驚かされた」
これもまた、ミステリー経験値が低い素人の見解でしかない。だけど、弟はその意見で十分らしく、うんうん、と一人で頷いている気配がする。
『俺の周りにいる人は、姉ちゃんと同じであんまりミステリーを読まないから。むしろ、そういう興味がなさそうな人たちを騙して面白がってもらうところが第一歩だしね』
「そう」
そんなものなの。そう付け加えながら、よくわからないなりに相槌を打つ。司郎は、そんなもんだよ、と嬉しげに口にしてから、ありがとうと、言う。
「どういたしまして。それとこっちもありがと」
言いながら、これからしなければならない原稿の直しを思いちょっとだけ憂鬱になる。その一方で、書き換えることでより良くなればいい、という願いが期待とともに膨らみもする。耳元に響く、こちらこそどういたしまして、なんていうお礼を耳にしつつも、既に心は自分の書いているものにいかにして手を加えるかというところに移りつつあった。
『そう言えば、姉ちゃんの方は最近どうなの』
唐突に変わった話題につられるようにして我に帰る。既にいっぱい口を動かしていたのもあって、億劫になっていたので、ぼちぼち、という定番の台詞を口にした。司郎は、そっか、と納得したように言ってから、
『沼田先輩辺りも元気にしてる』
なんて尋ねてくる。ぱっと浮かんだのは、同期生の女の子に好かれている、という部分だったけど、あまりおおっぴらに口にするのもどうかと思い、うーん、と唸った。
「ええっと、たぶん」
『なんで、自信なさげなわけ』
「沼田のこととかよくわかんないし」
『三年間も一緒にいるのに、わかんないんだ』
呆れたような弟の物言いに、むっとした。
「わかんないよ。人のことなんて」
答えつつも、なんとなく悔しくて沼田のことを頭に思い浮かべる。少なくとも、高校時代とさして変わったところは見受けられない。その基準でみれば、たぶん元気と見て間違いなかった。
「けど、元気そうに見えるよ」
『そっか。だったら良かった』
ほっと吐きだされた息が耳元に響く。おやっ、と首を捻った。
「司郎って、そんなに沼田と仲良かったっけ」
たしかに知らない仲ではないわけだし、話さないわけではなかった気がするものの、特別に親しかったという印象はない。もっとも知人が元気かどうかを聞くのはさほどおかしなことでもないけど。私のなんとも言えない違和感を察したのか、弟もまた、普通だと思うけど、と断わってから、
『なんだかんだ姉ちゃんたち一年上の先輩三人にはお世話になったからさ。そりゃ、気にかけるよ』
もっともらしい答えを口にする。それもそうか、と応じはしたものの、なんとなく違和感は残っていた。その違和感のかたわらで、ただ一人別の大学へと言った友人の顔を思い出し、少しだけしんみりとする。あの娘は今頃どうしてるだろうか。
『けど、沼田先輩がまた文芸系のサークルに入ったのもちょっと意外だったかな。文章書くの好きは好きなんだろうけど、大学まで続けるほどの情熱はないのかなって思ってたから』
「言われてみれば」
楽そうだと思ったからな。薄ぼんやりとした記憶の中には、一年の頃にそんなことを言っていた沼田の気の抜けた顔がある。僅かなムカつきが心にこびりついているから覚えていた。今考えれば、部活に入る理由なんて人の勝手なんだし私は何様のつもりだ、と思おうとはするけど、やっぱり今でも腹が立つ。ガキか、私は。いや、ガキだけど。
『案外、姉ちゃんと一緒のサークルに入りたかったとか』
「ああ、それかも」
文章が好きだから続けるというよりは、そちらの方が幾分かしっくり来る。思い返せば、ペンクラブに入った私がサークルの部屋でくつろいでるところにダルそうにやってきた覚えがあった。それでまだ名前も覚えてない先輩たちとずるずると話してから、すぐに入会を決めていた気がするし。
『やけに自信ありげだね。沼田先輩に好かれるのまんざらでもなかったりするの』
軽口。苛っとする。
「別に。そういうんじゃないし」
答えを返してから、いかにも認めているような答えだと気付く。後悔してから、まあ、どう聞こえてもかまわないかと考え直した。
『ああ、違うんだ』
見透かすたような声。いや、実際に見透かされているんだろうな、きっと。
「わかってるんだったら聞かないでよ。めんどい」
『いやいや、声聞かないとわかんないし』
つまり、私の声を聞くまで疑ってたということか。それはそれで信用されていない気がしたけど、これもまたどこまで本気で言っているか知れたものじゃない。
『けど、沼田先輩の気持ちもわかるよ』
「どういうこと」
そろそろ話疲れを感じつつ尋ね返す。司郎は間を置いてから、
『俺も来年は入りたいしね。姉ちゃんのサークル』
衒いのない一言。
「入れるのかな」
素朴な疑問。弟の頭の出来はそれほど信用できない。その次に出てきたのは、果たして司郎に同じ大学に入って欲しいのか欲しくないのかという私自身の疑問。わからない。
『入るよ』
ぼそりと、それでいてはっきりと響いてくる声。
「あっそ」
前からわかってたけど、本気であるのは間違いないらしい。天を仰ぐ。屋上に取りつけられた窓越しの風景は曇り空のままだった。
『入る』
「聞こえてる」
呆れ半分、虚しさ半分。そんな気分になったあと口にしようとしていた、じゃあ切るね、という言葉を飲みこんでしまった。あまり長引かせるのも悪いなと思いつつも、突然始まった母校文芸部の近況報告に耳を傾けていく。
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