第十九話 唇は語らずとも
ミラはクロードに示された階段をわき目もふらず駆け上がる。静かにしろと言われたばかりだったが、階段を急いで上りながら無意識に声に出していた。
「死なないで、ゲイブ! お願いよ! 私、わたし……貴方が……」
そして医療塔最上階の六階に辿り着く。王族と高級貴族専用の特別室階である。流石にこの階に着いてからはミラも口を
扉が少し開いているので恐る恐る中を覗いたミラがそこで見たものは……右腕にグルグルと包帯を巻かれ、寝台に上半身を起こして座っている王太子だった。
そして彼の手前の寝台横にはミラよりも少し年上らしき女性看護師が腰かけていた。小さな台の上には食膳が置かれ、その看護師は彼に食事を食べさせているところだった。
「ほら殿下ぁ、もう一口どうぞ、はい、あーん♡」
彼女は看護師にしてはやたら色気を振りまいているようである。しかも彼女は制服の胸元のボタンを谷間が見えるまで外している。
「ありがとう。あーん♡」
「あら、お口の周り、ここソースが……ほらぁ」
お色気看護師は指で直に王太子の唇をなぞり、何とその指を彼に舐めさせている。
「利き腕が使えないってホント、不便だね」
「ご心配なく、殿下。何か助けが必要でしたらいつでもお呼び下さいませ。ほんのささいなことでも、うふっ、何でもお世話致しますからぁ」
王太子は自由に使える左手で先程舐めた彼女の手を握って意味ありげな笑みを浮かべて聞いた。
「何でもしてくれるの? 例えば?」
「まあ嫌だわ、殿下ったらぁー、それを私に言わせるのですかぁ?」
彼女は王太子の胸にもたれかかる。
最悪の事態、例えば全身包帯を巻かれ意識もなく寝台に寝かされている王太子を想像していたミラは拍子抜けしてその場にへたり込んでしまった。そして大声で泣き出さずにはいられなかった。
「うわぁーん! ゲイブ、生きていたのね、よ、良かった……もう、心配で私、わたし……えーん!」
それ以上言葉にならず、床の上に座ったままミラは泣きじゃくっている。慌てたのは王太子であった。
「ミミミ、ミラ! こ、ここまで来てくれたの?」
セクシー看護師の手をぱっと離し、彼女の体をそっと押し返して彼女に告げる。
「ちょ、ちょっと君、申し訳ないのだけれど! は、外してくれるかな?」
「あらまあ……それでは失礼致しまぁーす」
フェロモン全開ナースは床に座り込んで泣いているミラを楽しそうに眺めながら彼女の横をすり抜け、退室した。
「うぐっ、ううっ……ゲイブ貴方ちゃんと元気に生きて帰ってこられたのね……ぐすんぐすん」
「ご、ごめんミラ……」
何に対して謝っているのか追及されそうで怖かった王太子であった。
「ゲイブが王都に帰ってきたけど、意識不明で医療塔に運び込まれたって聞いて、私居てもたっても居られなくて……ぐすっぐすっ」
ミラは少し気分が落ち着いてきたので、大きく息を吸って続けた。
「いきなり押し掛けてきてしまって大変申し訳ありません。殿下のお食事のお邪魔をしてしまいました。その、殿下のご無事が確認できただけで満足ですので、私はすぐに失礼しますから。えっとお恥ずかしいことですが、腰が抜けてしまいまして」
言葉遣いが丁寧になったミラが怒っているとでも思ったのか、ますます王太子は慌てている。
「い、いやいいんだよ! それほど空腹だったわけでもないから! その、ミラ、こっちにおいでよ。君の顔が近くで見たい」
「え、ですが……」
「久しぶりだね、ミラ。少し痩せたんじゃないの?」
ミラの涙はまだ完全に止まってはいない。そして未だ部屋の入口で床に座り込んだままである。王太子は寝台から下り、ミラの所まで行き自由な左手を差し伸べて彼女を立ち上がらせる。
「殿下、本当にお怪我は右腕だけなのですか?」
「うん。それにこの右手もね、ちょっと捻っただけで大袈裟に包帯を巻かれているだけだから」
「ああ、良かったです……ぐすん」
「さ、こっち来て座って。涙も拭いて」
王太子に手を引かれ、促されるままに寝台の上に彼と一緒にミラも座った。手渡された手拭いで涙を拭きながら、少し落ち着いてくると彼女は恥ずかしい気持ちでいっぱいになってきた。
「殿下、私必要以上に取り乱してしまって申し訳ございません」
「ねえ、君にそこまで心配してもらえるなんて、俺はまだ望みがあると考えていいのかな?」
王太子は悪戯っぽく笑って隣のミラに顔を近付けた。
「え? それは心配に決まっているじゃないですか!」
彼女は自分の顔が赤くなるのを感じていた。後ずさりしようと思ってもいつの間にか王太子の左腕が腰に周されており、身動きが取れない。
「良かった。もう君に嫌われてしまったかと思っていたんだ、実は」
「あの、実は私もです。それに殿下が南部へ向かわれることも知らされなかったし……」
「ごめんね。俺も大人げなかったよね」
王太子は右手の包帯の先から少しばかり出ている指先でミラの乱れた埃っぽい髪をなで始める。
「あの、大人げなかったのは私もです。殿下、私失礼なことばかり申しました」
「ねえ、ゲイブって呼んで? 言葉遣いも二人きりの時はそんなに畏まらなくていいから」
「ゲイブ……」
「ミラ……君に無性にキスしたいんだけど、いい?」
「えっ? 珍しいわね、ゲイブ。貴方いつもは私に聞くこともなく、いきなりキスしてくるのに」
「そうだっけ?」
「でもいいわ。私も貴方にキスしたい気分ですから」
王太子は驚きで少々目を見開いた。改めて彼の瞳は濃い青だということをミラは認識した。
「意地っ張りで生意気で憎まれ口を叩く君も好きだけど、素直な君はすごく可愛いね。俺に会えなくて寂しかった?」
「はい……」
そこで二人の顔は近付き、唇がそっと触れ合った。それからしばらくの間、思う存分にお互いを味わって名残惜し気に離れた。
「えっと、このくらいで止めておかないと、君をここで押し倒してしまいそうだから……」
「あっ、その、ゲイブ……」
ミラは王宮に上がれるような服装でないことが急に恥ずかしくなった。馬を飛ばして来たため、土埃にまみれた外套も着たままである。彼女はいきなり立ち上がって王太子に聞いた。
「手の怪我だけなら医療塔はすぐに出られると思う?」
「多分明日には本宮に戻れると思うのだけど。とりあえずここを出てから君に連絡しようと思っていたのだよ。自分の不注意で落馬して手首捻ったなんて、カッコ悪い姿を見られたくなかったからね」
「そんな、カッコ悪いだなんて……」
「ねえ、明日良かったら夕食を一緒にとらないか? 使いをやるよ」
「はい、連絡待っているわ。あ、お食事と言えば……これ、すっかり冷めてしまったわね。温め直させる? それとも新しいお膳を頼む?」
「いいよ、そんなの手間がかかるだろう。少々冷めていてもいい、このまま頂くよ」
「あ、それでは先程の私より五倍くらい胸の大きな看護師の方を呼んできますね。利き腕がお使いになれないから不便なのでしょう?」
再び王太子は焦った。
(ミラ、また言葉遣いがやたら丁寧になっているし!)
「いや、いいよ! ひ、左手で食べられるから! じゃ、じゃあ君に食べさせてもらいたいなぁー!」
「私は構いませんけれども、先程のお色気ムンムンの彼女、何でもして差し上げるって言っていましたよね。殿下だって彼女の指を舐めたり、あの大きい胸を押し付けられたりして、鼻の下をこーんなに伸ばされて嬉しそうにされていましたし」
王太子は背中を冷や汗が伝うのを感じていた。
(何だよ、泣きじゃくっていたくせにしっかり観察していたなんて!)
「い、いや、あれはつい出来心で……ミ、ミラ、そんな怒らないで」
「私怒ってなんかおりませんよ」
まだ婚約も正式に成立していないうちから既に王太子はミラに頭が上がらなくなっているのであった。
***ひとこと***
王太子殿下、弱味握られちゃってます。
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