第364話 悪いのは
緑依風がトイレから戻ると、伊織が彼女の顔が赤いことに気付いた。
体温を測ってみると、ほんの少しだけ熱があるようだ。
「喉とかは全然痛くないんですけど……」
緑依風が風邪の時のような症状は無いと伝えると、「色々あったから、体もびっくりしちゃったんだろう」と、和麻が言った。
「おじさんにスポドリ買ってきてって頼んでおいてよかったわ。熱冷ましのシートは買い置きがあるし。水分取ってから横になってね」
伊織がグラスにスポーツドリンクを注ぎ、緑依風に渡す。
「(今のおばさんは……緑依風がこうなってること知っても、何も思わないのかな……)」
風麻は、緑依風のおでこに冷却シートが貼られる様子を見ながら、昼間の出来事を思い出す。
千草と優菜はどうしているだろう。
置いてかれてしまった緑依風も辛いだろうが、葉子の元にいる千草と優菜も、母親から何か酷いことを言われたりしていないだろうかと心配になる。
血の繋がりは無くたって、風麻にとって二人は大切な妹だ。
「(そうだ……青木なら、千草達のこと何か知ってるかもしれない)」
風麻は部屋に戻ると、立花に明日の部活の後に会えないかと、メッセージを送った。
*
その少し前――。
青木家では、千草が不安な面持ちを湛えながら、立花の部屋で膝を抱えていた。
「……りっちゃん、お姉ちゃんから返事来た?」
「ううん……」
立花が首を横に振ると、千草はギュッと縮こまり、泣くのを我慢しているようだった。
「(緑依風、大丈夫かな……)」
昨日の夜から今朝までは、立花も海生も葉子が何故千草達を連れて家に来たのか、詳しい事情を聞かされていなかった。
なので、立花は学校で直接緑依風と話をしようとしたのだが、行事が立て込んでいたせいで運悪く会えず、帰り際に靴箱付近がざわついていたので、不思議に思っていると、立花がそこに来る直前まで、緑依風が気分を悪くして蹲っていたという話を聞いた。
心配で、何度か連絡を試みているのだが、緑依風からは返事も既読も付かない。
リビングの外では、海生が松山家の状況を知ろうと両親の会話に聞き耳を立てている。
「
青木姉妹の父で、松山夫妻にとっては義理の兄にあたる
「ううん、相変わらず。緑依風のことも……考えを改める気になれないみたい」
青木姉妹の母で、葉子の姉である花は、昨晩から何度も妹の説得を試みたが、彼女は話しかければ話しかける程ヒステリックになり、お手上げ状態だ。
「北斗くんの方は?」
「離婚する気はない。謝るから帰ってきて欲しいって言ってた。……でも、もう謝られたくらいで、葉子ちゃんが許せる心境じゃないって伝えたら、ショックな顔して黙り込んじゃったな」
北斗とは、ホテルに勤めていた頃、先輩後輩の間柄だった春生。
ホテルの専属パティシエを辞めて、独立を考える彼をこの地に呼んだのも、先に自分の店を構えた春生だった。
「――だから何度も言ったんだ。家族に頼りきった運営は、いずれ崩壊するって。もっと早く、外部の人間を頼るべきだった」
「でもハルさん……俺、家族と一緒にいたいから、葉子に協力を頼んだんです。葉子のことが大切だから、信頼しているから……一緒に店をやりたいって……」
「葉子ちゃんが大切なら、尚更お前は葉子ちゃんの気持ちに気付けるはずだった!本当に大切に思うなら、彼女がとっくに限界だったことは、言葉にされずともわかるはずだ!」
春生は北斗とのやり取りを振り返り、テーブルの上で手を組みながら深いため息をついた。
「とりあえず、北斗の方は俺がなんとかする。多分このままじゃ、葉子ちゃんに誠心誠意謝って謝って……また同じことを繰り返す予感しかしない。葉子ちゃん達に戻って来てもらうには、あいつの考え方ごと改めさせないと意味が無い」
「そうだね。葉子のことは……少し時間がかかると思うけど、北斗くんと話ができるように、説得を続けるわ。緑依風の様子も、明日見に行ってくる」
「あ、それなんだけど……お隣の坂下さんちが――」
「(えっ?)」
海生が父の話し声が詳しく聞こえるよう、より注意深く耳を澄ませていると、「お姉ちゃん」と、立花が忍び足でやって来て手招きをした。
「今、坂下からこんな連絡があって……」
立花がスマホの画面を見せると、緑依風が今、坂下家にいること。
そして、明日話がしたいという内容が書かれていた。
「千草にはこのこと言った?」
「ううん、多分これ知ったらちーも行くって言うだろうし……」
千草は葉子に家の外に出ることも、緑依風や北斗に連絡を取ることも禁じられていて、言いつけを破れば厳しい叱責が待っているだろう。
葉子を不用意に刺激する行動は、なるべく控えておきたい。
「坂下も多分、ちーと優菜のこと心配してくれてるだろうし、私も緑依風のこと知りたい」
「私は明日何も予定無いから、千草達のそばにいるわ。立花は風麻くんと話してきて」
「わかった」
二人がそう会話してる間、奥の部屋では優菜を寝かしつけた葉子が、薄暗い部屋の中で末娘の寝顔を虚ろな目で見つめていた。
まだ丸っこい柔らかなほっぺ、小さな鼻と口。
その寝顔が、親不孝者と置いていった緑依風の幼い頃と重なると、葉子の心に滲むのは、苛立ちよりも虚しさだった。
「(いいえ、裏切ったのはあの子よ……。私は緑依風のことを思ってしてきたのに……あの子は北斗を選んだんだもの……。あんな恩知らずな娘……もういらない……いらないの)」
自分が注いできた愛情を否定された怒りと、これでよかったのかという迷いが、代わる代わるに葉子の中で浮かび上がる。
「(私は間違ってない……。悪いのは、北斗と緑依風よ……)」
葉子は揺らぐ気持ちにそう言い聞かせ、自分を肯定した。
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