一

 五月の連休もあと三日となった。私は車に揺られている。


 運転手はお父さん。後ろの三席の左側に私、真ん中がお母さん、右側に司郎。車に乗る時の定位置だった。


 山に行こう。私と司郎が起きるや否や、突然言い出したお父さん。私の反対なんてなんのその、朝食を終えて早々、車に押しこまれそうになった。幸い、シャワーを浴びる時間くらいはもらえたけど、昨日あったサークルの新入生歓迎会の疲れが残っていたのもあって、できれば今日は家でだらだらしていたかったというのが本音だった。一応、控え目にその気持ちを伝えたものの、どうせ放っておくと家の中にばかりいるんだろうからたまには外に出た方が良いだろう、なんて理屈を振りかざされ押し切られた。


 話がまとまったあとに苦笑いで耳打ちしてきたお母さん曰く、お父さんは四人揃ったら絶対どこかに行くと決めていたとのこと。


 お父さんが休みになると車を飛ばして遠くに行きたがるというのは、二十年に満たない付き合いの中で理解していた。家でゆっくり本を読んでいたいという私の意思は大抵無視されてドライブに連れだされる。最初の頃は抵抗していたけど、何度も同じやりとりを繰りかえしてからというもの、ちょっと文句を言うだけで受けいれるようになった。面倒ではあったけど、それほど嫌と言うわけでもがなかったからかもしれない。そんな密やかな諦めからここ十年程経った今も変わらず、休日になればだいたいドライブに連れて行かれる。もちろん、お父さんの仕事の都合だとか家族各々の事情もあって、休日全てがドライブというわけにもいかなかったものの、けっこうな頻度で短い旅に出ることが多かった。


 そして現在。高速道路に乗りながら鼻歌交じりのお父さんの少し薄くなった頭頂部の後ろで、私はものすごい速度で流れていく窓の外の世界を眺めている。疲れが少し残っていたものの、眠気自体は二度寝の成果かほとんどない。とはいえ、これから山登りだと考えるとちょっと憂鬱だった。


「リーちゃん、昨日はサークルの歓迎会だったらしいけど楽しかったの」


 私に尋ねてくる母親の方を見る。丸眼鏡の下にある穏やかかつ楽しげな眼差しを受けながら、うん、と短く答えた。その答えをラジオから流れる漫才が掻き消しているような気がして、聞こえたかどうか少しだけ不安になる。


「もう少し詳しく話してくれないか」


 どうやらちゃんと聞こえていたらしく、運転席からそんな要求をしてくるお父さん。さすがにこれじゃああんまりかと思いつつも、話すこと自体はあまりない。


「肉をいっぱい食べて、野菜もそこそこ食べて、お酒をちょっと飲んで、色々な人と話して、映画を見たりしたかな」


 なんとなく言った事柄がだいたい全てだったけど、あまりにも小学生じみた感想だな、と自分の言葉ながら苦笑いしそうになる。


「そうか。お酒は二十歳まで我慢して欲しかったところだが、楽しかったんならなによりだ」


 けれど、お父さんはこの簡単な報告で満足したみたいで、それ以上の言葉を付け加えることはなかった。やや拍子抜けしながら、うん、と気の抜けた声音を出してしまう。


「でも、これでリーちゃんとお酒が一緒に飲めるようになって良かったじゃない」


 お母さんも私の報告におおむね満足しているみたいで、前の席のお父さんにそんな言葉をかけた。お父さんも、そうだなそれは嬉しいことだ、なんてしみじみ呟いている。実は歓迎会より前に飲酒したことがあるんだと心の中で思ったりしたけど、口にはしなかった。


 ふと、健やかな寝息が耳に入ってくる。右を向けば、司郎が目を閉じたまま動かないでいた。たぶん、私と同じくらいの時間寝ていたはずだけど、見た感じ起きそうにない。そういえば今日の朝もなんだか眠そうにしていた気がする。元々、睡眠時間は長くとる弟ではあったけど、よっぽど疲れていたんだろうか。


「シロ君、最近頑張ってるからね」


 私の視線から何を言いたいのか察したらしいお母さんの答えは、少々意外ではあった。


「受験生なんだし、頑張っているのはいいことだな」


 お父さんの嬉しそうな声。どうやら、本当のことらしいけど、なんとなく信じられない。


 私が実家にいた頃の弟はいつでものんびりしていて、頑張る、という言葉とはどことなく無縁で、のらりくらりと目標を達成するみたいなところがあったから。てっきり、受験生になっても緊張感の欠片もないのかと思いこんでいた。


「どうしてもリーちゃんの行ってる大学に受かりたいんだって。行きたい学部があるとかなんとか」


 母親の口からするすると語られる事情。そうなんだ、と相槌を打ちながら、もしかして来年には私の下宿に潜りこんでくる気なのかと疑う。


「僕としては、そろそろ姉離れして欲しいと思うけどね」

「いいじゃない。同じ下宿だったら一部屋分お得なんだし、二人でいればなにかと安心だし」


 やや呆れ気味のお父さんに、既に予定は決まったと言わんばかりに未来の予定を語るお母さん。どうやら、私が一人暮らしを謳歌できる期間はもう一年を切っているらしい。


 溜め息を吐きたくなるのを堪えながら、窓の外へと意識を逸らす。低くなった高速道路の柵の上からは、緑に色付いた野山が見えた。その牧歌的な風景をぶち壊しにするみたいにして、ラジオからは大きく歪んだギターの音色が聞こえてくる。いつの間にチャンネルを替えたんだろうかと思いつつ、ラジオの音声と父母の会話の間から響く弟の寝息を耳にしていた。

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