第359話 隣人
閑静な住宅街に、少女の嘆きが響き渡る――。
自分の発言がきっかけで、家族の関係が壊れてしまった。
母には『不要』と見限られてしまった。
あまりに耐え難い出来事に、緑依風は大きな声を上げて泣き出した。
「うっ……っ、おっ……お、かあ……さ……っ、おと……さ……っ!」
「緑依風っ……」
風麻が、両親を呼びながら泣き続ける緑依風を抱き締めると、彼女は風麻にしがみ付くように彼の背に腕を回し、「わぁぁぁぁっ――!!」と、悲しい叫びを上げた。
「ちょっと、どうしたの――!?」
家の外で響く泣き声に、ただ事じゃないと思って出てきた風麻の母親――伊織は、息子の腕の中で、見たことの無いような様子で泣き喚く緑依風を見て「何があったの!?」と駆け寄る。
「母さん、事情は後で話すから、緑依風をうちに入れてやってくれ!」
風麻に言われると、伊織は緑依風を支えながら家の中へ連れ帰り、風麻は開けっ放しになっていた松山家のドアと門扉の戸締りをした。
風麻が家へ戻ると、緑依風は再び過呼吸を起こしてしまったようで、伊織が彼女をソファーに座らせ、ゆっくり呼吸をするように声掛けする。
――が、パニック状態になっている緑依風はなかなか言われた通りにできない。
「緑依風、いったん息吸ったらちょっとずつ吐くんだ」
「……っ、は……ぁ、はっ……は」
風麻もそばに寄り添い、爽太が言っていたことを思い出しながら話し掛けるが、声が届いていないのか、緑依風の息継ぎは浅く速いまま変わらなかった。
「(どうしたら……っ)」
真っ赤な顔で苦しそうに喘ぐ緑依風。
一向に良くならぬ状況に風麻が狼狽えていると、「緑依風ちゃん」と、伊織が彼女の名を優しく呼びながら、横からギュッと抱き締める。
「緑依風ちゃん、おばさんの方向いて……」
伊織はそう言って、丸まっていた緑依風の背を起こし、彼女の頬を両手で包むように支え、微笑んで見せた。
緑依風は、今やっと伊織の存在に気付いたように目を丸くしたが、息苦しさに朦朧としていた意識が戻ったのか、乱れた息を整えようと、息を吐く速度を弱めていく。
「ゆっくり息して……そうそう、もっとゆっくりね……。うん、上手上手……大丈夫よ……」
伊織がそのまま、小さい子をあやすように緑依風の頭を撫でながら声を掛け続ければ、緑依風は安心したように目を閉じ、次第に呼吸も穏やかになっていった。
*
緑依風の過呼吸が落ち着くと、伊織はリビング横の和室に布団を敷き、緑依風をそこに寝かせて休ませることにした。
最初は遠慮していた緑依風だが、心身共に疲れていたのだろう。
伊織が緑依風が横になるのを見届けて僅かな時間で、気絶するように眠ってしまった。
「――それで、緑依風ちゃんに何があったの?」
伊織が、ダイニングテーブルの椅子に座って俯く風麻に、緑依風に起こった出来事について尋ねた。
風麻は、緑依風から伝え聞いた話。
そして、目の当たりにした隣家の松山夫妻と緑依風のやり取りを全て母に話した。
「……そう、緑依風ちゃん辛かったわね」
伊織はそう言って、緑依風が眠る和室に目を向ける。
「俺、緑依風の母さんがあんな人だとは思わなかった……。俺が知ってるおばさんは……」
優しくて、綺麗な人。
家の前で会えば明るく挨拶してくれるし、幼い頃は転んで泣いてしまった緑依風に手を差し伸べ、痛いのが飛んでいくおまじないをしていたのに……。
「(それなのに……さっきのおばさんは……)」
まるで別人のように、冷たい目をしていた。
伊織は、沈痛な面持ちの息子を見つめながら、緑依風と松山夫妻の親子関係について考えていた。
葉子とは、同い年の子供を持つ母親同士仲が良かったが、以前から彼女の緑依風に対する接し方が気になっていた。
緑依風は賢く、素直な子だ。
最初は出来の良い娘に期待するあまり、つい厳しくなってしまうだけなのかと思っていたが、その根底は葉子だけのせいではなく、夫の北斗にも原因があると、風麻から聞いた内容で理解した。
葉子は夫への不満を伊織に自ら話したことは無い。
だが、木の葉に出勤する回数や時間が増えたここ数年はずっと顔色が悪く、大丈夫かと聞けば、「緑依風が家事を協力してくれるおかげでなんとかやれてる」と、弱々しい笑みで答えていた。
そもそも、その時点ですでに松山家のバランスはおかしかったのだ。
遊びたい盛りの中学生の協力が無ければ家のことを回せないなんて、木の葉の経営状況を考えれば、新たに人を雇えば改善できるはずなのに、北斗はそれを妻に全て丸投げし、葉子の心を追い込んだ。
そして葉子は、そんな夫と同じ道を歩みたいと望む緑依風を嫌悪し、三人の娘の中で緑依風だけを残して去って行った。
葉子が離婚を言い渡し、千草と優菜を連れて出て行ってしまったということは、次に犠牲になるのは――。
そこまで考えたところで、伊織は下唇をギュッと噛み締め、決意を固めた。
「風麻、しばらく緑依風ちゃんをうちで預かりましょう」
「えっ!?」
唐突な提案に、風麻は素っ頓狂な声を上げる。
「えっ、ちょっ……それって、緑依風がうちで暮らすってことか!?」
「そうよ!」
椅子から立ち上がった伊織は、すぐさまエプロンを取り外し、肩掛けのショルダーバッグを手に取り、出かける準備を始める。
「し、しばらくって……」
「松山さんちが仲直りするまで……ううん、緑依風ちゃんが家に帰っても大丈夫な状態になるまで!」
「えぇ~っ……」
風麻は困惑しているうちに、伊織はポーチの中に財布と携帯を入れ終わり、リビングのドアノブに手を掛けていた。
「じゃっ、これから緑依風ちゃんのお父さんに伝えてくるから!」
伊織はそう言ってリビングを後にし、風麻は「いってら……」と、ポカンとした顔で見送る。
パタン――と、扉が閉まると、風麻は口を半開きにしたまま、和室とリビングのドアを交互に見つめ、再び「えぇ~っ……」と、気の抜けた声を漏らすのだった。
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