四
*
目の前には四角い枠がある。絵画の額縁か窓か、あるいはそのどちらでもないか。ともかく区切られた中には晴れ空に照らされた色とりどりの花畑があって、その上を真っ白な蝶々がひらひらと飛んでいた。触れてみたいと思って枠の中に左手を伸ばす。手と腕はあっさりと四角を突き抜ける。どうやら、絵ではなかったらしいとわかってほっとしてすぐに、指先が蝶々に触れた。くすぐったい感触と同時に右手を添える。蝶々は逃げない。枠の下に肘をつけてもたれかかるようにしながら、両の手で蝶々を包みこむ。あっさりと捕まえられた。拍子抜けするものの、だからといって離すつもりもなくて、大事に大事に閉じこめた。
それからどれだけじっとしていただろう。いつの間にか日が暮れきっていて空には月が舞っている。急に掌の中に蝶々はいるのかどうか不安になった。おそるおそる掌を開いてみる。蝶々はたしかにそこにいた。ただ周りの色を吸いこんだのか羽の色が黒くなっている。それと同時に蝶々が急に大きく膨らみだした。呆然としている間に、蝶々だったはずのものは大きな黒い犬へと姿を変えている。犬は荒い息を吐き出しながら、行き場を失ってだらんと垂れたこちらの左腕を前足で抱きこんだ。引っ張られそうになるものの、下半身の重みに支えられているせいか外に引き摺り出されるほどではない。重いと感じつつも、その力強さは嫌いではなかった。空いている右手を犬の頭部に伸ばして、ゆっくりと撫ぜる。途端に掌に伝わってくる毛並みの感触は気持ち良かった。犬もまた同じ気持ちなのか目を細めている。もうちょっとこうしていたいなと思いつつも、腕を引っ張る重さがいい加減耐え難いものになりつつあった。いっそ、枠の外に落ちてしまえば楽なのかもしれないと察しつつも、どうにもそこまで踏み切れず時間ばかりが過ぎていく。
*
ぼんやりと瞬きをしながら左腕にずっしりとした重さを感じた。とっさに眼鏡を外してあるかどうか確認してから、付けっぱなしの電気でちかちかとした裸眼で重みを感じる方を見ると、だらしない顔をした弟が大きないびきをかきながら私の腕を抱えている。
大きな飼い犬と添い寝している時ってこんな気分なんだろうか。猫とか犬を飼ったことがないなりに勝手な想像をしつつ、体がべたべたしているのが気になりだす。そう言えば、あのバーベキューから風呂に入っていないなと思い出す。元々、実家に帰ってきてから入ればいいかと考えてたのに、家に着くや否や眠気が頂点に達して、両親や弟への挨拶もそこそこにベッドに倒れこんだ。記憶はそこまでしかなかったけど、なにが起こったかははっきりしている。
とにかく風呂かシャワーを浴びたい。そのためには腕を抜かなきゃいけないけど、がっちりと掴まれている。ぱっと見ると、司郎の眠りはけっこう深そうで、起こしてしまうのは気の毒に思えた。
というよりも、あんたの寝床は上でしょうに。記憶通りであれば、ここは二段ベッドの下のはずだった。私が下で司郎は上。そういうことになっている。もっとも、弟が寝床にもぐりこんでくること自体はそう珍しくない。寒さからか眠気からか寂しさからか、とにかくたまにあることではある。ただ、今はやめてほしかった。
起こすか起こさないか。少し考えたあと、結局体から力を抜くことを選ぶ。どうせ司郎が起きれば風呂に入れるんだしちょっとぐらい我慢しよう。起きて早々に臭いとか言ってきたりしたら怒るけど。
そうと決まれば私にすることはなく、ベッド裏の木目を数えたりした。すぐに飽きた。とはいえ、二度寝に入るにはもう少し時間がかかりそうだった。考え事をするほどの気力もなく、仕方なしに羊でも数えようかなと思い立ちながら、司郎の顔を見た。こっちの気も知らずに安らかな寝息を立てている。小さく溜め息を吐いたところで、黒々とした髪の毛が目にとまった。
どっかで見た気がする。いや、ちょっと前まで毎日のように見てたんだからこんな感想を抱くのがおかしいんだけど、とにかくそう思った。
しばらくの間、じっとその髪と寝顔を見つめる。すやすやとした寝息と気持ちよさそうな顔にちょっとだけ恨めしさを覚えた。いっそ頬でも引っ張ってやろうか、と空いてる右手を伸ばす。その前に髪の毛に触れた。想像よりもさらさらしていて、ほんのちょっとだけ触り心地が良かった。
もう少し、もう少しだけ。そんな風に思いながら、できるだけ柔らかく指先で髪を梳いていく。司郎は時々むずがって、その度に起こそうという気持ちとまだまだ寝かせてやろうという気持ちを天秤にかけてから常に後者を選び、手から力を抜いて、また寝付くのを待って、寝付いたらまた梳きはじめた。そんなことを何度も何度も繰り返していく。点きっぱなしの電灯のせいで、今が何時かよくわからないまま、きっとまだ夜だろうという曖昧な感じに任せて、いつまでもいつまでも指先で髪をもてあそび続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます