第38話 Fuck 荒々しく攻め立てる(7)


 俺たちを覆うバリアの中にある酸素も、このまま運動を続けると心もとない。焦燥感に文字通り火が点く。


 ちらちらと燃える火花の向こうに、必死に逃げるシュマがいた。


 シュマは俺を騙した。裏切った。盗みだって見逃したし、レイラに腕の腱を切られそうになったのからだって助けてやった。その信頼をすべて無にした。

 でも、それでも、こんな風に焼け出されるのは違うはずだ。


 あの子は関係ない。


 はっきり言って、ムカつく。


 シュマに報いを受けさせるにしても、それは俺の手でなければならなかった。勝手に横から余計なことをしやがって。


 ムカつく、ムカつく、ムカつく!


 俺の視線の意味をイースメラルダスは誤解したようだった。


「焼けた小さき者に、情が移ったか? ジェリー・フッカァアアア。それでいい。我が受けた痛みの万分の一でも味わって死ね」


「勘違いするなよトカゲ女。言葉が通じるからって、誰でも単純に自分と同じ気持ちを持つと思うのは、想像力の欠如ってやつだ。簡単な共感の枠に他人を突っ込んで、満足か? 卑しいやつめ」


 煽れる時に煽るだけ煽ってしまうのは俺の悪い癖だ。

 心のある生き物がことごとく嫌いなんだろうな。テレパスの悪しき弊害ってやつだ。


 イースメラルダスの怒りに呼応して、焼けた地面が不思議なにおいの煙を吐いた。


 黒煙が空の投影された天蓋でつっかえて(みんな忘れてないか? だだっ広いけれどここは結局ただの洞窟だ)、ダンジョン一帯が煤焦すすこげていく。


 イースメラルダスが本気になれば、天井を破ってアスフォガルにまで飛び出すこともできるだろう。

 それに気付いたのか、美しい女のかんばせに、悪意に満ちた爬虫類の笑みが広がる。

 口端が耳まで裂け、ギザギザの歯がびっしりと連なっていた。


「小さき者は心までもが小さいのか。ならば、数を燃やして間に合わせるしかあるまい。お前らがせせこましく積み上げた都市とやらを、灰も何もなくなるほどに焼いてやる。“無焼”の意味を知るがいい」


 白虎の谷の連中の顔色が変わった。

 金だけあっても使い道を思いつけない俺とは違い、この世界に根を下ろして成功している人間にとって、それは失うものが多すぎる。


 俺は――。


 街を、アスフォガルを燃やし尽くそうとする赤い竜。


 それを見て、俺はふーんと思った。


 全然よくないんだけどほんの一瞬だけ、それもいいかな、と思ってしまった。


 時々、俺は自分の中に押してはいけないスイッチがあることを意識する。


 誰も見ていない場所に落ちている財布。

 盗もうと思えば盗める――。

 しないけど。

 ちゃんと交番とかに届けるよ。


 駅で電車を待つ目の前の女子高生。

 ホームを新幹線が猛スピードで通り過ぎる時、ほんの少し、軽く押すだけでこの子は――。

 しないけどね。

 絶対にやらない。


 絶対にやらないつもりでいるけど、考えないわけじゃあない。


 絶対に――。


「そんなこと、絶対にさせるものか!」


 吠えるフィルニール。

 けれど、イースメラルダスにとってそれは鼻で笑える程度のものだった。


「絶対? 簡単に言うものだな。矮小な人の身には『絶対』とは過ぎた言葉だ」


 赤い竜が言った。

 俺もそう思う。


 俺にだって絶対はない。


 言葉には力がある。嘘は言葉の価値をねじ曲げるから、嘘をつけばその分だけ力が反発して自分に返ってくる。

 だから、分別を持っているのならば言葉は濫用すべきではない。


 どうしよっかな。


 凶悪な気まぐれが俺の中でムクムクと大きくなりだしたその時――


「――何を馬鹿なことを」


 レイラが言った。


 イースメラルダスに、複合強化カルシウムによって覆われた剣を突きつける。


「できないことは言うべきではない。それは竜だって同じだ」


「何っ!?」


「現に貴様は、我々を殺せていないではないか。お前にはこれ以上、誰も殺させないし、殺されない。これはもう決まったことだ」


 過剰な正義感に、お前は何様だよって感じの一方的な言い分。


「貴様らに同情がないわけではない。竜を殺そうとしたのは人間だ。しかし、それまでに貴様らは何人の人間を殺した? 私は迷宮検査官だ。竜に食い殺される人間が毎年どれだけいるか、知らないとでも思ったか」


「我らの縄張りに入った報いよ。血の詰まった革袋どもがのこのこやってきて、我らの喉をうるおせるだけ光栄に思えばいい」


「そうだ、貴様らに私たちを殺す理由があるように、私たちにも貴様らを殺す理由がある。罪には罰だ。竜は、殺す」


 イースメラルダスもそうだが、お互いに会話をする気がまるでない。


 けれど、これがレイラだ。


 レイラがあるとするならば、これこそがそうなのだ。


 レイラは昂っている。

 竜と戦えることに。そして、その勇ましさを俺が見ているということに。


 俺はそこで初めて、レイラの中に俺へのあこがれがあることに気付いた。それはとても小さく秘められていて、だからこそ本物だった。

 魔王を倒し、勇者と呼ばれたこの俺にレイラはずっと会いたかったのだ。


 レイラは子供なのだ。勇気の価値さえ、まだ知らない。

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