第360話 一つ屋根の下で


 北斗が経営するケーキカフェ、【木の葉】の前までやって来た伊織。


 周囲を見渡せば、今日も多くの人達が美味しいスイーツを食べようと並び立っており、学生アルバイトらしき女の子が、近隣の建物や歩行者、車の邪魔にならぬよう、列を整備している。


「ただいま、入店まで約一時間程お時間を頂いておりまーす!お持ち帰りの方のみ、入り口まで起こしくださーい!お待ちの際は、当店の壁に沿うようにしてお並びくださーい!」


 今日も忙しそうだ。


 だが、そんなことを気にしている場合ではない。


 伊織は案内係の女の子に、松山家の隣人であることを名乗り、北斗を呼び出して欲しいと頼んだ。


 *


 案内係の子から、坂下の名を聞いた北斗は、少々困ったような笑みを浮かべながら伊織の前に現れた。


「こんなところですみません……。ですが、今日はとても忙しくて……」

 北斗は、厨房に一番近い事務室に伊織を通すと、用意した椅子に手を差し出し、「どうぞ」と言った。


 伊織が、軽く会釈をしてそこに座ると、「もしかしなくとも、緑依風のことですよね……?」と彼は眉を下げてバツの悪そうな顔をする。


「はい。それから、奥様が千草ちゃん達を連れて出て行かれたことも、風麻から聞きました」

「…………」

 北斗は顔をしかめ、短くため息をつくと、「風麻くんにお恥ずかしいところを見せてしまい、申し訳ありません……」と、静かな声で謝罪した。


「――ですが、これは我が家の問題ですので、これ以上のことはあまりお話できないと言いますか……。緑依風には、悲しい思いをさせてしまいましたが、妻が戻ってくるまでは、親子二人でなんとかやるしか……」

「泣いてる緑依風ちゃんを、置いて行ったそうですね」


 北斗の愛想笑いがピタリと固まる。


「お母さんが出て行ってしまって、とても心細い時に……」

「ですが、その……っ」

「緑依風ちゃんはあの後、過呼吸を起こしました。その前に学校でも一度発作が起きていたそうです」

「…………」

 北斗は動揺し、目を白黒させている。


 そして、娘に対し申し訳なく感じているような表情を浮かべ、両手で顔を覆った。


「今はうちで休ませて、風麻についてもらっています。……それで、ここからが本題なのですが、奥様とのことが落ち着くまで、緑依風ちゃんをしばらくうちでお預かりさせてもらえませんか?」

 伊織がそう言うと、北斗は「えっ?」と顔を上げる。


「いや、そんな……さすがにそこまでお世話になるのは……」

「今の緑依風ちゃんを、あの家で一人にさせる方が可哀想です」

 伊織に毅然とした態度で言われると、北斗は何も言い返せなかった。


「松山さん……今回のこと、伝え聞いた話でしか私は知りませんが、家族のことを家族だけで解決しようとしたのが、一番の原因じゃないでしょうか?」

「…………!」

 北斗はハッと息を呑み、顔を赤く染める。


「緑依風ちゃんのことは、私達に任せてください」

「…………」

 北斗はしばらく迷っていたようだが、今の自分に緑依風のことまで気遣える余裕が無いことを認めると、伊織に深々と頭を下げ、「よろしくお願いします……っ」と、声を絞り出した。


 *


 その頃――。


 坂下家では、昼食の時間を忘れるくらい、友人とサッカーに夢中になっていた秋麻が、「たっだいま~!腹減った~!!」と元気良くリビングのドアを開けて入ってきた。


「しーっ、静かにしろ!」

 風麻が口元に人差し指を立て、小声で秋麻に注意する。


「今、そこの和室で緑依風が寝てるんだよ……」

「え?なんで緑依風ちゃんがうちで寝てるんだよ?」

 秋麻が首を傾げると、風麻は緑依風の身に起こった出来事を簡潔に説明した。


「……で、しばらくうちに泊まるってわけね」

 状況を理解した秋麻は、バスケットに保管していたスティックパンを食べながら言った。


「今、母さんがおじさんにそれを言いに行ってんだけど……おっ?帰って来た」

 玄関から聞こえた「ただいま~」の声に気付いた風麻は、リビングに入ってきた母に、「どうだった?」と振り返る。


「お願いしますって了承をもらったから、しばらくうちに置くことにしたわ」

 伊織はそう言いながら、手に提げていたコンビニの袋をテーブルに置き、「はい、お昼これ食べて」とおにぎりを取り出す。


「緑依風ちゃんは起きたかしら?」

 時刻はまもなく十三時半を迎えようとしていたが、和室は静かだ。


 伊織が戸を開け、緑依風の横に座ると、風麻と秋麻も母の後ろに膝立ちになって、そっと様子を伺う。


 彼女は顔にじっとりと汗を滲ませ、苦悶の表情を浮かべながら眠っていた。


 伊織は取り出したハンカチで、額からこめかみに伝う緑依風の汗を拭き取ると、「目が覚めたら着替えさせてあげないと、風邪引いちゃうわね……」と言って立ち上がり、和室を出て行った。


 しばらくすると、伊織は自分のパジャマと、買い置きしていた未使用の肌着を持って戻ってきた。


「もうしばらく、寝かせてあげましょ」

 伊織はそう言って、息子二人を和室から出るように促し、手に持っている着替えを緑依風の枕元に置く。


 風麻が母の手にある衣類を目で追うと、肌着はどうやらパンツとインナーシャツのみで、胸に当てる物は無い。


「(まぁ、そうだろうな……。うちの母さん、絶壁だし……)」

 ――と、風麻が胸の内で呟いた時だった。


「せや、大事なこと言うの忘れとったわ……」

 和室の戸を閉めた伊織が、普段とは違う言葉遣いと低い声で言いながら、風麻に振り向く。


「あんた……緑依風ちゃんがうちにいてはる時に、着替え覗いたり、手ぇ出したりしたら……どうなるかわかってるやろうなぁ?」

 伊織が顔を近付けて威圧すると、風麻はゾゾーッと背筋を震わせ、「かっ、母さんは息子の俺をそんな風に見てんのかよ……!す、するわけねぇじゃん……!」と、必死の形相で訴える。


「ならええけど……。もし、緑依風ちゃんにやらしいことしたら……例え息子であっても、問答無用でしばき倒すからな!」

「……ッ!!」

 風麻が涙目になってコクコクと頷くと、伊織は「よろしい」と言って風麻から離れ、「じゃ、お昼食べましょ」と、いつも通りの様子に戻った。


「はぁ~っ……。母さんが実家の方言になる時は、ガチで怖いぜ……」

 風麻が胸を撫で下ろし、深いため息をつくと、「うちは将来、嫁と姑の結託が強そうな気がするよ……」と秋麻は言い、哀れみの目で兄を見つめるのだった。


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