三

 食事を終えたあと、どちらが食器洗いをするかで少々揉めたけど、今日の司郎はお客様だから、という理屈で押し通したあと私が手早く済ませた。


 台所から戻ってくると、ベッド脇に寄りかかる弟の姿がある。尻の下には座布団を敷き、手には紙のブックカバーに包まれた文庫本。少しだけ何を読んでいるのか気になったけど、邪魔するのは悪いと思い、本棚から読みはじめたばかりの小説を手にとって司郎の隣に移動し、同じように食事中にも使った座布団を引き寄せ、それを尻の下に引いて腰かける。


 微かな虫の鳴き声や車両の走行音、それに電化製品の内側から響いてくる音や下や隣の部屋から聞こえてくる人の動く音や話し声。いくつかは食事中も聞こえていたけど、外に近付いたのもあってかよりはっきりと耳に入ってきた。意外に世界は音に満ちている。下宿で一人になって気付いたことだった。


 ページを捲る。その後を追うようにしてぱらりという音。私の手元ではなくて、たぶん弟の手元で起こっていることだった。目で文字を追っている間も、隣には熱と存在感。つい最近まで当たり前だったこと。


 私がまだ実家に住んでいた頃、なんとなく司郎の隣で本を読むことが多かった。居間の椅子に腰かけたり、窓際で並んで座ったり、子供部屋の畳の上に寝転がったり。どちらから近付くというのもその時々で異なっていて、むしろしばらくしてから先に読んでいた方が後からやってきた方に気付くということがほとんどだった。だから、理由は、と言われてもいまいち私自身もわかっていないし、たぶん司郎も首を捻るんじゃないかと思う。無理に理屈をつけるのであれば、寒いからとか心細いからとかそれらしい言葉を彩れる気がしないでもないけど、そうであるようなそうでないような。うん、やっぱりわからない。


 耳へと入り込んでくる変わりばんこにページを捲る音。そうしている間も、文字は頭の中に広がっていった。今は子供の頃の記憶がない主人公の女性が家出し、不思議なおばを訪ねる場面だった。その後も繰り広げられるなんともつかみどころのない話に乗るようにしてゆるりとした時間を費やしていった。


 やがて、ちょっと疲れたところでちらりと司郎の方を窺う。一心に目線を紙に落とす司郎。手にしている文庫本は分厚い。またミステリーだろうか。弟の好みを思い出しつつ、ちょっとの間、なんとはなしに眺める。


 不意に喉の渇きに気付いた。時計を見ると十時を少し回っている。そろそろ風呂を入れ始めてもいいかもしれないと思ったけど、弟は集中したままだったので邪魔するのは気が退けた。仕方なくできるだけ音を立てないように腰をあげてから一人台所に向かい、冷蔵庫に入っていたスポーツドリンクを取りだしごくごくする。


 どうせ明日は休みなのだから、もう少し起きていてもいいかもしれない。自己責任ではあったものの、誰にも憚ることなく夜更かしできるのも一人暮らしの特権だった。


 台所の出入り口から寝室兼居間を振り返り覗くと、弟はまだまだ本に視線を注いでいる。少しだけ遠目ではあったものの、微動だにしていないように見えた。再び踵を返して薬缶に水量を搾って水を流しこみはじめる。ちょろちょろと注がれる水を眺めながら、近くの棚からインスタントコーヒー用の豆が入ったガラス瓶とマグカップを二つ取りだした。私もせっかくだから、誰かが隣にいるうちにもうちょっとだけ本を読み進めたい気分になっている。そうやって、司郎の隣に腰かけたらあと何時間くらいが過ぎるんだろうか。まるでタイムマシンみたいだ、と思ってから蛇口の方を眺める。二人分の水を注ぎこむにはもうちょっとだけかかりそうだった。私は後ろの棚に寄りかかりながら、じーっとその様子を眺める。夜はまだまだ長くなりそうだった。

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