第14話 Jewelry 宝石(5)


「そいつは追ってこなかったのか?」


「私たちは地上を目指して駆けた。その間もずっと気配はしていたが、それ以上の攻撃はされなかった。今思えば不思議なことに、地上に出るまで一匹も他の魔物の姿を見なかった」


「魔物共も、恐れていたんだろうな。赤色の気配のそいつを」


 もうひとつ言わなかったことがある。それを言えば、フィルニールはもっと怯えただろうから。

 赤い気配の女は白虎の谷のメンバー全員の心に絶望をまぶして、恐怖が浸透するのを待っているのだろう。

 わざと生かして帰されたのだ。


「かもしれぬ。そして、最後の第一階層を抜ける直前、声が聞こえた」


 そう言ってフィルニールはまたエールをあおった。カップを机に叩きつけると、アルコールの生臭いにおいが飛び散った。


「声は言った。『我は必ず愛しい方を取り戻す』と。私たちをどこにいても見つけ出し、一人一人にこの世の地獄を味わわせて復讐に代えてみせると」


 俺は椅子に深く座り直し、あごに手を当てて考え込んだ。知らず知らずの内にうなるような声がもれた。椅子の背もたれがきしんで、嫌な音を立てた。


「それを真に受けて、ギルドに換金しに行きもしないで酒場でくだ巻いてるのか」


「私たちは真剣だ。私は、私は死にたくないんだ! 何故私が死ななければならない! クソッ……死んだら、死んだら何もなくなる! Aランクになるまでどれだけ苦労したと思ってるんだ……逆鱗を換金したって、やつに見つかったら金も使えなくなるんだぞ!」


 恐怖をトリガーに、フィルニールの心は千々に乱れていた。恐怖→混乱→怒り→絶望→執着→……。目まぐるしい変転。

 長生きすると、捨てたくないものがどんどん増えていくのか。


 他人の心を読み取るということは、鏡写しになった自分をその中に見出すことでもある。嫌なものを見た。畜生、俺だって本当は死にたくない。


 ただ、清潔な場所にいたかっただけなんだ。誰の余計な干渉もない安全な場所。元の世界にはなかった。この異世界にもそんな場所はない。


 アリザラはフィルニールなんかよりもずっと長く生きている。魔剣も死ぬのが怖かったりするのだろうか。生きることに執着を覚えるようなことがあるのか。


 アリザラが愛想を尽かして、俺の喉を突く瞬間のことを想像した。


 フィルニールに釣られて揺れてしまった俺の心が、冷えて固まった。


 形のない物でもそうだ。振動すると熱を持つ。冷たくなると安定する。


「蛮竜を討伐してから何日経つ?」


 剣の刃先を飲んだままの心で俺は言った。望んだ通りに、霜が付くような声が出た。


「半月だ」


 ギルドで受けた説明では、Cランクのパーティーが蛮竜の亡骸を発見したのが五日前とのことだった。


「お前らを追っているその赤髪赤眼の女とやらは、ずいぶんと悠長なんだな。別に隠れてもいないお前をまだ殺さない程度には」


「私は逃げも隠れもしない。逃げるということは問題から目を反らしているだけに過ぎないと、私は知っている。逃げれば逃げた分だけ、弱さが染みつく」


「森の賢者は言うことが違うな」


 こいつが酒場で仲間を集めて騒いでいたのは、周りに肉の盾を増やすためだ。


 本当はまだフィルニールの心は第八階層のドラゴンの死体の横で恐れに囚われたままでいるのが、俺にはわかった。


「お前、そろそろ真面目に本腰入れて身を隠せ。誰も自分をたどれない、自分以外は入れない場所にこもれ。そこで一週間になるか一か月になるかわからんが、しばらく食っちゃ寝してろ。バカンスだと思ってさ。それくらいの蓄えはあるだろう?」


 三百年も生きているエルフの上位冒険者だ、隠れ家の用意くらいしてなければおかしい。


「聞いていなかったのか、間抜けのフッカー? 逃げれば逃げた分だけ――」


「お前の弱さになんか誰も興味はないっつの。Aランクのおこぼれ目当ての飲んだくれ共だってな。どうしようもない連中だが、巻き込んで死なせるのは筋が違うだろう」


 図星を突かれて、フィルニールは黙り込んだ。


「マルクは内側から爆発させられたと言ったな? じゃあどんな無敵の盾があったって無駄だ。それこそが赤髪赤眼の女が望んでるお前の絶望だろうさ」


 触れもせずに人を爆破し、体内の血まで沸騰させていたという――いずれも人間業ではない。


 フィルニールもそれがわかっていたのだろう。だから素直に逃げることができなかったのだ。生きることを諦めることもできず、がんじがらめになった結果が今の酒浸りのつまらない日々だ。

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