第四章

第四章

杉三の発言に、しびれを切らした老院長が、でかい足音を立てて帰っていく。それを、恵子さんやブッチャー、さらに企画したジョチまでも、機嫌を立て直すお膳立てをしながら、見送っている足音や、声、玄関の戸の音などが立て続けに聞こえてきた。

「あー、もう、この前の馬鹿医者以上にひどかったなあ。ああいう穏やかに馬鹿にされると、かえって傷つく度合いも強くなるよな。それなら、さっさと出て行ってもらったほうがいい。ま、追い出してよかった。」

杉三は得意げに言った。隣で横になっていた水穂は、今一度せき込んだ。

「とりあえず、追い出すことには成功したから、なんか食べさせてくれや。食べ物はどこにある?」

「ないよ。恵子さんに聞いて。」

返答することで精いっぱいだった。

「ないって、食べないと困るだろ。もしかして、何も食べてないだろ。ここ最近。」

「食べるなんて全然しないよ。食べたいという気にもならない。」

「馬鹿だなあお前。医者も馬鹿だが、食べないのはさらに悪いぞ。睡眠剤をご飯代わりにするなんて、もっと馬鹿だぞ。それくらい、わかっているだろうが。」

「そんなこと、もうかったるいよ。」

再びせき込んで返答した。

「おい、なんでそんなに弱気になった?ていうか、いつからそこまでよわっちゃったん?あの馬鹿医者に何も言えなかったけどさ、いつからおかしくなっただよ!」

「ごめん。理由なんてしらない。先週くらいからかな、どうも最近だるいなあとは思っていたけれど、、、。」

「なんで誰にも言わなかった?」

「あの時、みんな楽しそうだったから。ブッチャーさんなんて、久しぶりにうまいもんが食べられるなんて、大喜びして。」

「バーカ。そういう変な考慮すると、かえって大損をするんだよ。そのせいで、何人の人間が損をしたのか、勘定してみろ。何なら、僕が名前を挙げてやろうか。少なくとも、僕よりは、頭がいいと思うんだが。」

「いいよ、杉ちゃん。今回は誰が悪いのか、一目瞭然じゃない。恵子さんたちに謝りたくても謝れない、自分も情けない。」

「わかった。もう、変な堂々巡りは嫌いだ。誰かのせいにしてたら、一向に解決はしないよ。じゃあ、お願いだ。これからはちゃんと、ご飯を食べることを約束してくれ。何も食べる気がしなくても、危ない睡眠剤をご飯とすることはやめろ。恵子さんに聞いたぞ。飲んだあとすぐに、すごい唸り声出して、もう、見てるのもつらいほどだって。そんな危ない薬で絶対に楽になるはずはない。それに快楽意識を持ってたら、正常な頭じゃなくなるのも当然のことだ。」

「もう、わかったよ。杉ちゃんにはかなわない。お互いさまで申し訳ないが、蘭には知らせないでくれるかな?」

「おう、任せとけ。蘭が知ったら、大地震でも起きたように泣きはらすだろうから。それをされたら、僕もいい迷惑さ。それじゃあ、頼んだぜ。いくら食べる気はしなくても、睡眠剤はご飯じゃないって、頭の中に叩き込んでおいてくれよ。」

「わかったよ。杉ちゃん。」

水穂は横になったままふっとため息をついた。


玄関の戸がガラッと開いて、ブッチャーたちが戻ってくる音が聞こえてくる。たぶん、あの偉い人たちが、ぼろくそ悪口を言ったのだろう。彼らは、ほとんど会話を交わさなかった。

ふすまが開く音がして、ブッチャーが入ってきた。恵子さんは、たぶん食事を作るために台所に行ってしまったのだと思われた。

「もう!杉ちゃん、失礼なこと言うなといったのに、なんで約束を破った!」

「約束を破った覚えはないよ。当たり前のことを言っただけだい。あんな馬鹿な医者は早く追い出したほうがいいと思ったからそうしただけだよ。」

杉三が当然のようにそういうと、

「あのなあ、少しばかり嫌味を言われても、水穂さんの病気を治してくれるのは、お医者さんだけじゃないか。俺たちにはできないんだから、少しぐらい我慢しなきゃ。」

ブッチャーは諭すように言った。

「ああ、期待するな。患者にひどいことをいうような医者は、患者を治すことなんかできやしないさ。そんなもん、こっちから払い下げだ。さっさと出て行ってもらわないと!」

「杉ちゃん、そうだけど、やっぱり俺たちは敬意を称さないと。偉い人には、こっちの印象をよくすることも必要さ。ちょっと、何口笛吹いてんの!あーあ、女の人はいいなあ、ご飯の支度で忙しいに、逃げられるから。俺は杉ちゃんの説得をしなければならない。うーん、男はつらいよ。」

ブッチャーは口笛を吹いている杉三の腕をついた。

「ばっかだあな。敬意なんて、示す必要もないの。期待が持てない人物に、敬意なんか出してどうすんの?そんなの体力の無駄遣いというものじゃないかよ。」

「杉ちゃんは何を言っても糠に釘だなあ。」

ブッチャーはそうため息をつくが、水穂が苦しそうにせき込んだため、落ち込んでいる暇もなく、

「もう、大丈夫ですか。疲れたでしょうし、薬飲んで休みますかね。」

と、聞く。ところが水穂は弱弱しく首を振った。

「何でですか。飲まないと、休めませんよ。」

「約束は、約束ですから。」

それだけ言ったものの、咳はとまらない。

「約束って誰とです?あ、また余分なことを言ったな!いくら危ない作用をするかもしれないけど、同時にせき込むのも取ってくれるんだぞ、杉ちゃん。」

「なんのことだか知らないな。」

しらを切る杉三に、ブッチャーは怒りたくなった。

「杉ちゃん、笑うなよ。薬飲まないと、いつまでたっても咳が止まんなくて、かわいそうだろ。だから、いま楽にしてやってんじゃないか。」

ブッチャーは、当たり前のことを言ったつもりだったが、

「嘘言うな。お前も目撃していないのか。平気で使わせるもんじゃないよ、あんな危ない睡眠薬。」

と、反論する杉三。

「危ない?俺の姉ちゃんも、普通に使っていたから、安全なんじゃないの?」

「それば、ブッチャーの姉ちゃんが特殊な病気だから。一般的に使うと、すごい苦しいんだってよ。もう、水穂さんも、考慮しすぎないで、ちゃんといえ!」

水穂は、発言しようと試みたが、先に出たものは咳であった。

「杉ちゃん、とにかく咳き込んだら何とかしてやるのが、一番なんじゃないか?」

「ブッチャーは、姉ちゃんばっかりみてるからさ、目が黄色くなって濁ってるんだよ。だから、いままでの価値観は全部捨てろ!水穂さんも、調子が悪くなったなら、一大事になるまでためておかずに、ただちに報告しな。」

「杉ちゃんごめん。最近、というかかなり前からあったんですが。」

水穂は、咳き込みながら苦しそうにいった。

「薬飲むと、浮遊しているというよりか、ブラックホールに突っ込まれるような感覚になるんです。幸い五分くらいで眠れるんですけど、、、。」

「ブラックホールですって!」

「はい、竜巻にのって、ブラックホールに吸い込まれていくような。」

「ええーっ!いつからですか?」

質問しても、時すでに遅し。咳き込んで返答どころではなかった。

「気づくの遅すぎだ!どうだ、これでわかっただろ。こんな危ない薬、使わせる訳にはいかん!」

「杉ちゃんごめん。もうちょっとはやく言ってくれればよかったのに。俺は、どうしたらいいんだろう。確かに、それは問題だ。でも、そうなったら、敵にも勝てないし武器も使えない。文字通り、手も足も出ないじゃないですか!」

ブッチャーは、涙を流して男泣きに泣いた。


と、そのとき。

「大丈夫ですか?」

と、聞きなれない若い男性の声がした。

「誰だ、お前!」

と、杉三が警戒心を示したが、

「あれ、あの馬鹿医者と一緒に来た、従僕じゃないか。何しに来たんだ、こんなところへ。」

確かに、他の二人にも見覚えのある顔をしていた。

「あ、いや、すみません。ちょっと、ボールペンを落としてしまったみたいで、確認したくて入らせてもらいました。」

「けち。ボールペンごときで戻ってくるやつがあるか?それなら、新しいのを買えばいいじゃないか。」

杉三がからかい半分で応答したところ、

「いや、買ったばかりで、また新しいのを買うのもなんだかもったいなくて、嫌でしてね。あ、ここにありました。すみません。」

確かに、水穂の枕元近くに、新品のボールペンが一本落ちていた。彼は急いでそれを拾い上げた。と、同時に、水穂が、立て続けに咳き込んだ。

「大丈夫ですか。お辛いのなら、まず先に血液を出す方がよいですね。あの、申し訳ないですが、ビニールの風呂敷かなんかありませんかね。」

不意に、若い男性がそう言った。

「ビニールの風呂敷、あったっけ?おい、ブッチャー、ちょっと探してきてくれ。」

杉三が泣いているブッチャーのせをバシンとたたく。

「ビニール風呂敷はないですが、レジャーシートではだめですかね?」

はっとなったブッチャーは、急いでそうきいた。

「あ、それでもかまいませんよ。」

「わかりました。すぐ持ってきます!」

ブッチャーは、弾丸のように部屋を出て、例のレジャーシートをとってきた。

「ありがとうございます。じゃあ、すぐにここへ敷いていただきまして、彼をそこへ横向きに寝かせてくれませんか。」

「はい!」

杉三が急いで広げると、ブッチャーは、よいしょ、と水穂を持ち上げて、レジャーシートの上にのせた。

「じゃあですね。軽く背中を叩きますから、ちょっと苦しいかもしれませんけど、ゆっくり出してくださいね。」

と、彼は水穂の背中を三度叩いた。叩くと、咳込みながら、内容物が出てきた。

「はい、もう一回いきますよ。」

また、同じことが繰り返される。

「あれ、これは、俺がジョチさんに教えてもらったやり方と同じなのでは?」

思わずブッチャーが呟くと、

「だから、言っただろ。ブッチャーの叩きかたが強すぎたんだよ!」

杉三は、さらりと流した。

そのまま、五分ほど、同じことが繰り返し行われたのであるが、ブッチャーには、五分が一時間に感じられた。隣で杉三は、口笛を吹いているのには、よく平気でいられるなあ、と呆れたほどであった。

「はい、これで大丈夫ですよ。少し楽になったのではないでしょうか。先に出すものは出してから薬を飲んでいただいたほうが、早く効くと思います。」

ブッチャーは、手早く水穂の口の周りを拭いて、彼を持ち上げて布団に寝かせ、かけ布団をかけてやった。

「なんだよ。結局あの危ない薬、使うのかよ。」

「ちょっと、様子見させていただけないでしょうか。一度、どうなるか、見てみたいんです。」

と、若い男性が言ったため、ブッチャーは、すぐに吸い飲みを取って、水穂の口元にもっていった。

「馬鹿、見世物じゃないんだぞ。」

「見世物じゃないよ杉ちゃん。症状がどうなるか、見たいんだよ、先生は。ブッチャーさん、お願いできますか。」

「はい!」

ブッチャーが吸い飲みを水穂の口に入れると、水穂は中身を飲み込んだ。ブッチャーが吸い飲みを水穂から離したその直後、急に苦しそうに唸りだし、別の意味で悲惨と言えるような気がする。

「ほらみろ。ひどいもんだろう。あまりにもかわいそうじゃないか。」

「ああ、確かにそうですが、俺の姉ちゃんの時はよくありました。よく、大暴れしてどうしようもないときに、こういう薬を出してもらったんですけどね。確かにこうなることにはこうなりますが、姉ちゃんが病気で暴れるときに出す声ほど、気持ちわるくはありませんから、俺は、慣れてしまいました。」

「バーカ。だから、お前の姉ちゃんと一緒にするな。精神疾患とほかのもんは、全然違うんだ!それはもう、頭から捨てろ!」

二人が言い争っている間に、薬は効いたようで、唸りは取れて、水穂は静かに眠りだしたのだった。

「本当にブラックホールが出たんかな、、、。」

「全容はつかめましたよ。確かに精神疾患を持っている方には、さほど苦痛ではないのかもしれませんが、一般的な方から見ると、あまりにも不憫なので、この薬の使用をやめてもらえないかという声が続出しています。確かに強力な睡眠作用をもたらしますので、本人はよく使いたがるのですが、周りから見るとつらいという薬剤はよくあるんですよね。たぶん、彼もそうなんでしょう。」

あの、若い男性がそう解説してくれた。

「と、いうことは、危ない薬なんだろうか。」

「ええ、睡眠剤自体はさほど危険性はないとされていますが、確かにこの現場を見たら、危ないと解釈されても仕方ありません。そういう薬剤です。」

「ほら、だから、俺の姉ちゃんだって普通に使っていたんだよ、杉ちゃん。オーバーなのは、そっちだよ。」

ブッチャーは、額の汗を拭いた。

「しかし、この病気の方は、連日のように激しい咳と喀血に悩まされることになりますので、こういう風に、強力な睡眠剤に頼らざるを得ないという、現状がよくわかりました。ひどい時には、計量カップ一杯くらいの血を出すことも多いので。」

「そんなことはわかってらあ。畳だっていくら張り替えても、すぐ戻されるし、ピアノの鍵盤も真っ赤に染められて、ひどいもんだったこともあるぞ。」

「そうですね。太い気管支が破壊されると、大量の血液が一緒に出ることになりますからね。これはですね、自身の免疫が暴走して、正常な気管支までも破壊してしまうことにより、引き起こされる病気なのですが、自己免疫性疾患の一種ですので、いくら治療をしてもすぐ戻され、難治性の病気として特定疾患にも入っております。現代でこそ、致死率は低下しましたが、昔は非常に予後も悪いとして、よく泣かれるご家族も少なくありませんでしたね。」

「てことは、知っているんかい!少なくとも労咳ではないぞ。そこははっきりさせろ。」

「わかってますよ。戦前ではないんですから、それは外さなければなりませんね。少なくとも症状がそっくりなのは確かですが、片方はもう、難治性ではないと当の昔に片付けられているわけですから、今あるほうを見なければなりません。過去にこだわりすぎは、やっぱりいけませんよ。」

「それなら、水穂さん、何とかなるということでしょうか!何とかする方法もあるのでしょうか!」

ブッチャーは、うれし泣きしながら、この男性に縋り付いた。

「はい、まず第一に、免疫の病気であるわけですから、咳止めも止血剤も、一時しのぎの対処療法的なものに過ぎないということが言えます。ですから、免疫の暴走を食い止めるほうが、先だと思います。なので、できることといえば、免疫抑制剤の大量投与を施し、気管支の破壊を止めること。ただし、免疫抑制剤は、強力なので正常な免疫まで制御してしまいますから、簡単な感染症にもかかってしまい、重症化するというリスクはあります。そうなると、日常生活の環境では、危険すぎますので、一度彼を病院に連れてきていただいて、隔離病棟に入って生活してもらうことになります。」

「ああ、それはやめてくれ。まさしくサナトリウムじゃん。それに、母ちゃんに聞いたことあるが、いくら隔離しても、見舞いに来た誰かが持ってきた細菌のせいで、コロッと逝っちゃうことがよくあったそうじゃないか。そんな危ないところ、連れていくなんて、まっぴらごめんだよ。」

「杉ちゃん、先生の話をさえぎらないで、最後まで聞きなよ。先生、ほかになにかありませんか!」

「そうですね。これは強硬手段になると思いますが、免疫細胞というものは血液中にあるわけですから、それを生産している骨髄を入れ替えて、まったく違う血液に変えるということ、詰まるところの骨髄移植ですね。白血病の治療に用いられるので有名ですが、こういう自己免疫性疾患の患者さんにも適用されることもあります。ただ、その場合、提供者、つまりドナーが必要になるわけです。基本的に一番信頼のおけるご家族にドナーになってもらう、というケースが多いんですけど、家族以外の人でも、別に問題ありません。ただ、条件として、というか、これもよく知られていますけど、血液型が同じでなければ、骨髄移植はできません。えーと確か、彼の血液型は、曾我さんの話によりますと、AB型だそうですね。誰か皆さんの身近に、同じAB型の人はいませんかね?」

と、男性は杉三たちに聞いた。

「あ、ダメだ。俺はA型ですし、蘭さんはB型ですし、青柳先生もA型ですし、恵子さんに至っては、O型だ。杉ちゃん、君は何型なんだっけ?」

「知らないよ。血液型なんて。僕の母ちゃんなら知っていると思うけどさ、血液型でどうのこうのと言われるのが嫌で、僕、聞いてないんだ。A型の人は気難しいとかそういうが、どうせそんなの、迷信だからさ。」

「迷信って、杉ちゃん、自分の血液型くらい知っておけよ。まあ、とにかく、AB型の人はなかなかいないわけですか、、、。そうなると、どっちもできないということになっちゃいますねえ。あーあ、これではだめかあ。手段があっても何もできないじゃないかあ。」

ブッチャーは、大きなため息をついて、がっかりと落ち込んだ。

「そうですか。じゃあ、お願いなんですけど、もしもの時のために、AB型の人物を確保していただけないでしょうか。もしかしたら、重篤に陥った場合、これをすれば何とかなるかもしれませんよ。備えあれば憂いなしとも言いますし、もしもの時のためにです。」

「わかりました。俺、できるだけ早く探しに行ってきます!」

ブッチャーはやる気満々のようだったが、杉三は冷ややかな顔をして、それを見た。

「まあ確かに、必要なのかもしれないけどさあ。どうも最近の医療ってさ、肝心なところを落としているようで、好きになれないのよ。隔離病棟とか、骨髄移植とか、便利なのかもしれないけど、危険も大きいわけだから、なんか意味がないっていうか。どうもいやなんだよね。今飲ませた睡眠剤だって、症状は取れたとしても、ブラックホールに落ちるのは、やっぱり怖いと思うよ。」

「そうかもしれないですけど、今の医療は、なるべく苦痛を与えないように、慎重にやるように、できているんですよ。だから、安心してくれませんか。」

若い医者が杉三にそう言った。ブッチャーも、ぜひお願いしたいとその顔を見た。

「まあ、結論から言えば、水穂さんの場合、労咳よりもはるかに難しいってことだなあ。」

杉三が、結論付けたようにいったのと、庭の鹿威しがカーンとなったのとほぼ同時だった。

三人が会議をしている間にも、水穂が静かに眠り続けているのが、なんとも言えない哀れさであった。

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