第361話 頑張ったね


 お母さんの笑った顔が大好きだった。


 お手伝いをすると、嬉しそうに「ありがとう」って言ってくれた。


 テストでいい点を取ると、「すごい!頑張ったね!」ってたくさん褒めてくれた。


 もっと、お母さんの喜ぶ顔が見たい。


 私が頑張る理由は、ただそれだけだった――。


 *


「ぅ……」

 少し離れた場所から、トントントンと包丁で食材を切る軽快な音がする。


 辺りには、甘辛い香りが漂い、人の気配も感じられた。


 緑依風がゆっくり目を開けると、天井の模様が自分の部屋のものではない。


「あ、緑依風ちゃんおきた!」

 そう言って、顔を覗き込んだのは――。


「あ……あれ?冬麻……?」

 緑依風が声のする方へ振り向くと、冬麻がニコニコしながら「おはよ~!」と挨拶をした。


「えっと……」

 覚醒しきれていない頭で、緑依風が現状を把握しようとしていると、風麻も和室に入って「お、目覚めたか?」と言った。


「水飲めるか?……寝汗すごいぞ」

 緑依風が起き上がろうとすると、風麻は彼女の体を支えながら、枕元に置いてあったミネラルウォーターを手渡す。


 喉がカラカラだった緑依風は、水を一気に流し込むように飲むと、「ごめん……」と、謝った。


「(そうだ、お母さんが出て行って、その後……)」

 一連の出来事を思い出した途端、鳩尾みぞおちの辺りが重苦しくなる。


「緑依風ちゃん、具合はどう?」

 伊織が料理の手を止めて、和室に入ってきた。


「おばさん、ごめんなさい……迷惑かけちゃって……」

「困った時はお互い様よ。ずっとそうしてきたお隣さんじゃない」

 伊織が言うと、緑依風は「ありがとうございます……」と言って、掛布団を捲り上げる。


「私、帰らないと……」

 静かになってしまった自分の家に。


 父が帰って来るまでは、一人ぼっちだ。


 怖い……。

 でも、これ以上風麻の家に迷惑はかけたくない――。


 緑依風がそう思いながら立ち上がろうとした時だった。


「そのことなんだけどね」

 ――と、伊織が話を切り出した。


「緑依風ちゃん、しばらくうちで暮らしましょう?お父さんには、もうお話しておいたから」

「え……?」

「風麻とお父さんから、おうちのこととお母さんのこと聞いたの……。辛かったわね……。でも、頑張ったわ。今、おうちに一人で置いておくのは心配だし、お父さん帰り遅いでしょう?また具合が悪くなった時、そばにいてくれた方が私も……?」


 緑依風の瞳から、ぽたっ、ぽたっ……と透明な雫がこぼれ落ちている。


「緑依風……?」

「わたし……がんばって、ましたか……?」

「えっ?」

 風麻と伊織が、目を見開く。


「わたしっ……お母さんに喜んで欲しくてっ……頑張ってたつもりだったけど……っ、でもっ、どこまで頑張ればいいのか……ずっと、わからなくてっ……!あと、どれだけ頑張ったら、おか……さん、また前みたいに、笑って、くれるか……って、思って……っ!でもっ……おかあさ……わたしのことっ……もう、い……いらないって……!」


 緑依風はそう言って、喉奥から溢れそうな声を懸命に押し殺し、伊織はそんな彼女を力強く抱き締め、涙を滲ませていた。


 風麻も、いつも気丈に振る舞っていた緑依風が、本当はどれほど苦しかったのかという気持ちと、こんな状態になるまで娘を追い詰めた挙句、見捨てていった葉子への怒りで、目頭を熱くさせながら拳を握り締めている。


「緑依風ちゃん、よく頑張ったね……っ!ずっと、ずっと……頑張ってたね……!」

「そうだぞ、緑依風の頑張りは……俺も母さんも、相楽達だってみんな知ってるんだからな……!」


 緑依風は自分を抱き締めてくれる伊織に、かつての母の影を重ねて、余計に涙が止まらなくなった。


 葉子も緑依風が小さい頃は、何も期待せず、何も求めずに愛情をくれる優しい母親だった。


『頑張ったね』


 緑依風がずっと欲しかった言葉。


 それをくれたのは、自分の母ではなかったが、長く張り詰めていた緑依風の心は、今やっと報われたかのように解れていった。


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