4.検死

 川沿い亭に戻った僕は、ひたすら頭を下げることになった。

 この時間、誰もいないはずのエントランスに彼女はいた。ディアヌさんのいつもと変わらないお帰りなさいの言葉に、僕は救われる思いがした。

 待てど暮らせど帰ってこない僕に対し、本当は怒っていたのかもしれない。でも彼女は何も言わずに僕を迎えてくれた。その瞳は赤く潤み、目の下にはうっすらと隈が見て取れた。彼女が僕のことを寝ずに待っていてくれたことは明らかだった。その優しさが、雨の中の肉体労働で疲弊しきった僕にはたまらなく嬉しかった。

 早朝にもかかわらず、彼女は手際よくサンドイッチを作りコーヒーを淹れ、最高の朝食を用意してくれた。疲れた身体に滋養と愛情が染み渡る。

 そして僕は朝食の後、三時間ほど眠ることにした。

 さすがに徹夜明けではこれからするべきことをうまく出来そうにない。それでなくとも素人同然なのだから体力ぐらいは回復させておきたかった。

 僕はベッドに潜り込み、きっちり三時間後に這い出した。とはいえ肉体的な疲労は残っていて、僕はまだ動きの鈍い身体を鞭打ちながら出掛ける準備をした。川沿い亭を出て診療所へと向かう頃にはすっかり昼を回っていた。


 到着すると、ちょうど午前の診療を終えたところだった。

 受付でユヲン・バークリィであることを伝えると、案内されたのは診療所の一番奥の部屋だった。

 病院の奥にある窓のない部屋、遺体安置所だ。

 安置されている遺体は一体だけ。もちろん、今回の事件の被害者の男だ。

 しばらくすると医師はやってきた。

「おつかれさん、ちったあ休んだのかい?」

 ニーベック医師は熊のような印象の大男だ。

 豊かに蓄えられた髭、その瞳は眼光鋭く、無骨で、街のお医者さんというイメージからはかなり遠い。

 だがそんな強面の男がなにより情に厚いことを僕は知っている。

「三時間ほど寝ました。大丈夫です」

 医師は僕の返事に二回ほど頷いた。

 そして棺の蓋を外した。

 僕と医師は横たわった遺体を前に、アミュレットを握り黙祷した。

「……検死で何か分かりましたか?」

 黙祷を終え、僕は尋ねた。

 この切断死体に関するニーベック医師の見解を僕は知りたかった。

「被害者は男性。痩せ型で長身。栄養状態と服装からおそらく浮浪者じゃな。顎のとがりぐあいとこの彫りの深さは、聞き込みですぐに誰か分かるじゃろうて。あとは……見事に真っ二つ。そもそも切り傷自体、かれこれ二十五年以上見ておらん」

 やはりそうか。僕は乾いた唇を舐める。

というもの、草や紙で指を切った患者すら診ることもなくなったからのう」


 ――、か。


 それは世界を震撼させた日。

 世間では禁剣記念日と呼ばれている。

 今から約二十五年前。

 当時、王都は戦渦の真っ只中にあった。

 北の強国であるゴライアース、南の蛮族達の連合国であるアショーカとの三つ巴の戦いが続いていた。戦は三国が互いに啀み合うことで長引き、始まりから四年近くの月日が無益な攻防に費やされていた。

 その間、何千何万の剣が造られ、兵士は互いに斬りつけ合い、沢山の血が流れ続けた。

 識者の見解によれば、神が戦を嘆いて全ての刃物の使用を禁じたのだとされている。

 を境にすべての剣はその意味をなさなくなった。剣だけではない。槍も斧も弓も、包丁さえも切ることを忘れたように無用の長物と化した。

 長く続いた戦は瞬く間に沈静化した。戦場は神への畏怖に満ち、人々は神の望まぬ行いを続けた罰だと自らを裁いた。国の王でさえもその裁きの前に膝をついたという。人々は自らの行いを大いに反省し、これまで以上に神に祈りを捧げることとなった。

 当時、十四歳だった僕も、のことは鮮明に覚えている。

 この小さな宿場町でさえ、蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。ものを切るという作業が一切できなくなったのだから当然だろう。結果的に廃業せざるを得なくなった職業もいくつもあり、人々は不便な生活をただただ受け入れるしかなかった。


 ニーベック医師は顎に手を当てたまま話を続けた。

「まず最初に、もし二十五年前にこの遺体を見たとしたら、という前提でわしの見立てを話すとしよう」

 狭い安置所に医師の声が響く。

「被害者は正面から鋭利な刃物で袈裟懸けに切られたと考えられる。この綺麗な断面を作るには一撃で骨ごと一刀両断にする以外にない。となると犯人はかなりの剣の達人ということになる。――だが、この見立ては今じゃまったく通用せん」

 医師の言うとおりだった。

 剣で一刀両断にすることはもう出来ないのだから。

「そうなると、もう分からん。犯人はこの時代にどうやって人体を切り分けたというんじゃ?」

 逆に医師に尋ねられ、僕は天を仰いだ。

 そう、これは不可能犯罪なのだ。

「それでも、犯人はいるんです」

 天井を見つめたまま僕は言った。口に出して言うことで、僕の中で何かが点るのを感じた。

 ――犯人を突き止めなければ。

 それは物書きとしての好奇心なのかもしれない。あるいは保安員だった父の血が僕を駆り立てるのかもしれない。

 いずれにせよ僕は犯人を突き止めなければならない。

 そのためにやるべき事は沢山ある。

 まずは現場の検証、そして聞き込み。必要なのは情報だ。できるかぎり沢山の情報を集める。そこから始めなければ今回の事件の謎はずっと謎のままだ。

 誰かが男を真っ二つにしたことは紛れもない事実。ということは、この時代において人体を切断する何かしら方法が存在するはずだ。それを見つけることが出来れば、自ずと犯人にたどり着けるに違いない。

 自然と拳に力が入る。

 僕は小説さえ書ければそれでいいとずっと思っていた。

 それを今日、訂正する。

 僕はこの街の保安員だ。この街の平和をもう一度取り戻さなければならない。ディアヌさんのため、街の人々の生活のためにこの事件を解決し、犯人を探し出さなければならない。

 目の前に山積された問題に対し、僕は立ち向かう決意を少しずつ固めていた。

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