四
何度かの休憩と水分補給、だらだらとした雑談なんかを挟みつつゆっくりと登っていったあと、ようやく山頂付近に到達した。思わずへたりこむ私にお母さんが、お疲れ様、なんて笑いかけてくる。
「母さんもお疲れ様」
息を切らしながら声をかけたあと、周りを見ると、そこかしこにいる人たちに紛れて草原の上に死んだように寝転がるお父さんと、それを苦笑いで見下ろす司郎の姿があった。そう言えば、最後の方のお父さんは先頭こそ保っていたけど、後ろ姿がどことなくふらふらだった気がする。
「今日は張りきってたからね。いいところを見せたかったんでしょ、きっと」
お母さんの言葉の、いいところを見せたかった相手は誰なんだろう、とちょっとだけ考えたあと、話の流れ的に、たぶん私か、と思いいたる。あるいはこころなしか嬉しそうなお母さんの方か。まあ、どっちでもいいけど。
足を中心に広がる疲れに耐えかねて天を仰ぐ。登りはじめた時よりも、こころなしか雲が多いように見えた。山の天気は変わりやすいというのは本当なんだな、と実感しつつも、高いところにやってきたせいか、もしくは登り終えたことによるものかちょっとだけ興奮している。
「これからどうするの。ソフトクリームでも食べる」
体はすっかり温まっているせいか、そんなことを尋ねた。以前登った時、売店があったのを覚ていたからだ。お母さんはちらりと倒れこんでいるお父さんを見たあと、今はちょっと動くのが難しそうね、と答えた。もう少し休んでからでもいいかと思い、お父さんに習って草原に転がろうとする。
「じゃあ、俺が買いに行ってくるよ」
いつの間にか傍にやってきていたらしい弟がそう申し出てきた。ちらりと見やると、顔にこそちょっとした疲れが出ているようだったけど、足腰自体はしっかりとしている。これが若さというやつか、なんて一歳しか年が違わないのに思ったりした。
「シロ君も疲れてるんじゃないの」
お母さんの問いかけに司郎は、大丈夫、と笑顔で応じたあと、こちらを見下ろした。座りこみながら見上げているとより背が高く感じられた。
「姉ちゃんも手伝ってくれないかな。俺一人じゃ四人分持つのはちょっと厳しいし」
その提案にもう少しだけ休ませて欲しいと思いつつも、あまり弱いところを見せたくもなくて立ち上がり、お母さんから差し出されたお札を受けとって、ありがとう、と言った。
「じゃあ、行ってくるよ」
お母さんと転がったままのお父さんに声をかける司郎に続いて、行ってきます、と小声で口にする。手を振る二人を見守ったあと、弟の後ろについていった。
「悪いね。疲れてそうなのに」
「だったら、一人で行ってくればいいのに」
さっそく文句を弟の頭の後ろに投げかけつつも、頭が糖分を求めていたのでちょうど良かったのかもしれないとも思う。司郎は紺色の長袖シャツ越しに背中を掻いたあと、人手が足りなかったから勘弁してもらえないかな、なんて言ってきた。
「別にいいけど」
正直なところ口にしてみただけなので、すぐに許す。司郎は、ありがとう、と答えたあと、歩幅を弛めて左隣に並んできた。私は意図を察して、周りを窺う。お父さんとお母さんはもう既に見えなくなっていて、知り合いらしき人も今のところみつけられない。左手の方を見下ろせば、弟が何か持ちたそうに右手を差しだしてきていたので、優しくつかむ。途端に弟の頬が弛んだ。
「売店のちょっと前までね」
「わかってる」
相変わらず物分りがいい子だ。というよりも、慣れだろうか。どっちでもいいけど。そんな風に思いながら、指を一本一本絡め直していく。左の掌からは生温かさが伝わってきた。
私たちみたいな四人家族、カップル、老夫婦、山登りのプロっぽい若い男性。色々な人とすれ違っている間も、手を離さない。どう見られてるんだろう、なんてちょっとだけ思ったけど、たぶんどうも見られてない。こういうところでいちいちすれ違う誰かの顔なんて覚えないだろうし。
「ねえ」
ちゃん、と続けようとして止めたのか、ただ尋ねただけなのか。その中身ははっきりとしなかったけど、大意に差はないので、なに、と聞き返す。
「空気、おいしいね」
せっかく山の上に登ったのにあまり意識していなかったので、意識して吸いこんでみると、たしかにおいしい気がした。もっとも、実家付近も下宿付近も比較的排気ガスが多めに漂っているところなせいもあって、あまり参考にならないかもしれない。
「たぶん、いつもよりはおいしいね」
「なに、その言い方」
正直なところ、おいしいかどうかあまり自信が持てなかったせいもあって、おそるおそるになった私の言い方を耳にして、司郎はおかしそうに答えた。なにがおかしいんだろうか、なんてちょっとむかっとしながら、草原の上だとか土を踏みしめた。その感触の微かな柔らかさから、私たちがやってくる前に雨とかが降ってたのかもしれないなんて考えたあと、スニーカーの裏にじゅくっと土と草から沁みだしてくる水を想像する。その光景が掻き揚げから汁が飛びだす瞬間と頭の中で重なった。まるで、掻き揚げの味が泥水みたいになった気がして軽くむせた。
「やっぱり、疲れてたりするのかな」
「平気」
すぐに向けられた心配に一言で応じてから、頭の中にあった想像を打ち消そうと試みる。今度から掻き揚げが食べられなくなったらどうしようとちょっとだけ不安になったものの、以前米と蛆虫が似ていると思って食べられなくなった時もなんとかなったんだからと気持ちを強く持とうとしたあと、また米が食べられなくなったらどうしようと心配になった。
そうこうしているうちに、売店の前までたどり着く。少しぼろけたお食事処という看板が目立つ店の前にできている短い列に並びながら、繋いでいた手を解いた。弟は少しだけ名残惜しそうしたあと、けっこう種類あるんだね、とソフトクリームの看板を指差す。見ると二十種類以上あって、そう言えば何味にするかとか聞いてなかったな、なんて思い出したけど、とりあえずバニラを二つ用意しておけば問題ないだろう、と決めた。
「お母さんとお父さんの分はとりあえずバニラにしとこ」
「わかった。姉ちゃんは何味にするの」
「白桃、かな」
「じゃあ、俺はチョコにしよ」
そんなやりとりを交わしたあと、もう少し珍しそうなソフトを選んだ方が良かったかな、なんて思い直しかけたけど、二十数種類の中に特別に食べたい味があるというわけでもなかったので、まあいいか、と開き直る。
程なくして、私たちの順番がやってきて店員のおじちゃんに、バニラ二つ、それに白桃とチョコを一つずつください、と注文をしてからお金を渡しておつりを受けとった。
直後にカウンター内に設けられたサーバーから出てきたアイスはくるくると回されるおじさんの腕の動きに沿って渦を巻き、私たちがよく知る形をとっていく。上に向かって細くなっていく渦に、今いるこの山を連想したあと、自分たちの足で登ってきたんだな、と思いを巡らした。目の前で一つ目のバニラアイスが弟に渡されるのを見守りながら、ふと、さっきの山登りは小説みたいなものだという例えを思い出す。
ペンを動かすことと傾斜を登ること。山頂にたどり着こうとする試みと、なにかしらの完成を目指すこと。似ていると言えば似ているかもしれない。そして、それはきっと生きているということにもたぶん通じている。
この場に私がいて、司郎がいて、家族がいる。その外を見回せば友だちとか先生とか親戚とかがいて、更に外には薄い繋がりの知り合いとかがいて、もっともっと外に見知らぬ他人とかがいる。そんな人たちが多かれ少なかれかかわりあってできた積み重ねの結果が、今の私なんだろう。果たして別の積み重ねをする可能性が、私の中にあったんだろうか。もっと言えば、他の人生を送る可能性があったんだろうか。なぜだかそんなことを考える。
「姉ちゃん」
呼びかけられて我に返ると、困ったような顔をしているおじちゃん。その手にはてらてらと光った白いソフトクリームがある。
「すみません」
そう謝るとおじさんは、いえいえ、となんでもなさそうに言ってから、ソフトクリームを渡してきた。途端に甘い桃の匂いが鼻腔をくすぐる。
「どうしたの」
不思議そうな弟の問いかけに、私は、ちょっとぼうっとしてただけ、と応じつつも、頭の中を駆け巡った事柄を整理しようとしたけど、チョコのソフトクリームを渡されると同時に、考えごと霧散してしまい、なにを気がかりにしていたのかすらわからなくなった。
帰り道の途中、弟とバニラとチョコの交換を済ませたあと、白桃ソフトへと舌を伸ばす。家族の元に戻るまで待っていても良かったけど、脳が糖分を求めている感じが勝った。細かく練りこまれた桃味の粕みたいなものがざらりと舌の上に乗るのと同時に、少し濃い甘みを伝えてくる。できるだけ味わおうと口を閉じたあとも飲みこまないようにするけど、すぐに溶けていく。まあ、アイスだし仕方ないよね、なんて思いながら、隣を見やると、司郎が強引に山の上の方をこそぎとるようにしてかぶりついているのが見えた。両親たちに遠慮してちょっとずつにしていた私と違って、その類の気遣いはないみたいだった。それと同時にかぐわってくるチョコの匂い。弟がこっちを向いた。
「欲しいの」
「うん」
頷くと同時に、白桃アイスを差し出す。司郎は満足そうに、いいよ、と告げてから同じようにチョコアイスをこちらに差し出してきた。今日はやたら食べ物を交換することが多いなと思いながら、目の前にある薄茶色のソフトの山の上を舐めとる。チョコの味が広がり、すぐ先程まであった桃の味と混ざっていった。変な味だと思いつつも、ちょっとだけ得した気分になる。一方、白桃アイスのてっぺんを見れば、やや控え目に噛み付く弟の茶色い歯が目に入ってきた。
今、唇を合わせたらけっこうおいしそう。そんな気がしたけど、既に手を振ってる母といつの間にか体半分を起こした父の姿が見える位置まで来ていたので断念する。アイスを引っこめると同時に弟と目が合った。どことなく名残惜しそうな目から、きっと似たようなことを考えていたんだろうなと察する。
「チョコ、おいしかった」
「うん。そっちは」
「おいしかったよ」
とりとめのない会話を交わしながら、両親の元へと足早に向かう。段々と近づいていくにつれて、母と父の後ろに広がるこの山頂を囲うようにしてある周囲の緑の茂った山々の存在に気付く。駐車場付近にあった食堂からも似たような景色は見えていたけど、高さが違うせいかより広い範囲が視界に飛びこんできた。それを見ていると、こうして立っている私たちはとてもちっぽけなものなんだな、思えてきたけど、まあそれでもいいか、なんて考え直しているうちに両親の前にたどり着き、バニラソフトクリームを母に渡してから草原の上に腰かける。見上げると先程よりも流れる雲が増えている気がしながら、さっきの弟と同じように白桃アイスを齧った。ちょっとだけ頭がきーんとしそうだった。
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