2.守護の女神像

 ノックの音がした。

「バークリィさん! 起きてください!」

 ディアヌさんの切羽詰まった声に、僕は転がり落ちるようにしてベッドから抜け出した。

 眼鏡を掛けて時間を確認する。針は午前一時を刺している。

 部屋のドアを開けると寝間着姿のディアヌさんが立っていた。目を真っ赤に充血させ、今にも泣き出しそうな顔をしている。そしてその横に男がいる。坊主頭に口髭。見覚えのある顔だった。川沿い亭の従業員で、名前はギルビー。

「バークリィさん、すまねえ……人が、人が死んでんだ」

 真っ青な表情でギルビーはそう口にした。


 ――人が、死んでいる。


 その言葉があまりにも非日常的過ぎて、一瞬うまく理解できなかった。

「……ど、どういうことですか?」

 少し間を空けて僕は言った。

「女神像の足下で、人が人が、あんなの俺、見たことねえ……とにかく来てくれよ! なあ! 頼むよ!」

 男は少し酒の匂いをさせていたが、酔いはすっかりと覚めている様子だった。

 雨音は一時期よりもましになってはいるものの、まだ続いている。

 僕はコートを羽織って魔法のカンテラを手にし、階段を駆け下りた。

 傘を差して外に出る。

「わ、私も行きます!」

 叫ぶように言って、ディアヌさんが雨に濡れるのもお構いなしに僕の腕にしがみついてきた。

「駄目だっ!」

 僕は普段出さないような強い口調でそう言った。

「ディアヌさんはここにいてください! 危険なことがあったら大変ですから」

 もし本当に人が死んでいるのなら、まだ何かしらの危険な状態である可能性が高い。それに第一、彼女に死体なんて見せるわけにはいかない。

「でもバークリィさん……」

 雨に濡れているが、彼女の目から涙が流れ落ちているのが分かった。心配してもらえるのは嬉しいが、彼女を危険に晒すことはできない。

「これは保安員としての僕の仕事です。現場を確認したら必ず戻ってきますから。いつものサンドイッチと温かいコーヒーを用意しておいてください」

「……はい、わかりました。ちゃんと……戻ってきてくださいね」

 泣きながら何度も頷く彼女の頭を撫でてから、僕は女神像のある街の中心部へと走り出した。

 すぐにズボンの裾が雨に濡れ、冷たくなる。

 女神像へと向かう途中、僕は一度だけ川沿い亭の方を振り返った。

 三階の窓に灯りがともっていて、少しだけ開いているのが見えた。

 今日、三階の部屋を使っている旅行客は一組しかいない。僕の記憶が確かなら、食堂ですれ違った帽子の男と大きなフードの少女だ。

 彼らがこんな夜中に起きていることを少し不審に思いながらも、僕は差している傘を抱えるようにして女神像へと向かった。


 守護の女神像は街の中心部に建てられている。

 そこから放射状に道を敷く形で街は形成され、川沿い亭は南南東に位置している。

 守護の女神像はちょうど人と同じぐらいのサイズだ。硬質の粘土で出来ていて、絹のような柔らかなローブを身に纏った姿で右肩に水瓶を掲げている。

 水瓶からは水がちょろちょろと流れ落ちている。女神像を中心にその足下には大きな円状の水場がつくられていて、流れ落ちる水を受け止めていた。

 水は魔法の力で水瓶へと引き上げられて循環し、再び流れ落ちる仕組みだ。

 僕は魔法のカンテラで女神像を照らした。

 いつもと同じように、女神像は美しく、肩に掲げた水瓶から水が落ち打っている。

 だが水の色だけがいつもと違っていた。

 ワイン色だった。

 血液の溶けた水がちょうどワインのような深みと透明度を持った深紅を作り上げていた。

 そして、女神像の足下に――それはあった。

 死体。僕はそれを見て死体だとすぐに分かった。


 なぜなら男は――からだ。


 右肩から、左の脇腹に掛けて、まっすぐに切断されている。

 二つに分かれた男の死体は水の中に乱暴に投げ入れられたようにバラバラに放置されていた。

「あ、ああ……」

 何か言おうと思ったが言葉が出ない。嗚咽に似た何かが僕の口から勝手に零れ出た。

「お、お、俺の言ったと、ととおりだろ……」

 発見者であるギルビーも同じような状況だ。

 あまりに衝撃的な出来事の前に、僕は動けなかった。

 どうしていいか分からなくなっていた。

 シナモーリフは平和な街のはずだ。そのはずなのに、どうして、どうしてこんな……。

 どうしてと逃げたいが頭の中でぐるぐると回っている。

 いや、だめだ。こんなことではいけない。

 動かなければ。

 考えなければ。

「い……医者を呼ぼう」

 掠れた声で僕は言った。

 ギルビーが大げさに首を縦に振り、僕の言葉に同意を表す。

「それから現場確保だ……ロープを張って、勝手に人が中に入らないようにしなきゃ」

 少しずつ脳みそが働き始める。

 ディアヌさんの心配そうな顔が脳裏をよぎった。

 僕は唇を強く噛んだ。

 シナモーリフは平和な街……だった。

 昨日までは。

 存在するはずのない

 ありえない現実が、今、僕の目の前にある。

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