攻防
第五話 侯爵様、あなたのような方は
その日は春の終わりにしては暑い日だった。ミラはルクレール家の庭の小さな池でスカートを腰回りまでたくし上げ、膝まで水に浸かり涼んでいた。
「あー気持ちいー、極楽極楽ぅー」
「お嬢さま、大変です! 相変わらずそんな水浴びだなんて……ここは領地のお屋敷ではございません!」
「水浴びじゃないわよ、足をつけているだけじゃないの。今日はお父さまもお休みで家におられるでしょ、特にすることもないし、でも屋敷の中には居たくないって言うか……とにかく、ただでさえ暑いのだから、もうちょっと落ち着いてよ」
「落ち着いていられません! さ、早く水から上がって靴をお履きになって下さい」
「なあに、レベッカ? どうしてぇ?」
「どうしてぇ、ではございません。ただ今お屋敷にお客さまがお見えです」
「お客さま? 私には関係ないわよね」
「それがかなり身分の高いお方のようなのです。ですから、ひょっとお屋敷の窓から庭の池で半裸の侯爵令嬢がバチャバチャと水浴びをしているところなど目にされると……」
「これのどこが半裸よ! 膝までしか見えてないじゃないのよー」
「とにかく、念のためです!」
「ほぇーい」
「ほぇーい、ではございません!」
「レベッカ、ちょっと手を引いてくれる?」
レベッカはミラの瞳にいたずらっぽい笑みが一瞬見てとれた。
「はい……」
そう言いながら手を差し出すがその瞬間にすぐその手を引っ込めた。
「やだわ、レベッカ」
「何だか、私がこの池に頭から落ちる近未来が見えたものですから……」
「ちぇっ、ばれたか……貴女も最近は手強くなったわね」
(やっぱりね……)
「何年お嬢さまにお仕えしているとお思いです?」
「わっかりましたぁー、部屋に戻りますぅ」
ミラは裸足のまま靴と靴下を持ち、立ち上がる。スカートは腰回りまでたくし上げたままである。
「お嬢さま、スカートを下ろして靴もお履き下さい!」
「誰が玄関から入るって言った? 勝手口から戻るに決まっているでしょ!」
「当たり前です!」
そのレベッカの言葉と同時にミラは彼女を置いて屋敷の裏へ裸足のまま走り出した。
「ああ、侯爵令嬢ともあろうお方が……敷地内とは言え屋外を裸足で駆け回られるとは……お嬢さま、お待ち下さい!」
レベッカも慌ててミラを追いかける。勝手口から屋敷に入ったミラは厨房に寄り、料理人の一人に声を掛ける。
「いい匂いね。グレッグ、何を作っているの?」
「あ、これはお嬢さま。チョコレートムースでございます」
「やった! 美味しそうね。一口味見させて?」
「……一口だけですよ」
グレッグは渋々呆れ顔で固める前のチョコレート色の液体を匙ですくってミラに差し出した。そこへ息を切らしたレベッカが追い付いてきた。
「美味しーい! レベッカも味見しない?」
「いえ、私は結構でございます」
「グレッグ、また後で試食しに来るわね!」
グレッグの顔にはもう来るんじゃねえと書いてあるようだったが彼も一介の使用人ゆえ、とても口に出しては言えない。
そして部屋に戻ったミラは暇を持て余し、レベッカにある提案を持ち掛けた。
「ねえレベッカ、久しぶりに『ミラお嬢さまごっこ』したくない?」
「いいえ、お嬢さま、遠慮しておきます!」
「私はやりたいなぁ、『レベッカごっこ』」
「お止め下さい!」
レベッカは慌てて部屋を出ようとする。
「待ちなさいよ、レベッカ! ほんの数時間だけだってば!」
そう言ったミラはレベッカの方へ両腕をかざし、その瞬間なんと二人の姿が見事入れ替わったのである。
「へっへっへー」
レベッカになったミラがおどけて言う。
「お嬢さまっ!」
ミラになったレベッカは焦った。これがアルノーに見つかると大変なことになる。大抵の場合、ミラが説教を受けることになるのだが。レベッカも最近はお叱りを受けるよりもアルノーに気の毒がられている。
「私、また厨房でつまみ食いでもしてくるわ。じゃあね、ミラお嬢さま」
そして侍女レベッカの姿のミラは部屋を出て行ってしまった。
「え、そんな……お嬢さまぁ……私元の姿に戻るまで、お嬢さまが無謀なことをしないよう祈りながら部屋に籠っているしかないのですか? どうぞ何事も起こりませんように……」
レベッカの切なる願いは天に届かず、憐れな彼女はとんでもないことに巻き込まれることになるのである。
レベッカに変幻した姿で厨房に現れたミラは料理人グレッグに
「レベッカ? 先程から何か違和感が……どうしたんだ?」
その頃、アルノー・ルクレール侯爵は慌てて二階への階段を駆け上がっていた。そして、長女ミラの部屋に扉も叩かず押し入る。そこに娘の姿を認めると一気にまくし立てた。
「ミラ、お、お客様がお前にお会いになりたいそうだ!」
ミラの姿にされてしまった憐れなレベッカは飛び上がった。
「だ、だんなじゃなかった、お、お父さま……いえ、私は……」
「いやはや、何と言うことだ……王太子殿下自らお越しとは……」
アルノーの入室時に既に血の気が引いていたレベッカは卒倒しそうになった。
(旦那さま、今もしかして王太子殿下とおっしゃった? 高貴なお客さまって、身分高すぎ!?)
「お前が逃げたりしないよう、私が自ら来た。王太子殿下は何故かお前のことをご存知で、何かお渡しになりたいそうなのだ。先日の舞踏会で挨拶しただけなのにお目に留まったとも考えられんが……さあとにかく、殿下をお待たせするわけにはいかん。そのドレスでもまあいい。行くぞ」
(王太子殿下がお嬢さまに? そして今は私がミラ・ルクレールとしてここに居る……)
「ミラ、そんな所で何をしておる、応接室へ行くぞ、殿下に食前酒でもお勧めしろ」
(駄目だわ……お嬢さまの居場所が分からない限り真実を話すべきかどうか……)
レベッカは正直に話すことにした。
「だ、旦那さま、実は私、魔法でミラお嬢さまに変えられたレベッカでございます。ですから本物のお嬢さまを……」
「何を言っておる、冗談も休み休み……って本当なのか?」
「はい……」
アルノーは目の前に居る自分の娘をまじまじと見つめた。
「確かに、何となく喋り方や仕草が大人し過ぎてミラっぽくないな。で、肝心の本物は?」
「私の姿に化けてまずは厨房に向かった模様でございます……」
アルノーは頭を抱えて座り込んでしまう。無理もない。
「よし、レベッカ、お前はしばらく殿下のお相手を務めていろ! あの娘よりはよっぽどましだ、ああ絶対そうだ!」
「旦那さま! 何という大それたことを!」
「レベッカ、お前の方がよっぽど侯爵令嬢っぽいわい!」
アルノーは少々壊れかけているのでは、とレベッカは疑わずにはいられない。
「時間稼ぎをしている間に本物のミラを探すぞ! そうだ、これで万事上手くいく、というよりあの娘が居ない方がいいに決まっている」
「旦那さま! そんなぁ……」
「お父様と呼べ! さあ行くぞ」
レベッカはアルノーに腕を掴まれ、逃げることも出来ない。アルノーは応接室へ向かう途中すれ違ったセバスチャンにミラか、レベッカに化けたミラを捕獲するように命じた。セバスチャンも流石に目を丸くしていた。
「セバスチャン、屋敷の内外をくまなく捜索しろ!」
「ははっ、旦那様。もしかしてお連れはお嬢様に姿を変えられたレベッカでございますか?」
「その通りだ、頼んだぞ!」
(旦那様も御苦労が絶えませんね……よりによって王太子殿下がお見えの時に……)
そしてアルノーはそのままレベッカを引きずるように応接室の前まで来た。
***ひとこと***
シリーズ本編第三作「奥様」ではルクレール家の料理長になっているグレッグさんも、ミラには昔から迷惑を掛けられています。
さあ気の毒なのはレベッカです。それにしてもアルノーさん、替え玉作戦なんて上手くいくわけないでしょうに!
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