第5話 貧乏神
貧乏神は、一人シャワー室で体を洗っている。
備え付けのタオルと石鹸、シャンプーを駆使し、二十数年分の体の垢を落とす。
足元の排水溝は、既にどろどろとした汚れで詰まりかけている。
体を擦っているタオルも墨汁を染み込ませたように真っ黒だし、新品だった石鹸ももはや白いところを探すほうが難しい。
「はぁ~、さっぱりするなぁ……これからはちゃんと定期的に風呂に入ろうかな?」
シャワールームに、貧乏神の鼻歌が響く。
水を弾く貧乏神の身体は、無駄な肉が一切ない。
かといって貧相な体であるかというと、そういうわけでもない。
よく絞り込まれた筋肉が、必要な分、必要な箇所についているのだ。
その筋肉は、さながらピアノ線を寄り合わせ、編みこんで細い束にしたようなものだ。
彼のこれまでの生活が、この肉体を作り出したのである。
彼は生まれてからこれまで、森の奥の奥でひっそりと生活していた。
決して人間が近づかないような、そんな場所で、だ。
当然、自給自足の生活である。
素手で野生の動物を捕らえ、殺し、食べる。
蛋白質とビタミンCを取るため肉は生で食べ、未だ綺麗な川の水を飲む。
そうやって彼はずっと独りで生きてきたのである。
彼にはセコンドがいない。たった一人でここにやって来た。
この大会に出ることを進めたのは、主催者であるぬらりひょんだった。
ある日、彼が狩りを終え、自分の住む小屋に戻ると、囲炉裏の前にぬらりひょんが座っていたのである。
ぬらりひょんは自分の身元を明かすと、彼に言った。
「お前はまだ、自分の強さに気付いていない。今度の大会で己の強さを証明してみろ。そうすれば――」
鼻歌が止まった。
「強さ、ねぇ……」
貧乏神はそれだけ呟くと、蛇口を捻りお湯を止めた。
備え付けの髭剃りで顔を覆っているヒゲを丹念に剃り落とす。
バスタオルで体を拭き、髪の毛を乱暴に絞って水気をきった。
服を着る段階になり、貧乏神の手が止まった。
「そうだな、どうせなら……」
貧乏神は二十数年間着続けた、もはや襤褸切れと成り果てた服を手に取ると、勢いよく引きちぎり始めた。
控え室の扉が開けられた。
がちゃ、という扉の音に、控室に緊張が走る。
いよいよ、試合が始まるのである。
猫娘は焦らすように選手たちを見回すと、おほん、とわざとらしい咳払いをしてから口を開いた。
「ただいまより、一回戦、第一試合の出場者をお呼びいたします。名前の呼ばれた選手は私について来て下さい!」
控室のざわめきが大きくなる。
「まずは……山天狗選手!」
山天狗と木の葉天狗が立ち上がり、壁際から猫娘の前に歩み出た。
「第一試合とはなかなか縁起がいいじゃないか、なんでも一番ってのは気持ちがいいぜ」
山天狗のセコンドの木の葉天狗がそう軽口をたたく。しかしその口調には若干の緊張の色が含まれていた。
「そして、対戦相手は……貧乏神選手!」
返事がない。
たっぷり十秒ほどの沈黙の後、ざわ、と控室に喧噪が戻ってきた。
「え?あれ?貧乏神選手~!いませんか~?」
せっかくの緊張感を台無しにしながら、猫娘はきょろきょろと控室を見回す。
「は~い!はい!はい!居る!居るって!」
控え室の奥のシャワールームから貧乏神が飛び出してきた。
その貧乏神の姿に、控え室の面々が驚きの声を上げた。
貧乏神は、上半身裸であった。
驚きの声の半分は、その体が予想外に絞られ、鍛え上げられたものであることに対するものであったが、もう半分は違った。
「あ、あれ?変だったかな?」
貧乏神は自分の格好を見回すと、照れ笑いを浮かべながら猫娘のほうに駆け寄った。
貧乏神は、着ていた襤褸切れを引き裂いて腰に巻きつけていた。
それはさながらトランクスのように彼の下半身を覆っている。
ぼさぼさで伸び放題だった髪の毛は後ろで一つにまとめて縛ってあるし、髭も綺麗に剃られている。
「ねぇ、これおかしい?」
貧乏神は猫娘に顔を近づけ、尋ねる。
「え?あ、いい!全然!全然いいと思います!むしろアリ!」
猫娘はやや顔を紅潮させてそう答えた。
「あは、そう!それはよかった!」
貧乏神は嬉しそうに微笑むと、猫娘を置いて控え室を出る。
猫娘はというと、やや呆然とした様子で顔を赤らめたままだ。
貧乏神は、かなりの美青年であった。
前髪で隠れてわからなかったが、顔の作りは端正で、優しい目をしている。鼻も高く、汚れを落とした肌は浅黒く健康的であった。
「……行かないのか?」
山天狗に声をかけられ我に帰った猫娘は、慌てて貧乏神の後を追う。
「待って!私の後についてきてください!」
「あ、そうだったんだ、ごめんごめん」
貧乏神は慌てて戻ると、猫娘の後ろにつく。
そうして、貧乏神と山天狗は猫娘に連れられて試合場へと向かっていった。
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