第28話 Hook 釣り(7)
人間の脳髄はまるで迷宮だ。ひだを何重にも折りたたんだ形をそのままに、どこまでも入り組んでいる。
ミノタウロスが閉じ込められた迷宮を踏破するためのアリアドネーの糸のように、俺のテレパスはクタラグの精神を深くえぐり込む。
記憶の宮殿をたどる――。
クタラグは、俺に依頼をしたニアが、兄であるジョーシュの死体の前にいるのを見つけた。
ニアとクタラグは恋仲だった。
クタラグはジョーシュの死体を処分するために、ダンジョンに向かった。死体を加工して、蛮竜の猛攻に巻き込まれて死んだかのように見せかけるためだった。
この時点で、クタラグはフィルニールたちほど竜の脅威に怯えていなかった。そうでなければ、わざわざダンジョンに入ったりしないだろう。
クタラグの見通しは甘かった。当然のように、赤い竜に出会ったからだ。
ジョーシュの死体に細工をするまでもなく、ほうほうの体でクタラグは逃げ帰った。ジョーシュの死体はその時に焼かれたのだ。
ここでニアの証言と齟齬が生じる。
時系列がおかしいのだ。
白虎の谷がダンジョンから引きあげた時にはジョーシュは生きていたはずで、ニアの目の前で死んでいるのがクタラグの記憶。
だが、ニアの証言ではダンジョンからジョーシュは帰ってきておらず、信じていた何者かに殺されたという。
人は見たいものを見たことにする。自分の信じたいことを信じ、記憶すらねじ曲げる。
人には主観しかないし、俺はそれをただ再生することしかできない。
ならば、ニアとクタラグのどちらが正しい?
「犯人は、お前だ」
俺は目の前にいるクタラグを真っ直ぐ指さした。
「おいおい、ニアが言ったことをそのまま信じるのか?」
大袈裟に肩をすくめて見せるクタラグ。その手首の内側にはスローイングナイフが仕込まれている。
「お前が信用ならないのもあるが、ニアの記憶を深くまでたどれなかったのが理由だ。詳しくはわからないが、ニアは定期的に記憶を失う病気だな?」
脳神経外科なんてものがないこの異世界では安易な診断はできないが、おそらくニアは前向性健忘症だ。
前向性健忘症は、定期的に自分が何をして何が起きたかという具体的なエピソード記憶忘れてしまう症状だ。フォークの使い方や自転車の乗り方のようなものは手続き記憶といい、失われることはないが、それでも生活は困難になる。常に誰かの助けが必要になるはずだ。
ニアを助けていたのは兄であるジョーシュであり、クタラグだ。
そもそもフリーのポーターがいきなりAランクのクランである白虎の谷に、何の紹介もなく入れるわけがない。
「本当に俺の記憶を読んでるらしいな。なら聞くが、証拠は何だ? お前が真実を話してるかどうかどうかなんて、誰も確かめられないんだからなァ」
往生際が悪いというよりは、諦めてるがゆえに面白がって自分の記憶をぶちまけるクタラグ。
情報が多くて苦労するが、俺は探偵だ。暴いてみせるさ。推理はミステリーの華だからな。
「お前はニアを愛していた。命懸けで蛮竜の逆鱗を取りに行くぐらいだもんな」
Aランクの精鋭ぞろいでも、何の対策もなしにいきなり接敵した蛮竜は殺せない。クタラグは事前に対策をしていたのだ。そして仲間を誘導した。パーティーの目と鼻であるシーフの言うことはみんな信じる。
「逆鱗は高く売れるが、金があったところでどうにもならないぜ。まァ、金なんてのはあればある分だけ便利だが、それだけだ」
「違うな。逆鱗は換金しない。そのまま使うつもりだったんだ」
――知恵の霊薬。
フィルニールが言っていた。竜の逆鱗があれば、その薬が作れると。
一見、知識を高める効果があるように思える名前だが、実際は違う。
精神科医や脳神経外科医がいないから誰も正確に診断できなかった心の病、脳の障害を癒すための薬なのだ。
症状自体がこの世界では曖昧な扱いしかされていないため、薬も珍しいものになる。年寄りエルフの話もたまには聞いておくものだ。
「さて、ここからは推測になるが――偶発的に赤い竜に襲われた後、お前はジョーシュに逆鱗を渡して逃がした。ジョーシュはニアに逆鱗を持って帰ったことを言ったんだろうな。だが、ニアにはジョーシュが何でそんなことをしたのかがわからなかった。自分が病気であることも忘れていたんだ。自分の家に突然入り込んできて盗みを堂々と自慢する男が、ニアには強盗に見えたんだろう」
おそらくだが、若い頃にニアは頭に怪我を負っている可能性が高い。
そして、その時から兄の顔の記憶も更新されていないはずだ。覚えても毎回忘れてしまうのだから。十年単位で急に歳を取った兄と出会っても、それが兄だと判断できないだろう。
「ニアは強盗を――ジョーシュを刺した。身を守るために」
背後から信じていたものに刺されたというのは、助けようと思った妹に殺されたということだ。
その記憶だけが、何でもかんでも忘れてしまうニアの脳に強烈に焼き付いた。
俺はニアが、ジョーシュが最後に感じた強烈な感情に引っ張られてニアの記憶を読むのを怠っていたと思っていたが、それは間違いだった。
正確には、ニアにはジョーシュが最後に感じた、失敗した自分への屈辱の記憶しかなかったのだ。
「あとはお前が見たとおりだよ。後ろから刺されたジョーシュの死体、血まみれのナイフを持ったニア。ニアは記憶障害があるから情状酌量の余地はあるが、お前は証拠隠滅と死体損壊を図った立派な犯罪者だな」
クタラグは黙る。何も言い返さない。俺があまりにも正確に記憶をトレースしたからだ。
「お前はニアに嘘を教えた。ジョーシュの死体を片付け、偽の記憶を植え付けるよう誘導した。ニアの記憶は一定で消えるが、兄が死んだ際の感情は共有され、脳に焼き付いていたからそう難しいことはなかったんだろうな。誤算があったとすれば、ニアが俺に犯人捜しの依頼をしたことか」
これにて推理は終わり。
俺は正直、短編小説向けの探偵なのだ。あまりにも早く事件の謎を殺し過ぎる。
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