第366話 空っぽの家(後編)
伊織の家事がひと段落すると、緑依風は彼女と共に自宅へ荷物を取りに帰った。
「(大丈夫……今までだって、誰もいない日はあったんだし)」
緑依風は自分にそう言い聞かせ、ガチャリと鍵を回す。
ドアを開けると、しんとした家の中の様子に一瞬身が縮こまったが、緑依風は平然を装って「じゃあ、まずは着替えから……」と伊織に言って、二階の部屋へと向かった。
三日分の服、下着、携帯充電器、ストレートアイロン、ヘアブラシ、それから大事な葉っぱのイヤリングを鞄に詰めて、今度は一階の洗面所へ向かい、歯ブラシを持ち出す。
「あ、スマホは……学校の鞄かな」
部屋には通学鞄は見当たらなかった。
ということは、リビングにあるのだろうと思い、足を踏み入れた時だった。
「もう嫌よっ!もう疲れたっ……!あの店で働くのも……あなたと生活するのも……!私の人生、あなたのせいで狂わされた!!」
「お母さん、あなたは賢い子だと思ってた」
「私はもう、お父さんと一緒にいたくない。緑依風、あなたともね」
「さよなら緑依風……」
母の声が、まるでエコーがかかったかのように緑依風の耳奥で何重にもなって響き始める。
「あ……!」
「緑依風ちゃん……?」
緑依風が両手で耳を塞ぎ、床に崩れながら膝をつくと、伊織が異変に気付いて駆け寄る。
大丈夫だと言おうとしたのに、顔を上げると目の前には、そこにいないはずの両親が言い争う姿が映り、二人の口論までもが重なって響き出す。
「は……っ、ぁ……」
両親の声、伊織の声がぐちゃぐちゃに混ざって、わからなくなってくると、今度は息もしづらくなってきて、まるで水の中で溺れているようだった。
「緑依風ちゃん、一旦ここから出ましょう」
伊織はパニックになった緑依風をなんとか立たせ、玄関まで引きずりながら連れてくると、緑依風の通学鞄と他の荷物を片手に持ちながら、松山家を後にした。
「おばさん……ごめんなさい……」
坂下家に戻り、気持ちが落ち着いた緑依風が謝ると、伊織は「気にしないで」と言って、緑依風の頭を撫でる。
伊織は一度畳んだ布団を敷き直し、荷解きは後にして休むよう緑依風に伝えると、ふすまを閉めて小さくため息をついた。
「(緑依風ちゃんの心の傷、思ったより深いみたいね……)」
緑依風は一度断ったが、やはり専門の病院へ連れて行くべきか。
だが、無理にでも連れて行くなんてしたら、ますます傷を抉ることに繋がらないだろうか。
一日、二日で元気になれるようなものではないのはわかっている。
でも、痛々しい緑依風の心を少しでも早く癒してあげたい。
「(病院に連れて行くことが無理でも、カウンセラーを家に呼べば……それよりもいっそのこと遠出して、家から完全に離してみる?それとも……)」
「母さん……」
伊織が振り向くと、秋麻と冬麻が心配そうに壁の角から顔を覗かせる。
「緑依風ちゃん、まだぐあいわるいの?かぜじゃないのに?」
まだ難しいことはわからないが、緑依風の見たことない姿に冬麻は強い不安を感じているようだ。
「うーん……心の風邪、かなぁ?緑依風ちゃんは頑張り屋さんだから、心が風邪引いちゃうこともあるの」
「そっかぁ……」
「…………」
秋麻はじっと、和室の戸を見つめている。
伊織は、そんな次男坊の肩に手を置くと、「いつも通りでいいのよ」と、息子の心中を読んだように言った。
「その方が、緑依風ちゃんだって安心できるんだから」
「うん……」
「――さっ、もうちょっとしたら買い物に行くから、出かける準備して!今日は牛乳と洗剤とキャベツ買うから、二人共荷物持ち手伝って!」
伊織が明るい声を作って、息子達の背中をポンっと叩くと、冬麻は「はーい!」といい返事をして二階に駆け上がり、秋麻は「へいへい……」と、面倒くさそうに言いながらリビングを出る。
「(一番、普段通りを気を付けなきゃいけないのは、私の方かもね)」
伊織は自分の心にそう言い切かせ、身支度を始めるのだった。
*
部活が終わった後、風麻は立花に会い、葉子や千草達の話を聞き、自分も緑依風の現状を話した。
「――じゃあ、千草も優菜も……青木んちに連れて来られた本当の理由は知らないんだな?」
立花から説明されたのは、こんな内容だった。
優菜には、緑依風と北斗が酷い風邪を引いてしまい、伝染るといけないからここにいると言い、千草には『何も聞くな、余計なことは言うな』と言って、葉子の許可無しに家の外に出ることを禁じてるらしい。
「私も、ちーから聞いた話しか知らなかったの……。でもまさか、緑依風がそんなことになってたなんて……っ」
立花が悲痛な面持ちでそう言うと、風麻も軟禁状態の千草や優菜のことを思い、胸が苦しくなった。
「教えてくれてありがと、坂下。もし、何かあったら連絡するから……緑依風のこと、お願いね……」
「おぅ……緑依風の気持ちが落ち着いてきたら、青木と先輩で会いに来てやってくれよ。身内に味方がいるってわかったら、あいつも心強いと思うし……」
「うん……」
立花と別れた後、風麻は彼女から伝え聞いた話を振り返っていた。
まずは、優菜が本当の理由を知らないことに安堵した。
まだ幼い彼女に、今の状況を理解なんてさせたくない。
しかし、千草のことを思うと、風麻の表情は曇る。
母親に無理やり連れ出され、不安な胸中のまま閉じ込められているなんて……。
恐らく立花は、家に帰って千草に自分から聞いた話を伝えるだろう。
それを知り、千草はショックを受けるだろうが、何も知らないままよりは気持ちが落ち着くことを祈るしかない。
家に着くと、ダイニングテーブルの上に、白いメモ用紙が置いてあった。
『買い物に行ってきます。緑依風ちゃんはまた具合が悪くなったので寝てます』と書かれていた。
風麻が様子を見ようと、そっと和室の戸を開けると、眠る緑依風の目元が涙に濡れている。
「……っ、う……ぅ」
風麻は、眠りながらすすり泣く緑依風のそばに寄ると、彼女の片手を包み込むように握った。
「緑依風……。緑依風は、一人じゃないぞ……」
風麻は緑依風の手を握ったまま、そっと語り掛ける。
「――俺がいる。……父さんも母さんも、秋麻も冬麻も、爽太、相楽達、空上、晶子、青木と海生先輩……千草も優菜も……みんな、緑依風のことが大好きだから……っ」
だからもう、夢の中でまで自分を責めないでくれ……。
風麻はそう願いながら握った手に軽く力を込め、彼女のそばに寄り添い続けた。
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