第4話 定年後の暮らし(63以降)

① 63~67高齢なり立て?


したがいまして、病院勤務を3年で辞めました。その後は県人事に頼み込んで

「近くの勤務」を紹介してもらいました。そこに5年勤めることになりました。

相談係担当でした。あんまり忙しいことはなく、中年には最適なところでした。

だれに命令・指示・監督されるわけではないので、ま・どちらかというと

「10年でも勤めたい」ようなところでした。しかも転勤があって一か所2年ほどで替わるなどして、満68の3月に辞職しました。ここの思い出はあまりありませんでした。

しかしながら、この5年間は「ゴルフに熱中」し高い買い物もしてしまいました。

いまとなっては、会員権も片づけてすっかりゴルフから足を洗いました。

② クラス会

 それと、田舎のクラス会は毎年のように出席していたんですよ。

定年時から毎年開催してます。

しかも、「川沿中学校 50周年記念クラス会」を2014年に周が音頭を取って上野駅近くの「森鴎外記念ホテル」でやりましたよ。

森鴎外さんってよく知りませんでしたが、頭がよくて軍医になって従軍したような方だったんですね。先週上野公園まで行って美術館を見て回りましたが、「公園の中に森鴎外の銅像」が立っていましたよ。

50周年記念クラス会には、「20人出席」となってよかったです。


ちなみに今年(2018)は釧路市内、昨年(2017)は旭川市内、一昨年(2016)は網走の呼人、その前(2015)は北見市内ホテルでしたよ。来年(2019)は故郷の常呂開催が決まっています。

そうそう2017年「旭川市内ホテル」の時も周が開催したんですよ。いまはどこにいても誰でもがどこのホテルでもお安く予約ができます。

周は2回担当したんですよ。横浜にいて…・

それから大雪の日だったの呼人(2016)のクラス会は、

函館・札幌経由で行ったんですよ。

まず函館は、青森出身の同級生が大磯に住んでいましたが、63の時こちらを売り払い函館市内の近くに引っ越したんですよ。

そこは北海道新幹線の最終駅の近くです。

周は函館をゆっくり回ったことがなかったので昼間はゆっくり回り夜間に高速バスで札幌に行く予定をたてました。

早朝函館空港に着きましたので同級生に携帯で連絡し、夜間深夜バスで札幌に行くのでそれまでに会いましょうと約束し、周は函館市内を観光することにしました。

折からの寒さで、雪がぱらつき始め、夕方には大雪になったんです。同級生に連絡し午後4時ころに迎えに来てもらいました。周は深夜バスの予定を繰り上げてもらい午後8時ころの出発にしました。

同級生宅におじゃましたところ、結構田舎に平屋建ての大きな住宅がたっていました。なんでも息子さんが北海道警に就職し現在は函館中央署に勤務しているということでした。跡取り息子が青森から北海道に行ったために北海道に渡ったと言っておりました。

いろいろごちそうになりリンゴなどのお土産までいただいて恐縮してます。

そんな時にも大雪で・吹雪いてバスが出るか心配しました。

同級生は一緒に県職員になって一緒に定年を迎えたんですが、

  在職中の40年間は全く話したことがありませんでした。

ただ一緒に入職した人の名前だけは存じていましたが・・・・・

定年になって3年たったとき周は、合同庁舎にて相談業務中に、同級生の方がO市の嘱託となっていたので周の勤めるところに来たんですよ。

そこで1年足らずのお付き合いをしただけなんですよ。

それが周はどこに行くにも必ずなにかドッキリするようなことをしないといけない男になっていたんです。それで網走に行く途中、函館で会うことにしたということです。

彼は彼で極めて驚いていましたよ。同じ部署や青森出身者だって電話一つ掛けてこないのに、周さんだけですよ、私を訪ねてこられるのは・・・・と言ってました。


短い時間でしたが、再会を喜び「あっと」いう間に時間が過ぎましたね。

大雪の中をバス乗り場まで送ってもらい、札幌へ出発しました。周はこのような大雪・吹雪の中、札幌まで行けるのかとえらく心配のしどうしでした。

高速道路のサービスエリアで休憩しながら行きましたが、サービスエリア内ではだいたい50cm以上積雪がありました。

外は結構寒くて寒くて札幌でどこに泊まろうかと、心配していましたね。バスは運転がうまい人で安心して乗っておりました。

乗客は乗ったときのまま3人だけです。忘れたけど運賃は1500位でした。4500いただいて高速代・燃料代など大変でしょうね。


③ 久しぶりの札幌

札幌には午前0時過ぎころ着しました。寒くて寒くて夜どうしょうかと泣きべそかきました。

降りたところは「すすきの」のど真ん中でした。吹雪いているし、まず地下に入り旅館かホテルを探しましたが、当時なにかの行事があったようでどこも満杯状態でした。そこで動きまわっていたら「寝床付きのサウナ」が目につき、電話すると大丈夫とのことで行ったんです。

すると、身分確認とかやたら細かしく聞かれ宿泊ができないようなことを言うのですよ。えらいことになったと、思いましたがさすがに周は2~3年前にもここに泊ったんではないかと話すと、あったんですよ、3年ほど前に泊った記録が・・

一件落着で-1000で泊まりました。


④同級生と再開(20年ぶり?)

さあ、翌朝は川沿中学校の同級生に連絡を取りました。なんでも本人も奥さんも「膠原病」とかで外泊などできないと言っていたのでせっかくだから会いに行ったのです。午前中から昼ころまでに、札幌駅に出てごちそうしたり、20年ぶりの再会だったので昼過ぎに自宅に行って奥様にもあってお別れしました。奥様は千葉出身で結婚したとき以来の再会でした。


なんでも娘さんは結婚したものの、3~4歳くらいの娘を預かり離婚したようでした。孫娘と同居してましたね。


⑤いざ北見へ。そして網走へ

札幌から高速バスに乗車、一目散に北見に向けて出発。

車内は満員に近かったです。

下車して兄弟宅を訪問、夕方はホテルにチエックイン。

翌朝晴れて網走市呼人へ。クラス会出席・・・

翌朝大雪の中を歩いて兄宅へ向かいました。

やっとタクシーがとおり乗車できました。同日は兄宅に泊まり翌日夕方女満別空港から羽田へ・・・・・

雪道をマイカーで兄に送ってもらいましたが、雪道には慣れているようでした。

横浜に帰ってきて「大雪の函館山のロープウエイ」の点検中に係員が機械に挟まったようで亡くなったという記事がありましたよ。危機管理ですね。


昨年(2017)は旭川市内でクラス会を行いました。

厳密にはクラス会ではなく→同級生会でしょうか。

旭川市内の宴会場所は、

なんでも大昔、??高校時代のクラス会を行ったというところだったと聞きました。


そこは、いままでで一番のところだったと思います。駅には近く、安く、旅館らしく部屋が広く、落ち着いていて古いものがたくさん置かれどっしりと静かな場所でした。みなさんからいいところでしたと、評判が良かったです。

楽しみな二次会は全員が堀りこたつに入ってもまだ余裕があってたんまり買い揃えた飲み物やつまみを食べたり飲んで昔ばなしに花を咲かせてワイワイがやがや朝まで騒いでいました。


周はいろいろな会合に出席していたんですが、そのころから、一切の会合はいろんな理由をつけて断り続けていましたね。

出席しない理由??は、話しをしても「健康は?仕事はなにしてる?年金はいくら?」だとかくだらない話ばっかりなので出席するのがイヤになったんです。


どうにか出席するのは「田舎の会合」「同期会」だけにしてるんです。

周としては「なにか新しい話でも???」と期待するんですが、まったくないのでつまらないんです。


2012年のクラス会はやっぱり釧路の片田舎で行いました。

そこに行く途中、実弟と札幌駅前で落ち合い会食しましました。

そこで記念にと2~3枚ほど撮影しました。実弟にあったのはこの時が最後でした。そうその後3年たったとき病死したんです。兄弟の中で一番早く死んでしまったんですよ。亭50でした。

若かったのにと亡くなったときは、北見から兄や姉に行ってもらいましたが、どんな病気で死んでしまったのか不明でした。兄弟でお線香挙げてもらったんですよ。

北見から行ってもらいました。高速バスで出かけその日に帰ったようです。

どちらかというと、身体が弱かった上、かなり生活が苦しかったようです。

実子長男(甥)は旭川市内で有料老健ホーム?の責任者をやっております。

老健ホームを訪ねたのは2015年6月でした。そこの責任者は女性(ホームを建設したのは建設会社)でなんでもその方と結婚するようなことを話ししていましたね。

でもまだ遊んでいるんですね。若くして死亡した弟の家は札幌市内にあり、義妹が一人で住んでいるようでした。


⑥恩師に再会

忘れるところでした。

2012年に札幌経由で釧路にいった時、実弟に会いましたが、そのあと

  札幌の隣の江別市に住む恩師宅

にも駅から歩いて(3~40分以上を)行ったんですよ。

そこは千歳川沿いのような所で本格的な住宅地でした。

しかし家を尋ねましたが留守になっていました。

  表札には姓名があるので一人住まいだと分かりましたが、

ひよっとして「前回のクラス会で同級生が言っていた」

ことを思い出し、もしかして

    老人ホームに入所か?

    病院に長期入院中か?

と不安になってきたんですよ。でも玄関口を調べてみると???

恩師の名前の葉書や回覧板などがあったので、お買い物でも行ってるんだろうな、

と思い少し待ってみようとしました。

通常は少し待ってまた来ましょうとなるんでしょうね、

周は江別市までは、「そうそう」行かれないので、近所に聞き込み?しました。

すると裏の人から「息子さんは200m先に住んでいますよ」と教えてもらい

行って見ました。


家には鍵がかかっているなど戸締りがされていました。

庭先には「子供の自転車や遊び道具など」があったんですよ。それで

「そういえばここに来る途中幼稚園の運動会」

があったと思いだしたので運動会まで行って見ることに!!

「結果は恩師に見事お会いしましたけど」

結構広い運動場でしたが、一見してもいるかどうか不明でした、そこで

運動場と保護者席の間を「そろそろと歩いて」保護者の方を見歩いたんです。

端っこからズーッと行きましたが、見当たらないんですよ。端っこに着く直前に

恩師の声で「周さん・周さん」と呼びかけられたんです。

イヤー驚いたのなんのって飛び上がって喜びましたよ。

そして30年ぶりの再会で、運動場でいろいろ話をした後、

自宅へ行って運動会のごちそうをいただいたり、

恩師の個展(絵画や俳句など?)のCDを頂戴したり、3時間ほどお邪魔して

恩師の軽四輪車で江別駅まで送ってもらいました。

個展を開くという新聞記事まであって本格的なこともわかりました。

周としてはこうやって注意を払うと、なんでもうまくいくと思った次第です。


それから釧路のクラス会に出て「二人目の恩師に会った」ことを話ししました。

前回聞いたことも話したら「さすが周だなあ」と感心してましたっけ。

ようするに、近場にいても周みたいに誰かを尋ねることはしないんだと

   やっぱり人間は脳で考えるクセに、冷たい動物だ、

とも思いましたよ。⇒周はこのようにいつ死ぬかわからないので、こんなことはいま少し続けます。この話しなどはここまで。


⑦中年?のころ・・病に襲われました。

さて、県非常勤として働いていた時から69までのことですが、

   その間はすっかり病気になったり治したり、通院したり

中年になったら 

    「緑内障」「頻尿」つぎに「肺炎・5日入院」

    「17年1月無症候性心筋虚血(心筋梗塞になる狭窄)とか

     カテーテル検査、3日入院を2回、1年後に検査結果の確認3日入院」

    「帯状疱疹」「アルツハイマー疑い?」

などなどで入院・通院・検査を繰り返しかなり弱った体になってしまいました。


それは、17年2月3日に心房細動の調律のため「ホルター心電図」で確認すると、「不整脈にしては理想的な脈拍で、心停止も2~4秒(1466/日)就寝中、多発的なものの特に症状無し。むしろ日中心拍増加があるので問題無し。」

とか診断されました。

「脈拍数は96,469/日、心拍数最大137/分、最小36/分、平均71/分」


それでもかかさずに毎朝

「体重(体重計のBMI・体脂肪率・骨格筋率・年齢レベルなど)・血圧」

を記録してます。ちょうど10年になります。

ほかには、治験団体に登録し、年に2~3回治験をさせてもらいいろんな薬や治療などを受けています。ここでは、認知症・アルツハイマーの薬が出回るのを待っているところです。


18年1月に南米にツアー旅行を計画したので出かける前に昨年

  「無症候性心筋虚血」(冠状動脈虚血症?)

のため冠状動脈の貫通検査などの確認のためカテーテル検査?をしました。

その結果、ドクターから

     「カテーテル治療結果最高の結果を維持していた。治療方針に間違いが     なかった。」

と言われました。それで晴れて南米に行ったんですよ。そこではあんなに注意していたのに「高山病?」になってふらふらと半日あたまが「ぼー」としました。旅行説明書には、高山病の疑いがあったらすぐ酸素を手配し吸引しましょう、と言っていたのになかなか酸素がなくてね。半日くらい配偶者にもたれて歩きました。

 ま・この旅行でいろいろな世界を見ることができたのでもういつ死んでもいいですよ(詳しくは後述)。


68歳(2017年)の3月に非常勤を辞職して無職になりました。

でも周の人生は「70まで働いて、旅行」がやりまくることですから、さあなにをするかそれなりの資格・説明も受けてみましたが、いざとなるとなかなか仕事が見つかりませんでした。やっぱり誇りみたいなのが邪魔してるんですよね。


外国ではアジア地区のスリランカやネパール・インドに行きたかったのでどうしても仕事をしようと思いました。

いろいろ探した結果、18年3月から、知的障がい者(失語症)

のディサービスをすることになりました。採用面接で

   「やれそうだとわかりその場で契約」しました。

ま・時給「1200」でした。

周はボランティア精神だったものの400の交通費付きです。

月に10~13日(平日は3~4時間、土・日曜に7時間前後2~3回出)出勤ですが無理なく続いてます。。

この仕事は、結構面白くあと1年くらいは続けたいと思っています。


それと、周は病気については人一倍注意を払い、特に食べ物だけは身体に良いものばかり食べていますが、18年9月11日のメタボ検診で

   「便潜血・陽性とか」

の診断がありました。問診時「家族にがんはいないし、48年間毎年2回便潜血検査」してきたが陰性でしたと言ったが、ドクターから「じゃ今度見つかりますよ」って言われ10月26日に

   「大腸カテーテル検査」

を受けたんです。ポリーポ切除すると3万円ですとか…

ポリープは見つかりますよって言われていたんで覚悟していましたが、

30分近くの検査で結果は「まったく異常なし」という診断でした。

腸内をDrと一緒に見ていましたが、やっぱり腸内はキレイな状態でしたよ。それで支払いは「5,400円」でしたね。カテーテルでは計5分間位、息苦しいような場面がありましたが、ぜんぜん痛くもかゆくもなかったです。ただ腸を静かにさせるとか言う注射を腕に一本打たれたのが少し痛かったかなあ。


準備で「お腹を空っぽ」にするのが結構大変でしたね。

痛いとか困るわけではなく、ただ神経的に疲れるかしら…


3日前から食事をまったく少しにしたほか、おかゆとか飲み物を多くいただきましたが、それほど大変なことはありませんでした。お腹を空っぽにするのは大変なことと思いました。やってみるとこれくらい仕方がないわと思いました。

カテーテルは2メートル位伸ばしていたようでした。


18年のクラス会は釧路の全日空ホテルでしたが、実は終わったあくる日

   釧路市内の協和病院へ

入院中の同級生女性をお見舞いに行ったんです。小学校からの同級生11人(だいぶ前に一人没)で田舎の田舎育ちの友人なんです。

で、その方は40年近く会っていないんです。30歳前ころに「リュウマチ」に

   り患してしまい

手当てがかなり遅くなったために「背骨・肋骨・両腕・両足など」すべてがリュウマチ状態で家事・生活もかなりひもじい思いをするようになってしまったということです。

本人も看護師だったのにそういうことで悔しがっておりました。

病院に行くと、ベットに寝転がっていましたが、両腕指・両足指などを見ると、本当に怖い病気だと思いました。

2時間くらいでお暇しましたが、仲間たちはだれ一人お見舞いで病院や自宅に行っていないんです。⇒つめたいなあ。友達ガイがない!!

ま・電話をかけた人はいましたが・・・・・


⑧南米大陸への旅行(詳細は別稿)

周のお話は少し前に戻ります。今年2018年1月末から2週間かけて、ツァで南米に行ったんですよ。

メーンは「マチュピチュッ」でしたが、せっかくだからペルーの地上絵を見たり、

クスコ市内、イグアスの滝などを見て「すごい」を連発しました。

誰かが言ってましたが、「マチュピッチュを見て死ね」とかマチュピッチュを見ないで死ぬな!!!!!とか・・・

見てから死のうと本気になって行ったんですよ。

ペルーがあんなに砂漠地帯だとか、山間部はやたら貧富の差が大きいな、とか

思い知らされましたっけ。フジモト元大統領や息子や娘はなにしてるんだか??

地上絵も何百年もたって結構薄くなったり壊されていましたね。

その100~150m上空を18人乗りのセスナで飛び回るんですから恐ろしかったです。

2時間近く搭乗のセスナってひどかったなああ。あああコワ!!かった。

二度とセスナには搭乗しませんから!!!!!


そうです・病気の確認を早々と済ませJALでサンフランシスコへ、つぎがロスへ飛び、ロスから直行便でペルー首都空港でした。その後もクスコ空港やイグアス空港などと飛び回りました。

しかもペルーは雨期だと言っていましたが、一回だけ少し小雨がぱらついただけであとは晴天続きでした。もうかりました。

なんでもブラジルとペルーとベネヅエラ?の三国がまじりあうところがあって珍しかったなあ。もう二度と行けませんね。だけど70近くの男性は二回目だって自慢してましたね。


どうせなら別なところに行くでしょう。


⑧大分へ・・関アジ・関サバ・から揚げ

で、もってJALや提携航空のマイル合算でかなり溜まったので、

    4000ポイントで大分往復

したんです。

そんなことで大分空港に降り立ち、つぎに大分、別府や由布院など、地獄めぐりに加え

  最大の目的「関アジ・関サバ・中津の揚げ物」

を食べに行ったんですよ。関アジ・サバは大分市内で食べましたが、結構お高かったです。

中津の揚げ物は「中津市内」でいただきました。

なんでも揚げ物は「中津が本場」だって。

おいしかったです。鴨・鶏揚げもやたらおいしかった。

そこの町に慶応大学創設者野口英世の生家があり見学しましたよ。


そして黒田長政の中津城があり、立派なつくりでしたね。黒田一派は博多城、福岡城に移り住んでいるのですが、いまでも中津城に長く住んでいるかのようです。


そしてその足で、同期の友人宅を訪ねました。そこは大分駅から由布院をとおり4っつ目の駅(豊後森駅)から15分位でした。

実家は農家でした。5年ほど前に自宅を新築し壊した家の後片付けをしていました。

町の人口は14000ほどで駅からは近く、結構な街並みでしたから、なんで横浜に出たのか聞きましたら、

  「当時は仕事先もなく農家では続かなかった」と言ってました。

周は由布院に20年前に観光旅行で行ってますが、山梨の清里と全く異なり由布院は商店が当時より10店ほど増えていると言うことでした。

大分市、別府市は結構な街で驚きました。それと国東半島を観光バスで回りましたが、国宝も3か所見ましたけど・・・・さびれていましたよ。


聞くと国宝と言ったところで「なにひとつ国からもらえない」んだって。

そんなのってずるいね。

いまでも中国や結構な外国を援助してるんだよなあ。ひどくない。

どうしても日本の国宝に援助してもらいたいです。


ところで2019年6月にクラス会をやると連絡がありました。網走なんだって!!

ま・どこでもいいけど、なんとなく行くのが億劫になってしまいました。

反省反省いけませんけども・・・・・


⑨病の連発・魔の69.

69歳の時、いろんな病が出てしまいました。

あんなにも健康に気を使い、まじめに暮らしてきたのに・・・

2018年8月末ころ「帯状疱疹」にかかってしまいました。最初はなんでこうなったかわかりませんし、帯状疱疹じゃないかと言われたのは、市内南プールに行ったとき

係の人に「胸あたりに腫物様なの」があったのでシャツを着ていると、事務の女子から「もしかしたら帯状疱疹と思うので病院に行ってくださいかも」と言われ

「相模原市南区原当麻の志村クリニック」に行くことにしました。

言ったらすぐに帯状疱疹ですと言われ処方されました。

少なめの塗り薬で3~4回ほど通院し、ついでに頻尿を話したら

   エコーやレントゲン

の結果、残尿(普通人=50CC前後)=140CC、前立腺の大きさも普通人よりかなり大きかったんですよ。

そしてついでに血液検査で「前立腺がんの疑い」ある数値が出てしまいました。

最初は4~5年前から、夜間のオシッコガ増え、頻尿になってしまいいろんな漢方薬を試し、2年くらい通院もしましたが、アノやぶ医者は全くダメで何を言っても「市販薬は馬に食わせても問題がないですよ。」だから病院の薬を服用したほうがいい、ってなもんでとうとうムカついてホットケてな感じにしていましたら、一晩に2~3回で済むようになってきたんです。


それで帯状疱疹の治療を受けた志村クリニックのドクターに話し頻尿の処方もされるようになりました。




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