終章

終章

「はい。もう一口ね。」

恵子さんは、茶碗にさじを入れ、おかゆをすくい、水穂の口元へ持って行った。

「いける?」

「はい。」

とりあえず、今回は口にしてくれたので、ほっとする。

「じゃあ、もう一口、頑張ろう。」

もう一回口元へ持っていくと、

「もういいですよ。」

今度は首を振った。

「なんで?」

「もう、いいです。」

「だからだめ。せめて、茶碗一つは、完食しようよ。じゃないと、本当に分銅みたいに、何にも動けない体になっちゃうわよ。それでもいいの?」

恵子さんは、ちょっと考えて、こう切り出した。

「たとえばさ、老人施設なんかでは、いつも同じ飯ばっかり食わせて、人を馬鹿にするなとか、文句言うお年寄りもいるんだけどな。」

「あ、そんな贅沢は言いませんよ。」

「だから最後まで聞いて。そういう風に、文句言うほうが健康的で、あんまり従順過ぎる患者は、かえって不健康だって、曾我さんが言っていたけど、本当のことね。」

「すみません。」

「謝って済む問題じゃないわよ。だからいつまでたっても33キロのまんまだし、立って歩くことだってできないんじゃないの。」

「だけど、無理して本を読み漁って、毎日献立に悩んでしまうのも、申し訳ないですから、同じもので結構ですよ。」

癪に障ったのを一生懸命こらえて、恵子さんは言った。

「馬鹿なこと言わないで頂戴!どこまで欲がなかったら気が済むのよ!そんなんだから若い人から馬鹿にされるんでしょう?そのことに気が付かないで寝ているだけじゃだめね。」

「だけど、介護してくれる人が無理してああだこうだと悩んでしまうのは、おつらいでしょうから、こちらが我慢すればそれでよいのではないでしょうか。」

「馬鹿!」

もうやるせない気持ちで、恵子さんは言った。

「そうじゃなくて、毎日毎日白がゆばっかり食べさせられて、つまらないって、なんで言えないのよ!」

「決まってるじゃないですか。いう必要がないからですよ。」

「何を言っても無駄ね。」

恵子さんは、大きなため息をついた。

「だけど、あたしは放っておけないわ。そのままにしていたら、確実にまた倒れるわよ。」

それもまた事実なのだが、本当に食事をしようという気になれないのだった。

「すみません。ごめんなさい。でも、本当に何も食べようという気がしないんです。とりあえず、口に入れればそれでいいですし、献立の内容なんて、不満に思ったことはないんですよ。」

「そうかあ。」

恵子さんは、いよいよこうなってしまったかと思い、ため息をついた。

「何とかしなきゃいけないわね。このままだと、本当に何も食べなくなって、認知症のお年寄りと、おんなじような生活をしなきゃならなくなっちゃうわよ。そうなったらどうなるか。考えただけでも怖いわ。」

「ごめんなさい。次はなんとかして食べるようにしますから。」

「じゃあ、夕飯は必ず完食して頂戴ね。」

「はい、わかりました。次は気を付けます。」

聞き終わらないうちに、いやになって食器を片付け、四畳半を出た。


一方そのころ。

「本当にご丁寧にありがとうございました。お宅へ依頼して、やっと肩の荷が下りましたよ。これでやっとお客さんから、屋根が汚いと笑われないで済みます。」

蘭は、森さんに塗装代金を支払った。

「はい、こちらこそ、ありがとうございます。どうかこれからも、うちをよろしくお願いします。」

「はい。わかっております。じゃあ、最後ですが、お茶、出しましょうか。」

いつも通りに蘭はそういったが、

「いや、今日は午後から、警察で面会があります。支度をしなければなりませんので、すぐに帰ります。」

と、森さんは断った。

「え、どうしたんですか?まさか息子さんが窃盗でも?」

森さんは森さんで、蘭に水穂の話をすると、蘭がひどく取り乱すことは知っていたので、あえて言わないことにした。

「まあ、そういう感じですね。でも、もう、被害者さんとも話はついてますし、本人もよく反省していますので、更生は、比較的早くできそうだと、弁護士さんが言っていました。なので、妻には戻ってきてもらうことにしました。淳が、刑期を終えて出所した時に、家族がバラバラでは、まったく意味がありませんから。」

「そうですか。でも、大変でしょう。これから息子さんは犯罪者というレッテルを張られることになりますし、お二人も、その家族として、それなりに批判的な目で見られることもありますし。」

こればかりは、アウトローに数多く接してきた、蘭ならではの心配であった。同時に、非常に例の少ない、しかし希少価値のある心配でもあった。でも、森さんはしっかりした顔で、

「大丈夫です。出所したら、夜間中学とか、高校に通って、うちのペンキ屋を手伝うと張り切っていました。担当の刑事さんも、居場所があるのなら、そこにいさせてやったほうが良いといいましたので、そうすることにしました。」

といった。

「そうですか。まあ、それは確かにそうですね。でも、大丈夫なんですか、ほら、具体的な生活費とか。」

蘭がそう聞くと、森さんもそのことを言われるだろうなと予測していたのだろうか。そこだけは不安だという顔をした。

「はい、妻にも同じことを言われました。今でこそ少なくなったといいますが、ご存知の通り、ペンキ屋というのは、昔から偏見の強い職業です。だから、いじめられることもあるかもしれないし、自信をもってくれるかどうかも心配なんですよ。その対策というのを一生懸命考えているのですが、何も思いつかないというのが現状でしてね。出所してくる前に、答えを出さなきゃいけないのですが、今は、何もありません。」

「そうですよね。じゃあ、これは僕からの提案なんですが、彼に、ティンガティンガでも習わせたらどうでしょう?」

蘭は、森さんにそう提案をした。

「ティンガティンガ、それ、なんですか?」

「あ、はい。アフリカのタンザニアで流行している、塗装用のペンキで描く、絵画の技法ですよ。エドワード・ティンガティンガという人が、発明したのですけどね。貧しいゆえに、塗装職人にしかなれなかった彼は、どうしても絵を描くのをあきらめられなかったのでしょう。道具として与えられた、塗装用のペンキで、人物や風景、動物などを描く技法を発明しました。それに共鳴したタンザニアの人が、彼に弟子入りを申し込み、世界中に広まったんです。彼は、戦闘に巻き込まれて早逝しましたが、お弟子さんたちが世界各国で展示会を開いたりして、今では世界中の人が、そのお弟子さんたちに弟子入りして、人種も民族も関係なく、いろんな人が彼の技法で絵を描いているんですよ。僕は、大学院時代に初めて見たんですが、同級生の中には、その技術に魅せられて、本当にタンザニアまで習いに行ってしまった人がいました。今でも彼女とは、時折やり取りしていますから、フェイスブックなどで、すぐに連絡を取ることができます。」

「そうですか。でも、そんなうまい話あるんですか?」

「だから、あるんですよ。もし、疑わしいようでしたら、彼が出所するとき連絡をください。その間に話しておきますよ。」

「わかりました。じゃあ、お願いしてもいいですか?」

「ああ、わかりました。それを習えば、塗装用ペンキでも、いろんな絵を描くことができるようになりますから、屋根の塗り直しだけではなく、絵を描いて、かわいらしい看板でも作って、商売の範囲を広げることもできるのではないでしょうか。そうすれば、少し、偏見の目から逃げることも可能かもしれませんよ。」

「そうですねえ。蘭さん。確かに、世間の目は、ナイフよりも恐ろしいですからなあ。だから、武器が必要なのはよくわかりますよ。」

「ええ、日ごろからアウトローばかり相手にしているので、偏見から逃れる方法というものは、結構聞かされていているんですよね。」

「ありがとうございます。その時が来たら、お願いしたいです。そろそろ時間なので、行かなければなりませんが、また、おいおい、中間報告しに来ますので。そうしたら、きっと山のように愚痴を漏らしますが、聞いてくれるとうれしいです。」

「はい。いくらでも聞きますので、頑張って生きてください。」

「ありがとうございます。とりあえず、今日は失礼します。」

森さんは、一礼して蘭の家を出て行った。蘭は、小さくなっていく彼の背中をじっと見つめた。森さんには、これからアウトローの一人として、世間の冷たい目と闘いながら、生きていかなければならない、という不安が投影されているような気がした。たぶん、八割から九割は、偏見の目で見るんだろうなと思う。でも、頑張って生きてくれよ。そう願うしかなかった。


それから数日後、製鉄所には、ブッチャーと杉三が来訪していた。

「だいぶ、せき込まなくなったなあ。偉いなあ。無事に、30分座っているという試験もクリアしたな。よし、いい傾向だぜ。」

「それができたんですから、ご飯を食べられるようになってくださいよ。でないと、一生懸命作ってくれている、恵子さんがかわいそうですよ。」

「あ、はい。これからはできる限り。」

杉三とブッチャーの話も、何か弾んでいた。二人とも、希望が見えてきたと思っているのだろう。

「おはようございます。」

ふすまが開いて、赤城医師が四畳半に入ってきた。

「ご気分はいかがですか?」

「あ、どうも。変わりありません。」

とりあえず、現状を口にすると、

「そうですか、先日、30分座っていられましたし、今日は顔色もよさそうですし、とても穏やかでいい天気です。どうでしょう。お三方で、念願だった富士花鳥園に、お散歩してみませんか?」

と、にこやかに赤城医師は提案した。

「でも、まだ、一時間もできないですから。それに、大掛かりな道具が必要になりますし。」

自信のなかった水穂は、穏やかに断ると、

「いや、道具なら、すぐそこにありますよ。ほら、あの、華岡さんが作ってくださった、寝台車があるではありませんか。あれ、杉ちゃんが棺桶に車輪がついているみたいだから、縁起が悪いと言って、没になったそうですけれども、森さんと息子さんが、収監される前に塗りなおしてくれたそうなんです。かわいい花の絵で、とても、杉ちゃんが言ったようなイメージはありません。それに布団を敷いて、大型の介護タクシーを取り寄せれば、今からでも行けるはずですよ。」

赤城医師はまたにこやかにいった。

「だけど、そんな大掛かりなものを使って、誰かに見られて恥ずかしくないですかね。やっぱり、変な目でみる人も少なくないですからね。」

ブッチャーが、心配そうに言ったが、

「いいえ、それは心配いりません。本当に、重い障害のある方が、たくさん来園されますから、そのような目で見る人は少ないですし、スタッフも、みんな親切です。そこは、医療者の目から見てもよくわかります。」

と、赤城医師は続けた。

「それに、杉ちゃん。園内に、カレーライスを食べさせてくれるレストランもありますよ。ものすごい、おいしいとして評判です。」

「わかった!すぐ実行しようぜ!」

杉三の一言で、ブッチャーも、水穂も、これは決行したほうがいいなとおもった。お散歩はすぐに実行に移される。杉三が、花の描かれた寝台車は、応接室に保管してあったのを見つけ出し、ブッチャーが布団ごと水穂を持ち上げて、そこに寝かせた。あとは、介護タクシーを、赤城医師に呼び出してもらって、運転手さんにも手伝ってもらいながら、タクシーに乗り込み、富士花鳥園に向かって出発した。確かに、全面に菊の花が描かれた寝台車は、本当にかわいらしくて、とても棺桶という感じには見えなかった。水穂を持ち上げたブッチャーは、自分が持ち上げると彼が本当に軽いのに、本人は、体が分銅みたいに重い、と表現していたのが、なぜか耳に残った。

とはいえ、花鳥園は、不安なんか打ち消すようににぎやかだった。もちろん冬の始まりということもあって、咲いている花の種類は非常に少ないが、ときに鳥たちが肩に止まったりすることも多く、彼らの顔は、十分心をいやしてくれた。

そのうち、お昼の時間が来て、杉三とブッチャーは例のレストランでカレーライスを食べることになった。

「うまい、うまい、うまいなあ!これはいけるぜ。おい、姉ちゃん、お代わり!」

「もう、お代わり自由だからって、本当によく食べるな、杉ちゃんは。もうお代わりか、四杯目だよ。」

ブッチャーはあきれた顔で杉三を見たが、無視してウエイトレスからお代わりを受け取り、がつがつと食べる杉三であった。

「すごい食欲だな。杉ちゃん、それ水穂さんに半分分けてやってくれないかな。」

「うるさい。うまいんだから、思いっきり味わって食べるのさ!」

ブッチャーは、そんな杉三を見て、またため息をついた。

「久しぶりに、遠出したんだから、味わって食べようぜ。大丈夫だよ。水穂さんは、赤城の坊ちゃんがしっかり見てくれるさ。」

「そうだな、そう考えるか。」

ブッチャーは、隣の席の少年を見た。かなり重度の知的障害でもあるのか、お母さんに、カレーを食べさせてもらっている。そういう子供でも、楽しめる施設なんだと考え直して、ブッチャーは味わって食べることにした。

杉三たちがカレーを食べている間、水穂と赤城医師は、園内の自由広場で待たせてもらうことにした。食べ終わったら、そっちへ行くと言われていたので、赤城医師はベンチに座り、水穂はその隣で待つことにしていた。

「だいぶ時間がかかってますね。あの二人。」

赤城医師が、水穂に話しかけると、

「まあ、大食いですから、少なくとも四杯は食べると思います。あるいはそれ以上かも。」

水穂は、そう笑いかけた。

「しかし、本当にすごい施設ができたものですね。気管切開するほど大変な人まで、平気で来るんですね。」

水穂は近くにいる、看護師と思われる女性に連れられたおじいさんをみた。おじいさんは、やっぱり寝台車に乗っていて、ガスマスクでもつけているように、大量のチューブでつながれている。

「そんな人でも、お出かけをしていいという、時代になったのですね。」

ほっと溜息をついて、そうつぶやいた。

「水穂さん。実は今日、お別れに来ました。」

赤城医師は、ふいにポツンと言った。

「おわかれ?」

「ええ。お別れです。実は、本当に恥ずかしい話ですが、父からお咎めが来てしまいまして。」

「ああ、そうですか。」

水穂は、怒る気にもなれず、そう答えるしかなかった。

「本当に、ごめんなさい。もうちょっと、強い意志があればいいんですけど、父からの庇護がないと、何もできなくなってしまう立場なんですよ。妹は、次期院長の座があるから、ある程度自由が効くんですけど、そうではないので、、、。父からのそれがなくなると、もう、生活ができなくなってしまうので。ごめんなさい、せっかく、これからだと思っていたんですが、そのためには、、、。」

「もう結構です。杉ちゃんや、ブッチャーさんであれば、きっと激怒して、怒鳴り散らすと思いますけど、僕には、そのような体力はありませんから。」

水穂は、静かに言った。

「わかってますよ。こういう人間を何とかするなんて、うちの病院の名誉にかかわるから、すぐやめろ、とか言われたんでしょ。大体予想ができますから、無理して言わなくても大丈夫ですよ。」

「申し訳ありません、、、。本当にここまで来て、こんな形で終わってしまうのは、お互い腑に落ちないところがあるというか、なんといいますか、もうどうしようもないのですが。今日は、お餞別のつもりで、、、。」

「ええ、わかりました。見てからも、僕より年下でしょう。そういう突飛な行動に移りやすいのは、よく知っていますよ。いままで、ありがとうございました。どうか、いつまでもお元気で。」

「すみません、本当にすみません。こんなダメな医者に付き合ってくださって、、、。」

「いいえ、嘘偽りないことはわかりますよ。もうちょっと距離が近かったらよかった。そうしたら、涙を拭くことだって、できました。そこが悔しいだけです。」

「すみません。予想外の反応だったので、正直驚いています。怒るどころか、涙を拭くなんて、どうしてそういうことが言えるのでしょうか?」

「言わなくちゃいけないからですよ。そういう身分だからです。僕たちはそういう風にして、生きてきたんです。」

「わかりました、、、。あなたを治療した時の記録は、絶対に捨てませんから。ほかの患者さんたちと同じように。」

「捨ててください。そうしてください。そうでなければ、病院の経営を確実に妨害することになるでしょう。どうか、僕たちのような、穢れた種族を相手にしたことは忘れて、患者さんに快い医療を提供できるように努めてください。」

「はい。」

赤城医師は、自らの手で、顔じゅうの涙を拭いた。

「ありがとうございました。どうかお体を大事に。」

「こちらこそ、ありがとう。さよなら。」

軽く首を振って、水穂は、そう答えた。


花鳥園でのお散歩から数日後。

恵子さんは、ついに決断して、いつかジョチにもらった例の茶封筒の中身を出した。パンフレットと一緒に入っていた、社長さんの名刺に書かれている、電話番号に電話をしてみる。

そのころ、水穂は、縁側に敷いた複数枚の座布団の上に寝かせてもらいながら、ブッチャーが庭を掃除するのを眺めていた。

「珍しいじゃないですか。布団から出たいなんて言いだして。花鳥園に行って、よほど楽しかったんですか。」

「いや、単に布団の外に出たかっただけですよ。」

軽く笑みを浮かべて水穂は答えた。

「さて、終了だ。ちょっと、集めた落ち葉を始末してきますから、ここで待ってていただけますかね。そしたら、もう、寒くなってくる時間ですから、布団に戻ったほうがいいですね。」

ブッチャーはそういうが、今日は小春日和で暖かく、もう少し、縁側にいてもいいと思った。でも、ブッチャーのいうことには従うことにした。

「じゃあ、お待ちしています。」

「はい。ここで待っててください。」

ブッチャーは、竹ぼうきを片付けに、庭から器具庫に向かって行った。

少し待っていればいいとおもっていた。でも、そのまま待っていることはできなかった。久しぶりに吐き気がして、せき込んで気道にたまったものを出す必要があった。いつもなら、数回せき込こめばでてくるが、今回はそうはいかない。実はこれ、先日飲まされた毒物のために、気道が損傷したため、喀出するのが難しくなったということを示していた。

ここで初めて、今回の事件で大損をしたと気づく。でも、あの少年を責めるという気には、なれない。何とか内容物を出すことは成功したものの、口に当てた手についた内容物を、ふき取ることはできなかった。すでに、分銅のように、重い体を持ち上げることもできなかった。

ブッチャーが戻ってくるのを待つしかなかった。


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杉ちゃん医療編第三部 父ちゃんのペンキ 増田朋美 @masubuchi4996

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