締め切りの前と後

 一

 五月も半ばを過ぎた日の昼休み。ペンクラブのために設けられたサークル室。その真ん中にある長机の端の方に腰かけた私は、自作のおにぎりを頬張っている。まるで、栗鼠にでもなったみたいだなと思いつつも、ちょっと冷えた新米と海苔、塩と鮭の味を楽しんでいた。


 部屋の窓際奥のカーペットが引かれた空間で三年生の先輩たちが対戦ゲームを楽しんでいるのを見ながら、私と同じ長机の上では食中の先輩や同期生たちが交わす会話に耳を傾ける。


「へぇ、そういう日本酒があるんだ。わたしも飲んでみたいな」

「それはつまり、実家から持って来いと」

「ただとは言ってないよ。一人のお客さんとして、頼みたいかなって思うんだ」

「それだったら、小野からは出張代ももらいたいところだな」


 机の対面では小野さんと沼田が会話を交わしていた。それぞれの手にはチョココロネと焼きそばパンが握られている。


 私は目の前に会話には加わららないまま、もしゃもしゃとおにぎりを齧る。その際、隣からは激しい咀嚼音が耳に飛び込んできた。見るまでもなく同期生の広瀬君が爆発的な勢いで菓子パンを消費しているのだろう。部屋に入った時に見た感じだと、机の前にはメロンパンだとかクリームパンが山のように重なっているのが見えた。広瀬君と親しい沼田から話は聞いてはいたけど、こうして間近にいるとあらためてすごい食欲だなと思う。


 とはいえ、どちらかと言えば興味があるのは目の前で繰り広げられている癖っ毛の女の子と高校からの同級生の男とのやりとりの方だった。


 白い長袖のブラウスを着た小野さんは、とにかく楽しげに隣にいる男の子に話を振っている。コロコロと変わる表情や柔らかい笑顔は、同姓の私の目で見ても可愛らしく映った。心から隣にいる男との会話を楽しんでいるように見える。


 一方の沼田はと言えば、比較的気安くは受けとめているものの、どことなく身が入っていないように見えた。ここ数年来の付き合いから鑑みるに、ぐいぐいと来られるのに退いているのかもしれない。自分から行くのは割と平気そうなのに、いざ人から話しかけられまくると少し弱いあたりは、ここ三年間変わらないところだ。とはいえ、別に嫌そうにしていると言うほどでもなく、無難に捌いてはいる。


 一つ目のおにぎりを胃におさめたあと、二つ目に取りかかる。顔に近付けるのと同時に梅干の匂いが鼻先を撫でたのに反応して、一口齧った。相変わらず隣からはばくばくとパンが消費されていく音が聞こえる。


「水沢さん。そのお握り、何味」


 ふと、対面にいた小野さんがいきなり話を振ってきた。


「梅干だよ」

「へぇ、水沢さん。酸っぱいの大丈夫なんだ」


 そう聞いてくるということは、小野さんは酸っぱいのがダメなのかもしれないと推測してから私は、うん、と頷く。


「俺が知ってるかぎりだと、水沢はあんま好き嫌いがないよな」


 自然と会話に加わってくる沼田。私はちょっとだけ考えてから、パクチーとか苦手かも、と答える。


「あんま意外性がないな。てか、俺も苦手かも」

「悪かったね」


 別に意外性のために生きているわけでもないし。そんなことを心の中で思いながら、もう一度齧る。歯が果肉に到達し、酸味が口内に広がった。


「おばあちゃんみたいになってるよ」


 楽しげな小野さんの声音。恥ずかしかったけど、半ば生理現象だから止めることも難しく、辛うじてなんとか普段通りの表情を作ろうとする。


「僕は好き嫌いとかないかな。野菜はちょっと苦手かもしれないけど」


 隣からの声を耳にしてちらりと見やれば、いつの間にかパンの山を片付けた広瀬君が、頬杖をついてつまらなそうにしていた。なんのこっちゃ、と一瞬考えてから、好き嫌いの話をしてたなと思い出す。


「わたしも野菜は苦手かも。ピーマンとかニンジンとか。パクチーは、食べたことないからわかんないや」


 広瀬君の独特の調子で続けられた好き嫌いの話を、小野さんが拾いあげると、沼田の方を見て、他に何か嫌いなものとかあったりするの、なんて尋ねた。


「そうだな。トウモロコシとかあんことか、変に甘ったるいやつは全般的に苦手かもな」

「他には他には」


 尚も食いついてくる小野さんに、沼田は、他って言われてもな、と戸惑ったような顔で私の方を見る。すぐに何を求められているのかは察したあと、残っていたおにぎりを飲みこんだ。酸っぱさとしょっぱさがちょっとずつ口の中で消えていくのを感じながら、どう振る舞うべきか、と考える。個人的な心情としては沼田にはある程度であれば嫌われてもいいけど、小野さんにはあまり嫌われたくない。だからと言って、長い付き合いの友人の求めを無視するというのも気が退けた。


「私が覚えてるかぎりだと、沼田は肉と魚と酒以外、たいして好きじゃない気がするけどね」


 なかば苦し紛れに口にした事柄に、沼田は少々嫌そうな顔をしつつも、さすがにそこまで極端じゃないつもりなんだが、と頭の後ろの髪を掻きながら食いつく。私は、他のものを食べてるところをあんまり見たことがないんだけど、なんて言いながら、小野さんの方をちらりと窺った。


 小野さんは笑顔こそ繕っているものの、その目の中には、面白くない、という感情が潜んでいるように見える。あまり良くない兆候だ、と思いつつ、なにを言うべきか頭を回転させようとしたところで、急に小野さんが微笑んだ。


「じゃあ、今度、みんなで焼肉でも食べに行こうか」


 この間の歓迎会も楽しかったしね、なんて付け加えながら、そんな提案をする小野さん。私としても仲間内でどこかしらに食べに行く、という点に関しては異を唱えるつもりはなかったものの、予算と周りの反応が気になる。この前あった歓迎会は先輩たちのポケットマネーと会費で賄ったらしいけど、今回は自分たちで払わなくてはならない。おまけに買出しにいってできるだけ安く済ませた歓迎会とは異なり、焼肉を食べに行くともなればよほどお得なセットでもないかぎり、それなりに値は張りそうだった。


「僕は賛成」


 値段に気持ちが向いているうちに、隣にいる広瀬君がいち早く賛成票を投じる。体型や振る舞い、以前沼田から聞いた評判と、どれをともっても納得の行動だった。


 となると、あとは私と沼田の意思次第だろう。一応、スポンサー的な役割で誰かしら先輩をたかるという選択肢もなくはなかったものの、同じクラブの仲間を財布扱いするのはどうかと思うし、まずはここにいる四人の新入生全員の気持ちを聞く流れだろう。


 少し頭を捻ってから、予算さえ合えばどちらでもいいなと、思う。


「安いところだったらいいよ」


 そう答えると、沼田もまた「俺も、行くのはかまわないけど安いに越したことはないな」と同意を示す。記憶にあるかぎり私と違ってバイトをしていたはずだったけど、同じ下宿生である以上、懐は締めるというのが基本になっているのだろう。


「それなら決まりだね。店はわたしが良さそうな店を調べてから後で連絡するよ。これから忙しくなりそうだから、ちょっと遅くなるかもしれないけど」


 ニコリとする小野さんの顔からは先程まであった、微かな不穏さが消えているように見えた。ひとまず、安心しつつ手元に置いておいたお茶のペットボトルをあおる。そうしていると近くにいた先輩たちが焼肉の話を耳にしたらしく、混ぜてくれないかと小野さんに掛けあいはじめていた。もっぱら口を動かす係である小野さんと隣にいる沼田と先輩たちの会話を耳にしつつ、私は手元のメモ帳を開く。早く書き過ぎてミミズみたいになった文字に目を落としながら、頭の中にある考えをまとめていった。


 ペンクラブで発刊する雑誌の〆切まであと二週間ほど。後ろから迫ってくる火の手が見えはじめたところだった。

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