3.ユヲン・バークリィはブルーチーズサンドを頬張る
スープの匂いで目が覚めた。
ベッドに潜ったまま、手探りでデスクの上に置いておいた眼鏡を耳に引っかける。僕はこれがないと何も見えない。
見慣れた部屋の風景をレンズ越しに確認してから大きく伸びをする。ランチ用のスープの仕込みが始まったということは今は九時半ぐらいのはずだ。
歯磨きをし、着替えて髪をといて一階に降りる頃にはもうすでに十時を回っている。この時間になると僕以外のお客さんはすっかりと朝食を終えていて、食堂は空っぽだ。
「……おはようございます」
厨房に顔を出して僕は挨拶をした。
支配人のディアヌさんがコックコートのエプロンで手を拭きながら呆れた顔で溜息をつく。
「何時だと思ってるんですか。バークリィさん」
ディアヌさんは十代の若さでこの川沿い亭を切り盛りしている。父親の急逝から始まったことだが、その悲しさを表には決して出さない。僕の半分も生きていないというのに立派なものだ。
「いやあ、原稿書いてたらすっかり寝るのが……」
「はいはい」
僕の言い訳を肯定二回で切り上げ、彼女は慣れた手つきですでに重ねて置いてあるパンを三角に切り分ける――糸で。
包丁が使えなくなってからというもの、調理は非常に難しくなったそうなのだが、パンぐらい柔らかなものなら糸で十分カットできるようだ。
「ブラックでいい?」
「お願いします」
ディアヌさんの仏頂面に僕は笑顔で答えた。
彼女は支配人だというのにこうして厨房にも入るしよく働く。そして僕の朝食を準備してくれるのもいつも彼女だ。
メニューは毎日同じものにして貰っている。
ブルーチーズのサンドイッチ。そしてブラックコーヒー。
僕は食堂の一番隅のいつもの席に腰を下ろす。
しばらくするとサンドイッチとコーヒー……と、剥かれたオレンジを乗せた小さな小鉢が運ばれてきた。
「いや、僕、酸っぱいのは苦手で……」
手の平を左右に振って断ろうとする僕を無視し、ディアヌさんは言った。
「臭いチーズばかり食べてないで、たまにはビタミンも取ってください。バークリィさん」
ふくれっ面をして見せるディアヌさん。本人は凄んでいるつもりなのだろうが、正直ただかわいいだけだ。
「食べてくださいね」
「は、はぁい……」
一転、にこやかな表情で言われ、僕は抗えずにそう答えた。
ディアヌさんの笑顔は草原に吹く一陣の風のように爽やかで、僕の湿った心をいつも気持ちよく洗ってくれる。夕焼けのように赤い髪は情熱的でありながらも気品があり、ただ後ろで束ねているだけなのに、その飾らない感じさえも彼女の愛らしさと美しさを見事に際立たせ……あ、いや、悪い癖が出てしまった。話を戻そう。
いつもブルーチーズサンドばかり食べている僕に、こうしてお小言を言いながらもちゃんと毎日かかさず作ってくれる。彼女の優しさに僕は大いに感謝しなければならないと思う。
ここ川沿い亭はシナモーリフで唯一の宿屋だ。
魔術都市アルフィドに近く、宿場町としての歴史は古い。だがその規模で言えば小さいと言わざるを得ない。
大抵の旅人は、温暖で魔物の少ない南ルートを通ってソティカドやエイブリッジ、ニルアーサあたりで宿を取る。わざわざ北ルートを通ってシナモーリフに立ち寄るのは一部の酔狂な者だけだろう。つまり、この街が小さいのは必然と言うことだ。
僕はこの小さな宿場町で保安員をやっている。父がやっていたのをそのまま引き継いだ格好だ。保安員は王都から選定され派遣される、というのが法律上の流れではあるのだが、シナモーリフのような辺境の小さな街では世襲制で適当に配置されていることが多い。
父は皆から慕われていたし、先代からの不動産などでかなりの財を成していた。僕自身は取り立てて何が出来るわけでもないのだが、それをそのまま受け継ぐことで僕の今日の生計は成り立っている。
この川沿い亭も父の残してくれた資産の一つで、一応、僕がオーナーということになっている。でも僕はオーナーと呼ばれるのがいささか気恥ずかしく、みんなにはバークリィさんと呼んでもらっている。
元の家は僕の集めた蔵書でほとんど埋まってしまい、いまは川沿い亭の最上階の四階で寝泊まりしている。最上階はよほどのことがない限り宿泊客で埋まることがなく、静かで、小説を書くにはうってつけだった。階段の上り下りはいささか労力ではあるものの、日頃の運動不足を解消するには丁度いい。
宿屋はなかなか埋まらない最上階を僕で埋めることができ、僕は静かな執筆環境と三食の食事を提供してもらえて、まさにウィンウィンの関係だ。
朝食を終えた僕は居室に戻り、昨日ようやく脱稿した小説の原稿をとんとんとまとめて鞄に入れた。
書き上げた原稿を王都に送る。僕が描く物語はいつもまだ刃物が使えた頃の話だ。今回は剣士が魔術師と組んで飛竜退治をする話。王道ながら人物造形に力を入れた。出来は悪くないと思う。
原稿を送りに行くついでに街をぐるりと回って挨拶をしてまわる。
ほとんど形骸化しているが、街の見回りは父から保安員を受け継いだ僕の唯一の仕事だ。
昔は魔獣に襲われることも多かったようだが、今は平和そのものだ。
僕が保安員を受け継いでから十年以上経つが、魔獣の襲来なんてただの一度もない。あっても喧嘩ぐらいのもので、大きな事件というのは起こった記憶がない。
一〇〇年前に英雄が街を襲う怪物を倒したとき、それを記念して街の中心部に守護の女神像を建てたことで魔獣が寄り付かなくなった、ということになっている。だが、立派なガントゥが付いているものの、女神像自体にそんな効果はないはずなので、魔獣の生息地が変わったか数が減ったか、何かしら他の要因が関係していると思うのだが詳しいところはよく分からない。
まあでも平和に越したことはない。大きな事件が起こっても僕にはほとんど解決する能力はないし、そもそも腰を据えて小説を書けなくなってしまうからそれは困るのだ。
階段を下り、食堂を通り抜けて玄関でアミュレットを握った。出掛ける前はいつもそうしている。
アミュレットは基本の三大神を模したオーソドックスなものだ。
ミズナラの木の枝、金属片、水晶片。
この三つを付けたアミュレットは街の誰もが身につけていると言っていい。
「午後からは雨みたいですよ。お気をつけて」
出掛ける僕にディアヌさんが声をかけてくれた。
その言葉に僕は空を見上げた。
まるでこの街の平和を表すかのように良く晴れていて、雨が降りそうな気配はひとつも感じられなかった。
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