その1

 取調室の中央で、新田百恵はすでに俯いて椅子に腰掛けていた。部屋は昼間から電気をつけるほど、どんよりとして薄暗い。

 鉄格子がはめられた窓の外からさす木漏れ日を見るまで、今日が雲ひとつない晴天であることを忘れていた。


 窓から入った日光が新田百恵の足元で止まっているのを見て、俺は少し寒気がした。

 まるで光が彼女を照らすのを拒んでいるようだった。


「失礼」


 席に着いて、新田百恵と机を挟んで対峙する。


「なんか話すことはあるかい?」


 俺と彼女の間に存在しているボサボサの長い髪は微動だにしない。間が持たずため息を漏らした。



 新田百恵は、ただ「妹が憎かった」とだけ、動機を語っている。弱い声だった。声というよりは、ポロッと剥がれ落ちた不幸の鱗のように感じた。


 妹の佐倉千里はピアニストだった。二人とも俺ですら知っている音楽家の子供で、幼い頃は新田百恵も二人同様にピアノ奏者を夢見ていたそうだ。そして、姉妹どちらかといえば、姉の新田百恵の方が評判は良かったそうだ。


 二人の岐路になったのは両親の離婚である。佐倉千里は母親、新田百恵は父親の方に育てられる事になり、それまで並んで歩いていた姉妹の足元に亀裂が入る事となる。

『血の繋がった他人』の利点の一つが、離婚時の親権問題が解決した事だ。佐倉千里も新田百恵もそれぞれの親と暮らす事に、なんの文句も出なかったという。


「妹が憎かった」


 ただ、それは大人の都合に過ぎない。きっと新田百恵は佐倉千里が生まれた瞬間から、何か見えない恐怖を感じていたに違いない。

 そうでなければ、恨んでいるとは言っても、元の家族をあんなメッタ刺しにしないだろう。

 血の繋がった他人同士の殺人は残虐な現場になることが多い。そして、殺人を犯した方は、「いつも兄弟の間に見えない壁を感じていた」と供述する。


『トランス手術は愛を相対的に変えてしまう』


 トランス手術が生まれてすぐ、そんなことを懸念して発表をしていた記事があった。当時は保守的な人間の妄言と思われていた。が、俺はその記事をふと思い出す時がある。

 久しぶりにネットで検索してみたら、その記事はこの世から消されていたが。

『神様はサイコロを振らない』

 俺がその言葉を聞いたのは、アインシュタインでも、相澤からでもない。相澤の話を聞いていた時に、その記事にポツンとその言葉が落ちていたのを思い出したのだ。



「じゃあ、そのシュレーナンタラの猫ってのは、箱の中に二匹いるってのか?」


 新田百恵は何も話さず、結局、また休憩を取る事になり、俺と相澤は喫煙所に戻っていた。

 相澤はタバコを吸わないので、部屋に入った瞬間の匂いに顔をしかめた。


「違うんです。この前も説明したじゃないですか。

 箱を閉じて中が見えなくなりますよね? だから中には死んでる猫と生きてる猫と二通りの可能性がありますから……」

「じゃあ、あれか? 母親の腹の中のガキは、生まれてくるまで、男と女の二通りがいるってのか?」

「あ、でも、お腹の胎児って受精してから男女が決まるまでは随分経ってからみたいですよ」


 相澤がそう得意げに言ったので、俺はフッと笑いながら「そうなのか」とつぶやいた。論点が変わっちまってる事に、なんも気づいてねぇ様子だ。


「なんか、胎児って受精してしばらくは両性のままらしいですよ」

「へぇ、知らなかったなぁ」


 相澤がなんとか議論を押し通せて安心した口調で言った。これじゃあ、まだ当分、取り調べを任せられそうにはねぇな。


「神様はサイコロを振らない。かぁ」

「あ、そうです! で、その理論を見たアインシュタインが『神様はサイコロを振らない』って」


 ハッとした声で相澤が言った。話の本筋をやっと思い出したようだ。


「じゃあ、誰が振るんだ?」

「へ?」

「その神様は振らないんだろ? なら、誰が男か女かを決めるんだって話だよ」

「それはぁ……」


 相澤はそこで黙り込んでしまい、


「それで、新田百恵はどうなりますか?」


 話をすり替えた。下手くそ。


「どうも解りきった事だろ? 検察に連れて行かれて裁判だよ」

「解ってるなら、なんでまだ続けるんですか?」


 と、油断をしていたら、素人刀が急所に飛んで来やがった。


 俺は、何を話すのを待っているのか? 新田百恵が両親に感じていた心の壁を話してくれることだろうか?


 トランス手術を受けた両親の離婚率の高さ、そして事件を引き起こす率も群を抜いている。

 なぜかそのニュースを見ると自分が安心している事に気づく。ルール違反をしている人間が下手をこいた時の安心感に似た気分だ。


「もしかして、山城さんも、同情してます? 彼女に」

「滅多なことを言うな」


 と、言った後に思い出した。


「そういや、お前、ガキがうまれたんだったな」

「もう半年ですよ」


 そうか。と、俺は煙草を灰皿に押し付けた。


「相澤」

「はい」

「両親の性別がある日、入れ替わったら、どう思う?」


 相澤は「んー」と言うだけで、結論を言わなかった。


「お前が万が一、性別を入れ替えて、またガキを産んだら、今のガキとどっちを愛する?」

「……考えたくないですね」


 俺と相澤は同時に立ち上がった。


「でも、やっぱり、自分で産んだ方の子を愛してしまうと思います」

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