第三章
第三章
「ごめんください。」
恵子さんが、いつも通り、利用者の夕食を作っていると、声がした。
「どなたですか?」
今日はブッチャーも来ていなかったし、懍は、東京大学へ出かけてしまったばかりで、不在であった。なので、恵子さんが応答する役目であった。
恵子さんは、食事つくりの作業を中断して、玄関先にいった。
「曾我です。」
玄関の戸を開けると、ジョチが立っていて、軽く敬礼した。
「あ、どうも。お久しぶりです。でも、どうしてわざわざ。毎日お忙しいのではないですか?」
「確かに、暇人ではありません。それははっきりしています。今回は、どうしてもお会いしたい人がおりまして、やってきました。」
たぶん誰のことなのか、恵子さんにはすぐにわかった。と、同時にありがたくてどうしようもない気がした。
「本当に、ありがとうございます。もう、私には、何にもできないですから、曾我さんのような方でないと、もうどうにもなりませんわ。」
「ああ、わかりました。ある程度こちらで予測してはいましたが、進行はどれくらいなのでしょう?」
ジョチは、草履を脱ぎながら、恵子さんの様子を観察した。女性というか、恵子さんならではなのかもしれないが、感情を頭にしまい込んで、何かするのは結構難しいところである。
「ええ、よくわからないんですけど、先週まではよかったんです。これは本当なんですよ。ブッチャーも、青柳先生も一緒にいて、来週みんなで花鳥園に行こうなんて計画していたんですからね。」
「評判の、富士花鳥園のことですね。」
廊下を歩きながら、恵子さんはそう語りだした。ジョチは、相槌を打ちながら、それを聞いていた。
「そうなんです。ところが当日の朝になって、急にせき込みはじめましてね、あたしたちが気が付いた時は、もうあれよあれよと、」
「ああ、分かりました。つまりまた畳の張替えが必要になったわけですか。」
「よくわかってくれますね。いうのもつらいし、助かりますわ。でも、それ以降、まったくよくなる気配がなくて、それどころか、ますます弱っていくようです。」
「そうですか。確かに、付き添っている方にはお辛いと思いますが、そういうことは、病気の人にとってはあり得ないことではありません。とにかく、本人にお会いできませんかね。」
「あ、すみません、私、ついぺらぺら。」
「余分なことは結構ですから、早く。」
「はい。」
恵子さんは急いで、四畳半のふすまを開けた。
「ありがとうございます。ここからは、ちょうど夕食時ですし、お仕事に戻っていただいて結構ですよ。」
「はい。じゃあ、お言葉に甘えて。」
恵子さんは、軽く一礼して、台所へ戻っていった。
「こんにちは。」
部屋に入ると、畳の張替えがまだ済んでいないらしく、ところどころに血痕がついていた。一応、拭いてくれてあったけど、まだ取り切れないのだろう。
「今回は、相当ひどくやったようですね。ブッチャーさんから聞きましたよ。まあ確かにそうなることは、本当に仕方ないことかもしれませんが、それのせいで、あなた自身が落ち込むようなことはしてはなりませんからね。」
ジョチは、血痕のことは気にせず、畳の上にすわった。
「すみません。座布団、持ってきたほうが。」
水穂は、何とかして座ろうと試みたが、成功しなかった。座ろうと思っても、痛いせいで座れないのである。
「結構ですよ。無理なものは無理ですから、横になっていてください。」
ジョチは、彼の肩をつかんで、静かに横にならせてやり、改めてかけ布団をかけなおしてやった。
「しかし、寝にくいでしょう、これでは。こんなアニメのキャラクターの布団なんて。本来は、クリーニングに出したのだそうですが、いつなったら終わるんですかね。遅すぎますね。」
確かに正絹をクリーニングすることは、非常に時間がかかることは知られている。確かにそれはそうなのだが、おそらく、知らないうちに、血液でもついていて、それを取るのに手間取っているんだなと、推量できた。
「もし、あまりに遅かったら、催促してもいいんじゃありませんか。いつまでも、子供用の布団で無理やり寝かされるのでは、よく休めないでしょう。うちで提携している布団屋で、持ってこさせましょうか?」
「そ、そうですが、、、。」
少し怖くなって、水穂はそういった。
「あんまり、感情が高ぶると、良くないですよ。静かに横になっていないと、ダメなのではありませんか?」
「すみません。申し訳ないです。」
水穂は、緊張したまま、とりあえずそういったものの、結構な冷や汗をかいていた。
「いいえ、謝るのはこっちですよ。あの時は、あなたに、ずいぶん怖い思いさせてしまいまして、本当に申し訳なかったです。」
まさか謝られるとは、思わなかったので、さらに驚いてしまうのであるが、痛みが邪魔をして、反応できなかった。ブッチャーが、毎日背部叩打法を実践してくれていたら、多少改善することはできたのではないかと思われるが、ブッチャーは怖くなって実践できなかったので、結局放置したままだったのである。
「今回は本当にすみませんでした。蘭さんと僕が、ああしていたとき、一番つらかったのは、あなたではないでしょうか。よく、あるじゃないですか。ちょっと大げさかもしれないですけど、二つの民族が戦闘をしている間に、関係のない民族が大きな被害をこうむるというのと同じことでしょ。」
確かに、ルワンダ内戦の時もそうだったが、フトゥ族とツチ族が戦争をしていた時に、偶然同じ土地に住んでいたトワ族は、彼らの抗争には無関係だったにも関わらず、戦闘に巻き込まれて、多数虐殺されたといわれる。そうなれば、単なるいい迷惑しか言いようがない。
水穂は返答を返したかったが、出るものは言葉ではなく咳であった。
「仕方ありませんね。口で謝っても、信用してもらえないのは、わかっていましたけど、ここまで衰弱してしまっては、受け入れるのも難しいでしょう。とりあえず、今日は帰りますが、また訪問しますので、ゆっくりお休みください。」
せき込んだままだったので、返答できなかった。
「薬、飲みますか。なんだか、おつらそうですから。」
枕もとにあった吸い飲みを取って、そっと口元に近づけた。水穂はこわごわではあるが、中身を飲み込んだ。飲み込むと、急に苦しそうに唸る。
「心配になって見に来たけど、大丈夫?」
恵子さんが、四畳半に来てくれたが、ちょうど唸りだしたときと重なったため、思わず驚いてしまう。
「仕方ありませんね。我慢してください。数分で眠れると思いますので。」
「ど、どういうこと、、、?」
「たぶんですね、これ、睡眠剤のせいだと思います。あんまりにも強力すぎて、眠るまでに苦痛になると思うんです。通常の睡眠剤であれば、眠る前に快楽というか、なんともここちよいらしいのですが、こういう風に強力なものは、衝撃が大きすぎるんでしょう。しかたありません。それを使わないと、症状を緩和できないんでしょうね。」
「睡眠剤って、、、。あ、そういえばブッチャーが、そういってました。お姉さんがどうしても眠れないからって、睡眠剤を出してもらったらしいんですけどね。眠る前に、ものすごく苦しくなって、かえって大変そうだから、こんな薬はすぐやめろって、お父さんが進言したようです。でも、本人は、よく眠れるから、そのままにしてくれって言って、聞かなかったんですよ。」
「そうですね。強力ではありますが、そういうものほど、副作用も大きいのではないでしょうか。抗がん剤なんかもそうでしょう。ほら、よく髪の毛が抜けて困るとか、いうじゃありませんか。」
「だけど、こんな危ない薬、平気で使っていいものなんでしょうか。」
「そうですね。まあ、あんまり副作用について、解説はもらわないでしょうからね。誰でもそうですけど、症状が治ることばっかり気にしてしまいますから。いざ副作用が出現して、大騒ぎということは、本当によくあるんですよ。」
「仕方ありませんっていっても、かわいそうですよ。ブッチャーのお姉さんが、地獄の窯へ落とされるように苦しいけど、少ししたら天国が待っているというから、使わせてくれと言っていたそうだけど。ほら、水穂ちゃんの場合、ただでさえ、胸の痛みがあるわけだし。それって、ナイフで刺されるのと同じくらい痛いってあの時のレポートに書いてあったでしょ。それに、薬の副作用なんて、ひどいもんじゃないの。」
「まあ確かに、そうだと思いますよ。たぶん、想像以上に苦しいでしょう。でも、もう大丈夫だと思います。」
恵子さんが、後ろを振り向くと、唸りは止んで、水穂は静かに眠っていた。
「この先、ずっとこうなるんでしょうか。」
「仕方ありませんね。僕もそうだったんですけど、鼻水が止まるのには、こうしなければいかないから、我慢しなさいって、母にもよく叱られてました。確かに、鼻水は止まります。それは間違いないんですけど、別の部位が痛み出すなどして、どうしようもなかったです。だけど、止めなくちゃいけませんから、薬は飲まなきゃいないってわかったのは、中学生くらいからで、それ以前はもう、ビービービービー泣きはらしていました。幸い、水穂さんは、それに対して反抗することはないので、まあ従順な患者だとは思います。ですけど、従順といいますのは、心が不健全ということでもありますからねえ、、、。」
「そうですねえ。確かに、嫌がってビービー泣くほうが、健全なのかもしれないわ。あたしからみたら、こんな危ない薬を素直に飲んでくれるなんて、相当悪いんだと思わざるを得ないわね。」
「そうですよ。ブッチャーさんのお姉さんだって、精神状態が悪いからそういう危険な薬に対して、親近感がわいてしまうんでしょう。」
「何とかならないもんかしら。これじゃあ、あまりにもかわいそうじゃありませんか。」
「そうですねえ。僕も、代理の薬ってあるのか、医者ではないのでまったく知りませんよ。」
「そうよねえ、、、。」
恵子さんもジョチも悔しそうな顔をした。二人は、お互いため息をついたが、
「わかりました。何とかしましょう。じゃあ、しばらく時間をください。本当に何とかしますので。」
ジョチは、英断するようにそういった。彼にしてみれば、水穂に、悪いことをしてしまったので、償いをしたいと思ったのである。
「すみません、お願いします。もうあたしたちは、頼れる人といえば、曾我さんだけです。」
いかにも女性らしいセリフだあなと思いながら、
「じゃあ、彼が目を覚ましたら、出してやってください。何も食べないと、悪くなる一方です。あと、これ、すぐに役に立つかどうかわかりませんけど、もし、何か困ったことがありましたら、ここに電話してみるとよろしいのではないかと思います。」
と言って、ジョチは、カバンの中から追分羊羹の箱をひと箱、そして、一枚の茶封筒を出した。
「なんでしょう。」
「はい。最近買収した企業です。小規模ではありますが、これから先、必要な企業になると思います。この後、打ち合わせに行かなければならないので、ここで説明する時間がないものですから、せめてパンフレットだけでもと思いまして、持ってきました。」
「そうですか。本当に何でも買収してしまうんですねえ。」
「まあ、そうなんですけどね、本当に役に立ちそうな企業でなければ、買収はしませんよ。では、失礼します。」
「今日は、本当にありがとうございました。」
座礼をする恵子さんと、それに対して全く無反応で眠り続ける水穂に無情を感じながら、ジョチは製鉄所を出て行った。
小園さんの運転する黒いセダンに乗り込むと、すぐにスマートフォンを取り出し、
「あ、すみません。以前耳鼻科でお世話になったことがあります、曾我と申します。大変失礼ではございますけれども、院長の赤城先生をちょっとお願いできませんでしょうか。」
と、電話をかけ始めた。それを聞いた小園さんは、理事長がまた悪徳病院でも見つけたのかと思って、ちょっとびっくりした。
三日後。
「杉ちゃん、頼むから失礼な発言はしないでくれよ。あんな偉い先生が、こっちまで来てくれたこと自体が奇跡だからね。」
製鉄所に向かうタクシーの中で、ブッチャーは、杉三に注意したが、
「何を言う、医者なんてみんな馬鹿だよ。特に、院長なんて本当に馬鹿だ。そして、自分が馬鹿なのに気が付かない、究極の馬鹿!」
と、杉三は返答した。
「そんなこと言っちゃだめだよ。まあ確かに、病状を把握するため、証人は多いほうがいいって、ジョチさんが言ってくれたけどさ、本来、俺たちは、偉い先生の診察には立ち会えない身分なんだからね!」
「身分なんて関係ないの。水穂さん本人は、おそらく咳のせいで何も言えないだろ。だから証人は多いほうがいい。」
「あーあ。」
ブッチャーは、本当に通じないなとがっくりして、大きなため息をついた。同時に、いつもこれに付き合わされる蘭は、本当に苦労しているだろうなと思った。
二人が製鉄所に到着して、患者である水穂といつも通りに世間話をしていると、玄関先に、聞いたことのない音のする、高級車がやってきたことが分かった。そして、恵子さんが、来訪してきた、ジョチや一緒にやってきた「高貴な身分の人」に対して、丁寧すぎるあいさつをしているのも聞こえてくる。
「すみません。本当は、青柳先生も立ち合いたいと言っていましたが、どうしても前々から決まっている、講座がありまして、、、。」
「いえいえ、教育者として、名を知られている方ですし、数多くの著作が出回っているほどですから、仕方ないでしょう。いろんな大学から、呼び出しが来ていて、青柳教授もやりがいがあるでしょうな。」
「へん!偉そうなやつだ。目をつけるところが違いすぎる。ま、これじゃあ、はじめっからあまり期待できないぞ。」
威圧的な口調で恵子さんと一緒にしゃべっている人物の声を聞きながら、杉三がそういうと、ブッチャーが、静かにと言ってそれを止めた。一方の水穂本人は咳で返答するしかないのが、なんとも哀れだった。やがて鴬張りの廊下がなって、高貴な身分の一行が、四畳半に入ってきた。
一行には、堂々とした老院長と、彼の側近と思われる若い男性がいた。どこか顔つきに似ているところがあったため、たぶん父子だろうなとわかった。
「初めまして。この度、曾我さんのご依頼でこちらに参りました、医療法人財団らくだ会の、」
老院長が自己紹介を開始すると、
「うるさい、そんなことはどうでもいい。早くこの人を、何とかしてあげてよ!」
杉三がでかい声でそういったため、老院長は、癪に障ったらしく、顔をしかめた。しかし、偉い人らしく、すぐに真顔に戻って、
「わかりました。では、しばらく黙っていてくれますかな。」
と言って、側近の男性に水穂を無理やり座らせて、聴診したり、体の一部を打ってみたりして、
「はい、どうぞ、横になってくれて結構ですよ。」
と、言った。水穂は、倒れるように横になった。この間に、本人にも周りの人にも、一切証言を取らせることはなかった。
「なんだ、それで終わりかい?」
杉三が疑い深そうに聞くと、ブッチャーが、院長さんなんだから、そのくらいでわかるんだよと訂正した。
「で、どうなんでしょうか。」
恵子さんが聞くと、
「はい、これ以上何かしても、たぶん快方には向かわないと思いますので、このまま暖かく最期をというのがよろしいのではないかと思うんですね。まあ、そうですね、あとは症状を和らげるというか、なるべく体への負担を少なくというか、そういうことに力を入れるべきでしょう。強い薬剤を使うと、出血は止まりますが、ここまで衰弱が進んでおりますと、体も対応しきれないでしょうからね。うーん、そうなりますと、、、。」
と、何か考えながら老院長はそう言った。ブッチャーは、予想していた通りの結果だなあと思ったが、でも、涙をこらえることができなかった。しばらく重々しい空気が流れたが、
「馬鹿野郎!どこまでやる気なかったら気が済むんだよ!こないだの馬鹿医者もそうだったが、なんで偉い人ってのは馬鹿になるんかな。ただ、高名な人だから、うまくいう技術だけは身についているようだな。だけどなあ、裏は取れてるぞ。どうせ、江戸時代からタイムスリップとか言うんだろ。それをそういうかっこいい言い方して、ごまかしてもそうはいかないぞ。あんたらは、誰のせいでやらしてもらってるのか、もう一回考え直して出直して来いよ!」
と、それを切り裂くように杉三が怒鳴りだした。
「杉ちゃんよせ!本当にそうなんだから!言いようがないんだよ。だから、こういう言い方をしてくれているんじゃないか!」
ブッチャーも思わず怒鳴り返す。
「失礼ですけど、曾我さん、いったいどういう意図でここへ依頼したのですかな?」
「僕は何もありません。ただ、この男性を哀れに思って、お願いしただけのことです。」
ジョチは、特に動じずに、そう答えを出したが、
「そうですか。ここは曾我さんが理想としている国家と、また近い企業ですかな?」
と言われて、ある意味頭に来てしまう。
「そんなことありません。別に企業ではありませんし、ただ、人脈で知り合っただけのことです。」
「しかし、ここまで進行した患者というのは、日本ですと、戦前でなければありえない話ではありませんかな?」
また決まり文句をいいだす老院長に、
「ほーら見ろ!だから偉い奴というのは話にならないんだ。信用なんかできるもんか。もう、水穂さんも、ブッチャーもみんなひどい目にあったから、とっとと帰れ!」
と、杉三が怒鳴りつけた。
「まったく、海外の、後発開発途上国に行ったような気分ですな。言われなくてもそうさせていただきますよ。」
「先生、本当にすみません、あたしが代わりに謝りますから、今回は許していただけませんか。杉ちゃん、いや、この人はどうしても、思っていることを口に出してしまう性格というか、障害なんです。古い言葉で虚といいますが、それにあたるかもしれない。二度とこんな発言しないように言い聞かせますから、これからも来てください!お願いします!」
「俺からもお願いします!」
恵子さんとブッチャーが、相次いで床にひれ伏してそう懇願した。ブッチャーが杉ちゃんお前もやれ、と促したが、杉三はこれを振り払い、
「うるさい。どうせ偉い奴に頼ってもろくな目に会わないさ!単なる無駄なだけだから、僕はごめんなさいなんて言わないぞ!」
と、さらにでかい声でそういった。
隣にいた、側近の男性が、何か気が付いたように顔を上げた。再びせき込みだした水穂の背をそっとさすってくれた。
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