第363話 看病(後編)
それからしばらくして――。
「緑依風のメシ、できたってさ!」
風麻が小さい土鍋と温かいほうじ茶が乗ったトレーを持って、和室にやって来た。
風麻が土鍋の蓋を開けると、ふんわりと味噌の香りがする雑炊が入っていた。
「私、味噌仕立てのって初めてかも」
「坂下家では、風邪引いたり具合悪い時の定番ご飯なんだ!」
ふわふわのたまごとネギが入った雑炊は淡い色合いで、食欲がない人の胃に優しそうだった。
風麻はそれをお茶碗に盛りつけ、緑依風が火傷しないように、木のスプーンでぐるぐるかき混ぜながら冷ましてくれる。
「ほい、まだ熱いかもしれないから、火傷に気をつけて食えよ」
風麻からお茶碗を受け取った緑依風はクスクスと笑い、「こういう看病ならありがたいね」と言った。
緑依風は雑炊をスプーンの先端で少しだけすくい、口元へ運ぶ――が。
「(どうしよう……)」
食欲が湧かない。口が開かない。
それでも、せっかく用意してもらったのだ。
無理やりにでも食べないと――。
「……っう、ぐっ……!」
「緑依風?」
雑炊を飲み込んだ途端、胃が食べ物を拒むように押し返してくる。
緑依風は慌てて口元を押さえ、もう一度飲み込もうとする――が。
「無理すんな、出せ!」
風麻がティッシュを数枚取り出し、緑依風に渡すが、緑依風は首を横に振り、なんとか飲み込んだ。
「げほっ、げほっ……!」
無理やり嚥下したせいで食べ物が気管に入りそうになり、咳き込む緑依風の背中を、風麻が上下に擦りながら「大丈夫か?」と心配する。
「うん……。でも、ごめん……もう食べられない……っ」
「気にすんな……。腹減ったら少しずつ食べたらいい……」
風麻はそう言って、食器と土鍋を下げ、伊織も緑依風に残したことは気にしなくていいと、彼女の頭を撫でて言った。
「お水はさっき飲めてたみたいだから、お茶だけ置いておくね。多分まだ心と体がいっぱい疲れてるんだと思う。もう一回横になって、ゆっくり休んでね……」
伊織はそう言って緑依風に眠るように促し、灯りを消して部屋を出て行った。
引き戸が閉められると、緑依風は静かに目を閉じ、部屋の外から聞こえる無邪気な冬麻の声、静かにと注意する風麻の声と、腹が減ったと空腹を訴える秋麻、早く食べたいならお手伝いしてと言う伊織の声に耳を傾ける。
賑やかな、家族の声――。
まだ母達が家を出て行って一日しか経っていないのに、どうしようもない程恋しくて、涙が止まらなくなる。
*
午後八時を過ぎると、風麻の父である和麻が仕事から帰宅した。
「ただいま~!」
「お父さんおかえり~っ!」
お風呂上がりのアイスを食べていた冬麻が、ぴょんぴょこ跳ねながら父を出迎えた。
「きいてきいて!緑依風ちゃんがしばらくおとまりしてくれるんだよ!」
「おう、母さんから聞いてるよ!」
和麻は事情を知らない冬麻の喜びっぷりを微笑ましく思いつつ、昼過ぎに妻から送られたメッセージの詳細を知りたそうに、伊織に目配せする。
「緑依風ちゃんは?」
「夕方から眠ってる。詳しい話は冬麻を寝かしつけてからするから、少し待っててくれる?冬麻、アイス食べ終わったら歯みがきしてね」
「は~い!」
和麻はコートとスーツを脱ぎながら、窓越しに松山家の方を見る。
まだ九時前だというのに、家の灯りが一つも点いていない。
家の中に、誰もいないことを示していた。
*
それから約一時間後。
ダイニングテーブルに風麻、伊織、和麻が集まった。
和麻が伊織から伝えられていた情報は、松山家でトラブルが起き、しばらく緑依風をうちに置きたいという、最小限のことだったため、二人から更に細かな事情を聞いた彼は衝撃を受け、厳しい表情になっていった。
「――なんでだろうなぁ、あんなにいい子なのに。もし緑依風ちゃんが俺の娘なら、自慢して歩きたいくらいだ……」
和麻は肘をついた手で額の辺りを押さえながら言った。
「きっと奥さんも、緑依風ちゃんがなんでも素直に聞いてくれるから、甘えちゃったんじゃないかしら。でもっ……だからって、思い通りにならなくなった途端見捨てるなんてあんまりよ……っ!」
伊織は先程までの緑依風の状態を思い出し、また目に涙を滲ませている。
「とりあえず、緑依風ちゃんと松山さんちの状況はわかった。俺は別に緑依風ちゃんを置くことは構わないし、いっちゃんと同じで、今の家に帰すのは良くないと思う。旦那さんも、悪い人じゃないが……多分緑依風ちゃんの心のケアまでする余裕は無いだろう」
「…………」
風麻は俯いたまま、何度も湧き上がる緑依風の両親への怒りを抑えようと、膝の上の拳を握り締めていた。
「風麻」
父に呼ばれ、風麻が顔を上げる。
「緑依風ちゃんのこと、一番支えてあげられるのはお前だぞ」
「そう、なのかな……」
風麻は自信無さげに肩を落とし、口ごもる。
「緑依風んちがああなったのは、俺にも原因がある……。俺が本音を言えなんて言わなければ……。それに、支えるっていったって、どうしてやったら……っ」
緑依風が過呼吸の発作を起こした時も、狼狽えるだけで何もできなかった。
爽太のように気のきいたセリフを言うこともできないし、母のように彼女の身の回りの世話ができるわけでもない。
無力だ。
「緑依風ちゃんが不安な時に、そばにいてやる。それだけで充分だ」
「父さん……」
「カッコつけたり、難しい励ましの言葉なんか考えなくていい。緑依風ちゃんが泣きたい時、寂しい時にすぐ心に寄り添えるようにしてやるだけでいいんだ」
「うん……」
風麻が頷くと、ガラッ……と、和室の引き戸が開かれ、緑依風がそっと顔を覗かせた。
「あら、起きたの?」
伊織が椅子から立ち上がり、緑依風のそばへ寄る。
「ちょっと、トイレに行きたくて……。あ、おじさん……」
和麻の存在に気付いた緑依風は、「お邪魔してます……」と、申し訳なさそうに頭を下げた。
「話はおばさんから聞いてるよ。緑依風ちゃんのことは、こ~んなにちっちゃい時から知ってるし、自分ちのようにくつろいでくれ」
和麻がニッと笑みを浮かべると、緑依風は「ありがとうございます」とお礼を言って、トイレへと向かった。
「もちろん、女の子じゃないとわからない悩みは、お母さんが聞くわ」
伊織が話に戻り、風麻に言う。
「この年頃の子っていうのは、男の子に言いにくいことや、理解してもらいにくい悩みもいっぱい抱えてるものだから、そういう時は女の子同士の方が言いやすいと思うし」
「プッ……“女の子”同士って……!」
「ふっ、くくっ……女の“子”ではないよな……!」
風麻と和麻が笑いを堪え、こっそり小声でで言い合うと、「絞められたいんか?」と、伊織がにっこり微笑みながら威圧感を放つ。
「いえ……」
「スミマセンでした……」
風麻と和麻は伊織の黒いオーラに気付くとピタリと固まり、謝るのだった。
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