四

 風呂から出て寝間着になったあと髪を乾かして部屋に戻ってくると、電灯が消されていた。


「おかえり、姉ちゃん」


 フローリングに引いた布団の上、先に風呂を済ませていた司郎がこっちを見た。先程まで見ていただろう天井の方へ視線を向けると、丸く象られたガラス越しに月らしきものが映っている。再び、弟の方へと向き直った。


「良かったね。晴れてて」


 応えながら後ろ手で風呂場兼洗面所の電気を消してから、のたのたと歩きだす。幸い床にはそれほど物は転がっていないため、気を付けるべきところも少なく、適度に冷えた木の板はちょっとだけ気持ちよかった。


 途中で足を止めて、天窓を見る。欠け方的に上弦の月というやつだろうか。うろ覚えな名前を頭の中から引き摺り出し、しばらくそのままの姿勢でいる。


「冷えるよ」

「あったかくなってきたから平気じゃない」


 視線を離さずにぞんざいに言った。とはいえ、弟の言い分には一理ある。せっかくあったまったんだし。


 司郎はそれ以上なにも言わなかった。たぶん、同じところを見ているのだろう。そうぼんやりと思ったあと、立ち尽くして月とかその回りにちらちらする星とかを眺めたりする。何度か雲が通りかかって暗くなったり明るくなったりするのを見送ったあと、いい加減にしようと考え、ベッドまで歩いていってブランケットを被った。布団の上に座った弟の視線はまだ同じところを見ている。私が風呂から出てくる前から今にいたるまで真上を向いていたとしたら、首が相当疲れていそうだった。


「今日みたいに風呂上りに星を見たりもするの」

「うん」


 司郎の問いかけに答えてから、眼鏡を外し、ベッド脇の小机に割れないように置いてからゴロンとする。この辺りの空は比較的綺麗だったけど、レンズの力を借りていないためか少々ぼやけていた。


「たぶん、転がってた方が疲れないよ」


 助言を送ると弟は、なんか寝ちゃいそうでと弱々しげに応じる。今の位置からだと当然顔は見えない。私は、それはそれで気持ち良いんじゃない、と答えてから、天窓の中にある宇宙に視線を注いだ。久々に寝る前に人がいるせいか眠気はやってこない。


「まだ寝たくないから話し相手になってよ」

「めんどい」


 長く口を動かすと舌がだるくなるから苦手だった。司郎もまた私のそういう気持ちや体質を心得ているはずだったけど、そこをなんとか、と頼みこんでくる。あまり喋りたくはなかったもののこれ以上押し問答をすると余計に疲れそうだったので、わかったよ、と答えた。


「その代わりに私が先に寝たからって起こさないでね」

「うん、気を付けるよ」


 少し大きめな声。うるさい、と口が滑りそうになったけど、謝られたりすると喋らなければならない言葉が増えそうだったので何も言わずに、弟の次の言葉を待った。


「ゴールデンウィークは、実家に帰ってくるの」

「うん」


 何日実家にいるかはわかんないけど、帰りはする。


「大学で入ってるのペンクラブだっけ。どう」

「普通」

 

 正直、サークルに入ったばかりでよくわからない。まあまあ仲の良い同輩や先輩はできたし、共通の話題もなくはないけど、それだけでは高校で文芸部にいた頃とさほど変わらなかった。ひとまず本番は六月頃に作る予定の雑誌ということになっているものの、〆切が先過ぎていまいち実感が湧かない。


「大学の授業、面白い。それと難しかったりする」

「どうかな」


 文学系の講義で小説に触れている部分は割と楽しかったりするけど、古典におけるある単語の数と美の関わりみたいな入門講義は面白い面白くない以前にさっぱりだった。なんとなく自分の小説に活かせそうなところはメモっているものの、手と頭がばらばらになっている感がある。その他の特に興味のない講義はメモだけとっているけど、面白かったりつまらなかったりまちまちだった。また、講義の難しさに関しては極端にわからないということは今のところない。ただ、あまり真面目な学生というわけではないため多分に聞き流しているところもあるし、わかった気になっているだけかもしれなかった。


 こんな調子でしばらくの間、司郎の毒にも薬にもならない問いかけや最近読んだミステリーや見たばかりのドラマの話などに最低限の相槌を打って応じる。特に面白くもないやりとりの間もやっぱり眠気はやってこない。


「ほんと、姉ちゃんって張り合いがないな」


 目の端に人工衛星とおぼしき赤く光るものが映ったところで、弟の苦笑いじみた言葉が聞こえてきた。つまんなかったんだろうな、と察しつつも黙りこむ。悪かったね、くらいは言えばいいのかもしれなかったけど、口を動かす気にならない。ただただ目だけが冴えて、小さな宇宙を貫いてる。


「姉ちゃん、寝ちゃった」


 邪魔しないで、という言葉を飲みこんだ。寝たら起こさないという約束だったので、余計なことさえ言わなければそのうちいびきをたてはじめるに違いない。もっとも、気分次第では起こしに来たりするかもしれなかったけど。


 予想通り、弟は次の言葉を発しなかった。微かな安心感と物足りなさを覚えつつも、訪れた静けさに身を任せる。さすがに夜遅くだからか音数は少なくなっていて、これならそのうち眠気はやってくるだろうと思い、羊を数えるみたいな感じで形がはっきりとしない光っているものの数えはじめた。とはいえ、天窓自体の狭さもあいまって、すぐに数え終わってしまう。たぶん、見えないだけで宇宙は色々なものでびっしりと埋まっているんだろうな、なんて遠く遠くにあるかもしれないものに思いを馳せた。


 ふと、ベッドの下で大きなものが蠢く気配がする。自縛霊か泥棒でもいないかぎり心当たりは一つしかない。トイレかな、なんて思っているうちにベッドの下にいた大きなものは立ち上がる。だけど、予想に反して大きなものはこちらに倒れこんできた。


「やっぱり、起きてたんだ」


 視界を塞いだのは司郎の苦笑いだった。弟の両手は私の両肩の外側に置かれていて、結果として半ば覆いかぶさられる形になる。


「星、見えないんだけど」


 程よい薄闇によって養われた夜目は、かなりくっきりと司郎の顔を捉えていた。距離が近いのもあってあまりぼやけてもいない。死ぬほど見慣れた顔に綺麗な景色を遮られるのに少しだけ腹が立つ。


「寝てないんだったら、ちゃんと答えて欲しいな」


 困ったような表情。もうちょっとで寝れそうだったのに、なんて苦し紛れに呟こうとも思ったけど、約束は約束だったので、ごめん、と謝る。


「こっちこそごめん。なんか、わがまま言っちゃって」


 答えながらばつが悪そうにする弟。私は急にこの会話の落としどころがわからなくなって、いいよ、なんて答えるに留めた。変な空気を残したまま、しばらくの間、同じ姿勢でお見合いする。頭部で明かりを遮り続ける司郎の顔はどこか弱々しげだった。いったいどんな顔を見られているんだろう、と眼球の中を覗きこんでみるけど、視力のせいか闇の濃さのせいかはっきりとしない。その間も、弟の視線はこちらの様子を窺い続けているみたいだった。


 見られながら見ている。視線と視線が輪を描いて循環している気がして、いつまで経っても私も司郎もこのままでいるんじゃないかって思ったりしていた。


 ふと、顔が最初よりも近いところにあるの気付く。私は寝転がったまま。だとすれば、結論は一つだった。永遠はたぶんないんだな、なんてどこか冷めた気持ちになっている間も顔と顔が磁石みたいに近付いていく。長いのか短いのかよくわからない時間を経たあと、唇と唇がくっついた。

 

 司郎の顔でいっぱいになった目は冴えたままで、なんとなく閉じずにいる。鼓動、猫の鳴き声、冷蔵庫が氷を作る音。そういうのを聞いたりしながら、ただただ時が過ぎ去るのを待った。


 やがて、司郎が体を起こした。必然的に唇が離れて、ほっとするような名残惜しいような感情がやってくる。もしも、私が上で司郎が下だったらどうなっただろうという疑問が頭に浮かんだけど、考えないようにした。


「しても、良かったかな」


 おずおずとした問いかけに、聞くくらいならするな、と思ったけど、それは言葉にしないで、歯磨き粉の味がした、とだけ答える。


「俺も同じ」


 少しだけ司郎の頬が弛んだ。体は大きいのに頼りないな、なんて思ったあと、同じ歯磨き粉なんだから当たり前でしょ、なんて口にする。そうしてから、こうするのはいつぶりだろう、と思い返した。少なくとも一ヶ月以上はしていなかった気がする。度々人に隠れてするようになってからもう一年くらい経っているから、いちいちいつしたかなんて数えなくなっていたし、あまりよく覚えていない。


「もう一回、いいかな」


 弟の問いかけに、ダメだと言ったら止まるのかな、なんて興味が湧かなくもなかったけど、あまり断わる気にはなれなくて、どうぞ、と小声で応じる。司郎は律儀に頷いてみせてから、ゆっくりと顔を近付けてきた。相変わらず弟の頭部に月と星はふさがれていて少しだけ忌々しく思わなくもない。一方、これはこれで代えがたい瞬間であるとも思う。


 どうせ、長くは続かないんだろうし。そんな諦めとも希望ともつかない感情に引きずり回されるみたいにして近付いてくる二つ小さな丸い窓を覗きこむ。今度は私の姿が映りこんだのが見えた。不細工な顔をしてる、なんておかしく思っていたら唇が触れる。ちょっとだけ幸せだ。たぶん気のせいだけど。

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