第8話 鼻


「詫びよう。私はとんだ思い違いをしていたようだ。君は強い、私も全力をもって君を倒す」


 山天狗が纏う威圧感が、明らかに増した。

 飄々とした表情の貧乏神に対して、質量があるのではないかと思わせるほどの闘気をぶつける。

 それを真正面から肌で受け止めた貧乏神は、楽しそうに自分の唇をぺろり、と舐めた。


「エリートってのはどうも好きになれないな。その高い鼻、へし折ってやるよ」

 

 貧乏神の挑発に、山天狗が突っかけた。距離を一気に詰め、素早く、正確なジャブを放つ。

 貧乏神は未だ構えらしい構えをとらないまま、そのジャブを顔面に喰らう。

 まともに入った。

 が、貧乏神は下がるどころか一歩前に出る。

 山天狗はその前進を止めるため突き放すように前蹴りを放つ。

 が、貧乏神はまともに前蹴りを受けながらも、ズン、ともう一歩前に出た。

 その前進力に、蹴りを放った山天狗のほうが押し戻される。


『どういうことでしょうか?貧乏神、一方的に攻撃を受けているはずですが、全く下がりません!この打たれ強さはどこからやってくるのかァッ!』


「彼の苦痛に対する忍耐力を舐めない方が良い」


 ぬらりひょんがリング上を眺めながら、言う。


「格闘技術、スピード、正確性、全て山天狗の方が上だろう。だが、忍耐力という一点においてのみは、貧乏神に軍配が上がる。いずれにせよこのままでは埒が明かないな。山天狗は別の戦い方を要求されるだろうな」


 そのぬらりひょんの解説に呼応するかのように、山天狗が構えを変えた。先ほどまでの半身ではなく、体全体が貧乏神に対して正面を向いている。


「……少々、手荒なことをさせてもらうぞ」


 山天狗は跳躍で距離を取ると、素早く両手を組み合わせ複雑な印を組む。


「喝ッ!」


 山天狗が気合の声を発した。

 その瞬間、貧乏神の視界がぐにゃり、と歪んだ。


「あれ?」


 貧乏神が、リングの中央で、ぽかんとした表情できょろきょろと辺りを見回している。

 貧乏神の視界から、山天狗が消えていた。

 目を離したわけではない。


「どこだ!」


 警戒を強め頭部を守るためにガードを上げようとしたその刹那、貧乏神は横っ面に風を感じた。


 ―――

 ―――目の前の床がせり上がってくる。


「っく!」


 一瞬意識を無くした貧乏神は、ダウン寸前で大きく足を踏み出して身体を支えた。

 蹴られた、と理解したのはその時になってだった。

 おそらくはハイキック。側頭部に直撃だ。

 しかし、やはりリング上に山天狗の姿は無い。


『山天狗の放ったハイキックがまともに入りました!危うくダウンしかけたところをなんとか踏みとどまった貧乏神!しかし、これはどうしたのでしょうか?貧乏神、山天狗の姿を見失っているようです!ですが我々にはその意味が分からないッ!』


 実況の夜行さんは混乱している。

 それもそのはずだ。

 山天狗は実際、貧乏神の目の前にいるのだから。

 にもかかわらず、貧乏神は山天狗の姿など無視してきょろきょろと相変わらず周辺を警戒している。


「どこだァ!」


 貧乏神が叫んだ。

 山天狗はゆっくりと回りこみ貧乏神に近づくと、耳元で囁く。


「これ以上続けても、意味はないぞ……」


 貧乏神は突如聞こえた声の方向にがむしゃらに腕を突き出すが、拳は虚しく空を切る。


「妖術【霞隠かすみがくれ】。君の目に、私の姿はもう映らない」


『で、でたぁ~!天狗の真骨頂、妖術が炸裂しています!見えていない、見えていないぞ貧乏神!がむしゃらに繰り出す攻撃は山天狗にかすりもしないぃぃ!』


 山天狗は冷静に貧乏神の動きを見極め、安全圏から打撃を入れていく。

 顔に、足に、胴に。

 首に、腕に、肩に。

 見当違いの場所に拳を突き出す貧乏神をあざ笑うかのように、山天狗の打撃だけが確実にヒットしダメージを蓄積させていく。


「っぐぁ!」


 じりじりと後退していた貧乏神の動きが止まった。

 背中にコーナーポストの固い感触を感じる。

 見えない山天狗からの打撃に、じりじりと後退を余儀なくされ、気づけば逃げ場の無い場所に追い詰められてしまっていた。

 確実にヒット&アウェイを繰り返す山天狗の攻撃に完全にサンドバッグ状態である。

 頭部を守っていた貧乏神の両腕が、だらり、と下がった。


『おぉーっと!貧乏神、ついに力尽きたか?!コーナーポストに身体を預け、もはやガードもできていません。辛うじて立っているだけ、といった様相です!』


 会場からはいつの間にやら山天狗コールが沸き起こっている。

 そろそろ決着か、と誰もが感じていた。


 しかし、そんな中、山天狗のセコンドの木の葉天狗だけが、言い知れぬ感情に苛まれていた。


「何か……何かマズイぜ、山ちゃん」


 木の葉天狗にも、その焦燥がなんなのかはわからない。

 山天狗の試合運びは完璧だ。

 むしろ、山天狗に、奥の手の一つである【霞隠】を使わせた貧乏神は称賛に値する。

 しかし、何故か胸騒ぎが治まらないのである。


「山ちゃん!気を―――」


 気をつけろ、と指示を出そうとした瞬間、それは起こった。


 ぺちん。


 と、貧乏神が力なく突き出しただけの拳が、山天狗の鼻に当たった。


「つかまえた…」


 そう呟いた貧乏神の瞳は、見えていないはずの山天狗の瞳を真っ直ぐに見据えていた。

 山天狗の全身の毛が、ぞわり、と逆立った。

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