第二章
第二章
「いいですか。この白いレジャーシートの上に、横向きに寝てください。楽な姿勢で結構ですからね。」
ブッチャーは、しっかりとした口調で水穂に言った。
「はい。」
何も言わず、水穂は素直に横になってくれたので、まず安心する。ここで何をするとか詰問されたら、返答に困ってしまう。
「はい。いいですか。そうしたらですね、この肩甲骨の間を、今から俺が三回たたきますので、もし、吐きそうになりましたら遠慮なく吐いてくれて結構です。これはですね、胸にたまった血液を出す作業ですから、もし出るのならしめたもの。いいですね。」
「はい。」
水穂は力なく頷いた。
「それではですね、ちょっと痛いかもしれないけど、我慢してくださいね。いいですか、行きますよ。いち、にい、さん!」
ブッチャーは、彼の骨っぽい肩甲骨の間を三度平手打ちした。ほとんど筋肉はなく、骨と皮であったことばかりではなく、背中全体が、冷たいのにぎょっとした。
これでとりあえず第一回目は終了したのであるが、これがどのような効果をもたらすか、予想していなかった。しかし、これが終了した直後、水穂は呻きながら激しくせき込みだす。まあ確かに、ジョチがくれたマニュアルに、多少嘔吐することもあるが、それが同時に喀血を促進するので、それは恐れることはない、と記述されていたため、そこは気にしていなかったものの、このせき込み方は激しく、あまりに悲惨すぎるものであった。とうとう、予想していた内容物が姿を現したが、白いレジャーシートの上に吐き出されて、その色のギャップが恐ろしく、これではしめたものどころか、かわいそうすぎるというものである。取り合えず、咳は数分で止まったが、ブッチャーはもう第二回目を行う気にはなれなかった。
「水穂さん。申し訳ありません。俺、酷いことをしました。もう、これは二度とやりません。こうなるの、俺、予想してなかったんです。本当にごめんなさい!」
ブッチャーは泣きながら、水穂を持ち上げてそっと布団に寝かせてやった。なぜ用意するものが白いレジャーシートと書かれていたのか、理解はできなかったのであるが、逆に色がついていなかったら、もうちょっと吐瀉物の色が、派手に見えなかったかもしれない。
「すみません。俺がもうちょっと、知識があったら、よかったんですけど。こんなに派手に出すとは、思わなかったんです。本当にごめんなさい!」
「須藤さん、何をやっているんですか。」
丁度その時、懍が四畳半にやってきた。
「いや、俺、昨日ジョチさんが教えてくれたんですけど、試してみたら、こんなひどい結果になるとは思わなくて、、、。」
「そうですか。わかりました。須藤さんが試みた方法は間違っておりませんよ。痰取り器の普及していない時代は、こういう方法が一般的でした。現代でも介護現場では、たまにあるらしいですね。少なくとも、五分ほど叩く行為を繰り返す必要があるのですが、もうすでに最終回まで終了したのですか?」
これを聞き、ブッチャーは、また同じことをさせるのはあまりにも残酷だと思い、
「はい、しました!」
と、嘘をついた。同時に、嘘が嫌いな自信を許せなかった。
「わかりました。とりあえず、彼の顔に着いたものはすべてふき取ってください。そして、このレジャーシートについたものの、色と混合物を記録しておく必要があります。これを定期的に行うと、出したものから病状の様子が把握できますので、痰取り器に頼るよりも、便利かもしれませんね。」
懍は冷静に指示を出した。ブッチャーはそのとおりにした。まず、水穂さんの顔を濡れタオルで丁寧に拭く。少しばかりせき込むが、これ以上内容物は出すことはなかったので、ブッチャーはある意味ほっとした。その間に懍はレジャーシートに付着したものを観察した。
でも、水穂さんにとっては、痰取り器に頼ったほうが負担は少ないのではないかと思われるほど凄惨であった。
「しかしなんでまたそんなに涙を流しているのです?これは別に大したことではありませんよ。僕が、若かったころは一般的に病院で行われておりましたよ。今でこそ、痰取り器が普及していますので、一般的には行われていませんが、高齢の医者であれば、知っていると思います。それを曾我さんが、伝授してくれたというわけですか。」
懍が、ブッチャーの顔をみてそういったため、思わず、嘘がばれてしまったのではないかと、ぎょっとする。思わず水穂を見ると、弱弱しい雰囲気であるが、そっと笑ってくれた。
ブッチャーは改めて、彼に感謝する。
「あ、すみません。俺、初めてやったんで、、、。」
「須藤さん。今回は初めてですからお許ししますけれども、これからこの方法を続けていけば、必ずそうなるわけですから、そんな涙を流していたら、実現できませんよ。」
ええ!と思った。この凄惨な状況をもう一回続けるというのか。
「これはですね、できれば毎日続けたほうがいいんですよ。痰取り器があれば頻繁にしなくてもいいんですけど、どうしても、人手では機械程、能力はありませんので。」
毎日、、、。俺はなんていうひどいことを実現してしまったんだろう。なんだか、パンドラの箱を開いてしまったのかもしれないと考えてしまう。
「須藤さん、いいじゃありませんか。どっちにしろいずれは、僕らも病院か介護用品の店などから痰取り器を借りてくる必要が出てきますから。その前にこの方法を教えていただいたのなら、須藤さんが、しばらくこれを担当していただければいいでしょうね。」
先生、先生の人選は、本当に残酷なのです、、、。ブッチャーは顔の下で泣いた。
「教授。今はまだ、医療器具に頼る必要もないと思います。そこまで悪化したわけではないのですから。こんな荒療治しなくても、まだ、何とかなりますので。」
弱弱しい口調で水穂がそういった。と、いうことはたぶん、青柳先生は、痰取り器を用意させろというつもりだったに違いない。それもたぶん、水穂は辛いのだろう。
水穂さん、本当に今日は申し訳ありません。ブッチャーはまた辛い気持ちになった。
「そうですか。じゃあ、まだいいということですね。それでは、とりあえず、今回はこれでよかったことにしておきましょうかね。須藤さん、申し訳ないですが、このレジャーシート、よく洗浄して、しまっておいてください。宜しくお願いします。」
「はい、わかりました!やっておきます!」
「じゃあ、僕は書類の製作に戻りますが、くれぐれも本人を傷つけたり、畳を汚すようなことはしてはなりませんよ。」
と言って、懍は、いつも通りの冷静な顔で、部屋を出て行った。本当に先生は慣れているなあと思って、ブッチャーはポカンとした目で見つめた。完全に姿が見えなくなったところで、急いで我に返り、慌ててレジャーシートの始末を開始する。
「すみません、俺、本当にひどいことしてしまいまして。」
「いえ、大丈夫ですよ。少なくとも、僕のことを考えてくれたんでしょうし。気にしないでください。」
「でも、苦しかったでしょ?」
「まあ確かにそうでないと言ったら、嘘になりますが、僕が楽になるためですから、仕方ありません。」
「まあ、そうですが、俺がジョチさんに教わった時は、嘔吐するのを怖がってお年寄りや子供は嫌がるそうなので、そこを説得するのが肝要だと言っていました。だから、やっぱり嫌な思いをしたのではないでしょうか!」
「そうですけど、病気の治療なんてそんなもんでしょう。嫌な思いをしない治療なんて、ほとんどありませんよ。」
水穂さんが、綺麗な人で、優しい人でなかったら、俺は今頃、ここで働かせてもらうなんてできなかっただろうなと思いながら、ブッチャーはレジャーシートに着いた血液をタオルで拭きとった。
「すみません、俺は本当にダメな男で。」
「そんなことありませんけどね。」
これ以上謝罪をしても申し訳ないと思ったブッチャーは、水穂さんにかけ布団をかけてやった。水穂はふっとため息をついた。
レジャーシートの始末も終わって、ブッチャーは家に帰ることになったが、まっすぐ家に帰る気にはなれず、誰かにこれを聞いてもらいたい気持ちでいっぱいになる。
そこで、まっすぐ家には帰らず、ある場所へ向かうことにした。愚痴を聞いてもらうには、素晴らしい人材であることを知っていた。
「もう、泣くな。一回失敗したくらいで何を泣いてるんだ。そういうことは、あるんだよ。素人なんだから、しょうがないの。落ち込まないで、焼き肉屋に来たんだから、思いっきり食べろ!」
杉三が、ブッチャーの肩をポンとたたいたが、ブッチャーは涙を流して泣き続けるのであった。それに向かい合ってジョチが腕組みをして座席に座り、何か考えていた。ブッチャーがあんまり泣くので、杉三が焼き肉屋ジンギスカアンに連れてきたのである。二人は、個室席に通されて、とりあえず杉三の指示で、焼肉定食を注文したのであるが、それがテーブルに置かれても、食べる気にはまるでならず、ブッチャーは泣くばかりだった。
「だけど俺、あれだけひどいことして、水穂さんがこれ以上悪くなったら、俺の責任じゃないですか!」
「だから、しょうがないの!文章だけで他に何もなかったんでしょう。イラストがあるとか、模範映像があるとかすれば、覚えられたかもしれないけどさ!」
「だって、俺、書いてあった通りにたたいたんですよ!だけど、あんなに苦しそうな顔して、もう予想もつきませんでした!」
「わかりました。もう、こうなったら僕がきちんと注意書きを書かなかったということになりますから、僕の責任ということになります。だから、落ち込まないでください!」
ジョチが、腕組みをほどいて、ため息をつきながら、そういった。
「注意書きって、何か注意点でもあったんかい?やってはいけないことがあったとか?」
杉三が、そう聞くが、
「いえ、僕も、ブッチャーさんの話を聞くと、汚点があったとは思えません。ちゃんと、ブッチャーさんは、指示通りにやっています。」
と、ジョチはそう答えた。
「だけど、ブッチャー、お前がさ、乱暴にたたきすぎただけなんじゃないの?お前、体が大きいんだからさ。ほら、若いときに、お前柔道やってたんだっけ?だから、力というか、思いが入りすぎて、思わず気合を入れ過ぎて、叩きすぎたんだよ!」
「そうだよ、杉ちゃん。まさしくその通りだ!俺、多分そうです。気合を入れ過ぎて、強く叩き過ぎました。だから、あんなに大量に血を出して、本当に苦しそうな顔したんですよ!俺、反省しなきゃ。いくら、介護人でもやり過ぎはだめだ、、、。」
「もう、体のでかいやつは、優しい人が多いというが、力が強いというのも忘れちゃいけないぞ。そういうときは、普通の人間よりも、力があると自覚して、もうちょっと、加減をすることだな。」
もう一度、杉三が、ブッチャーの肩を叩いた。
「杉ちゃん、わかったよ。俺、気を付ける。申し訳なかった、今回は。」
「もう泣くなよ。男は泣くなって、映画でもなんでも言っているじゃないか。」
「まあ確かに、ブッチャーさんは体の大きいことは認めますよ。それはそうですよね。ですが、本当にブッチャーさんのしたことは、間違ってはいませんよ。そのやり方で正解です。ちゃんと、白いレジャーシートだって用意できたんでしょう?あれは、彼の出したものの、色を確認するために、そうさせる必要があるんです。ほかの色であったら、まず確認できませんからね。」
ジョチは、二人の顔を見ながら、そう説明した。
「もう一度聞きますよ。彼が出したものは、本当に真っ赤であったのは確かなんですね。」
「はい、俺、はっきり見ました。レジャーシートが白かったんで、赤というより朱色の、まるで熔岩でも噴出したようでした!」
「あ、わかりました。そうなると、重症化したのは間違いないですが、極限には到達していなかったんでしょう。」
「どういうことだよ。」
杉三が、思わず口を挟んだ。
「はい、僕も知識としてしか知らないことですので、実物を見たわけではないのですが、吐瀉物が赤というか朱に近いものであれば、まだ安全なんです。これが、黄色とか、緑とか、そういうものになると、危ないと言われるんですよ。そこまでいかなかったんだから、まだよかったのではないですか。まあ確かに、白いとはっきり見えるから、びっくりされますよね。」
「あ、なるほど。それでレジャーシートを白くしろと言ったわけか。てっきりさ、僕たちアンパンマンのレジャーシートでも貸せばそれでいいと思ったんだが、どうしても白でなければダメってブッチャーがあんまり言うから、変だなと思ったんだよ。」
「ということはつまり、水穂さんも、カウントダウンに入ったというわけですか!ちょっと待ってくださいよ!あんまりじゃないですか!俺、まだ何の準備も!」
ブッチャーは、おもわずでかい声を出してしまった。
「まあ、そういうことだ。青柳教授だって、言っていたじゃないか。あきらめろって。だから、そういうことなんだよ。何の準備もなんて、今教えてもらったんだから、得をしたと思え!」
「杉ちゃん、よく平気でいられるな。得をしたなんて、それに、二人がよくそうやって淡々と話せるのか、俺は不思議でしょうがないよ!」
「経験不足なだけだよ。僕の母ちゃんだって、父ちゃんの最期は、あきらめるしかないって、お医者さんに言われたそうだよ。でも、あの時教えてもらえなかったら、もっと大きなダメージがきて、とても仕事なんかできなかったから、かえって良かったってよく言ってた。ま、それと同じだと思いな。結論から言えば、いい加減にあきらめることだ。人生なんてそんなもんだよ。人生、あきらめが肝心。」
「なんで、俺、姉ちゃんが自殺を図った時に味わった恐怖を、こんなに早く、もう一回味わうことになるとは、、、。あーあ、そうなると、俺の人生はろくなもんじゃないな。」
と言って、ブッチャーは、テーブルの上に突っ伏して、でかい声で泣いた。
「まあ、そういう素直な気持ちになれるというのが、若いということなんですよね。でも、決して、ろくなもんじゃないなんて、思ってはなりませんよ。そうなると、ご自身も辛いでしょうし、水穂さん本人も浮かばれなくなります。」
ジョチが一生懸命励ましても、ブッチャーは泣いたままだった。
「おい、兄ちゃん。あんまり泣かすとかわいそうだよ。もし、本当に気になるなら、兄ちゃんが自分で確かめてくれば?」
丁度、注文したジュースの瓶をもって、チャガタイが個室に入ってきた。
「そうですね。そうするのが理想的ですが、あいにく今、ほかの企業と買収の打ち合わせがありまして、なかなか製鉄所まで行けないんですよ。」
「それは俺も知ってるよ、兄ちゃん。一日くらい延長してもらえばそれでいいだろう。大丈夫だよ、そんなにスケジュールに拘らなくてもさ。それに、向こうの人たちだって、あんまり話を急がせると、いい結果にはならないんじゃないの?」
「本当にやさしいなあ。太った人は。ブッチャーも、チャガタイも。象にしろ、クジラにしろ、でかい動物はみんな優しいな。モビーディックなんて、あんなにでかくて凶暴なクジラ、本当にいたんだろうか。」
杉三がぼそっとつぶやく。
「そうですね。確かに、少し予定を早めれば、いけないこともないですかね。」
ジョチは、カバンを広げて、手帳を取り出し、スケジュールを確認してみた。スケジュールはほとんど埋まっている。
「兄ちゃん、ブッチャー君のために、顔出してやりな。いくら打ち合わせがあるからって、朝から晩まで打ち合わせをすることはないだろう?」
チャガタイが、いつまでも泣いているブッチャーを心配そうに見て、そういってくれた。
「ああ、わかりました。じゃあ、そうしましょう。訪問するときは、抜き打ちで行ったほうがいいですね。はじめにアポを取ると、本当の現状を把握できなくなりますからね。」
「うん。ごまかされたら大変だ。そのほうがいい。僕も心配だから一緒に行っていい?まあ、蘭には知らせないようにしておくよ。波布に手を出したとか言って、また怒るぞ。」
杉三がそう付け加えた。
「実は僕も、心配でしょうがないんだよ。相当弱っちゃったって、風の噂に聞いたんだ。本当にそうなのか、真偽は不明だけどさ。」
「もう、とにかく、来てやってください!でないと、水穂さんではなくて、俺のほうがぶっ壊れそうになります!」
ブッチャーがまだ泣きながらそういうのである。なんだか、涙がポロポロではなく、一本の線になって出ているように立て続けに流していた。
「わかりました。じゃあ、そちらに行けるようになったら、連絡しますから、しばしお待ちください。」
「はい!よかった、俺、今日こっちに来れて、やっと辛いのが軽くなれた気がしました。いくら、スマートフォンのメールで表現しても、この気持ちは晴れなかったと思います。本当にありがとうございます!」
又涙を流すブッチャーであった。
「バーカ。人間だもん、それでいいんだよ。スマートフォンが人間の代理になるかって、そんな話は絶対にないぞ!」
三度、杉三がブッチャーの肩を叩く。
「じゃあ、焼肉定食、食べて行って頂戴。もう、長時間放置すると、肉が固くなって、まずくなっちゃうぞ。せっかく注文したんだから、食べて行ってもらわなくちゃ。」
チャガタイは、やっぱり太った人間らしく、優しい顔をしてそういった。基本的に太った人は、目が小さいから、優しそうに見えるのだろうか。そういえば、マッコウクジラの目も、大頭に比例して小さいが、それはやっぱり優しい動物であることを示しているのだろう。
ちなみに、モビーディックは確かに架空のクジラであるが、本物のクジラというより、シャチに近いふるまいをしているとされている。
「わかりました!いただきます!」
ブッチャーは、皿の上の肉を取り、口にもっていって、ばくっと噛みついた。そして、思わず、
「うまい!」
と、泣きながら叫んでしまったのであった。
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