第29話 Hook 釣り(8)
ふと、俺は辺りに人の気配がすっかり失せていることに気付いた。調子に乗ってベラベラ喋りすぎたか。
スラムの住人の無遠慮な俺を探る目は消え、代わりに鋭角な視線を背中に感じた。
「ね?「言った通りでしょう?」早めに殺しておくべきだったのよ「そいつは」」
足音はひとつ、声もひとつ。なのに心がふたつスラムのゴミゴミした路地の陰から近づいてくる。
いや、そうではない。
足音も声もピッタリと重なり合っているから、感覚が混乱しただけだ。
「クタラグ「あなたは」罪を償うつもりだったみたいだけど「そもそもあなたのしたことってそんなに悪いこと?」」
俺は足元を見た。
俺の背後から長く伸びるひとつの影が、右と左に別れた。
「迷宮検査官に捕まってしまえば「愛しい女のそばにもいられない」私たちを騙して逆鱗を奪ったことも無駄になるわね」
獣比率の高い、犬獣人の女たちだ。
毛並みが美しく、マズルが長いボルゾイ犬。
冒険者に身をやつしても、どこか高貴なたたずまい。レイラよりもずっと貴族じみている。
ざっくりとした白黒のまだら模様で、二人をパズルのピースみたいにピッタリとはめ込むと、真っ黒か真っ白のキャンパスが浮かび上がるだろう。
「聞いたことがある。【欠片の双子】ミーシャとシンシャの姉妹の話を。
強い敵の出現に、アリザラは口があれば今にも歌い出しそうな勢いだった。
クリスマスソングみたいに、腰帯で鎖が鳴らされる。
しゃん、しゃん、しゃん。
まったく同じタイミングで歩くせいで、足音が一つにしか聞こえないボルゾイ姉妹。
ざり、ざり、ざり。
俺を挟むように円を描いて回り込み、左右から声をかける。
どちらも顔の体毛が黒い面を俺に見せていた。
「光栄ね」
「こちらも、少しはあなたのこと知ってるわ」
「ジェリー・フッカー」
「娼婦のフッカー」
「マザファッカー」
「人の頭の中を漁るたかり屋だってことも、お勉強してきてるの」
心がそこにあるのはわかるが、上手く読み取れない。心理的障壁が強固と言うよりは、また何か別の仕掛けがあるようだ。
とっかかりのないツルツルして頑丈な知恵の輪をいじくりまわしている気分。
「やっぱりクタラグと違って読めないようね」
「あなたのためだけに対策してきてよかったわ」
同時に革鎧の胸元から鎖を手繰ってペンダントを取り出す姉妹。
エメラルドの輝き。しかし、本物の宝石よりもどこか粘っこい嫌な色の光だ。
「私たちは心をこの石に封じ込めた」
「私たちが警戒していたのは竜よりもあなたよ、フッカー」
自分の命を分割して死を超越しようとする魔女なんかがよくやる手口だ。
心と身体は厳密には不可分だから、離れている時間が長ければ長いほど悪影響が出るが、俺を殺す間だけならそう悪いやり方ではない。下品だが。
「あなたがじきに白虎の谷全員をたどるのはわかっていた」
「私たちより上のSランクを軽んじることはしないわ」
「あなたを消せば、私たちを追える者はいなくなる」
「それからゆっくり逃げても間に合う」
白虎の谷も一枚岩ではないと思っていたが、ここまで意図がもつれているとは思わなかった。
ミーシャとシンシャはギルドが俺を雇って追手にすることがわかっていたから、最初から俺を殺すことだけを考えていた。
だから、顔見知りのフィルニールには声をかけなかった。これはクタラグがシュマを使い走りにしたのと同じ、記憶から情報をたどられるのを防ぐため。
クタラグはほとんど自首するような形で俺の目の前に姿を現したわけだが、ミーシャとシンシャ姉妹ともずっと連絡を取っていたということか。
つまり、俺が死んでも死ななくてもよかったってワケね。
俺が若干のムカつきを込めてクタラグを睨むと、クタラグはまたもや大仰に肩をすくめてダガーを抜いた。
「ま、そういうわけだ。多数決で決まったことだし、死んでくれや」
「民主主義の敗北だな。衆愚に舵取りを任せるのは失敗の元だ。歴史から学べ」
左右からステレオの笑い声。
「オホホホホホ」
「オホホホホホ」
「面白いことを言うのね」
「愉快なことを言うのね」
「最期の台詞は「それでいいのかしら?」」
ひゅる~る~、と悲しげな口笛めいた音がした。
ミーシャとシンシャは既に抜刀していた。
彼女らの武器は、羽化したばかりのシカバネカゲロウの
向こう側の景色が透けて見えるほどの極薄の刀身は、形だけを見ればインドで雷鳴を表す武器――ウルミンにも似ているが、実際はもっと凶悪であり、魔力を通すことで硬度を増し、飛び回るギロチンへと化す。
二振りで一対の刃を、ミーシャとシンシャは鏡合わせの像のようにまったく同じ動作で構えた。
ゆっくりした動きだが、それだけで風が切り裂かれて悲鳴を上げる。
風断刃――またの名を口笛吹き。
それがそのままミーシャとシンシャ姉妹の二つ名である。
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