第357話 崩壊(中編)
葉子は千草と優菜を連れ、最低限の荷物だけ持って、家を出て行ってしまった。
真っ暗闇の家の外では、千草が葉子を引き留め、何故出ていくのか理由を尋ねようとする声がしていたが、それはどんどん遠くなり、三人が家から離れていっていることを表している。
「…………」
緑依風が母に本音を吐露してから、ほんの僅かな時間だった。
何が起こった……?
動揺のあまり、緑依風の頭の中は真っ白で、状況を考えようにも何もわからない。
「……っ、だ、大丈夫……だよ」
放心している緑依風に、北斗がなんとか声を掛けて落ち着かせようとする。
「ハルさんの家なら近いし……ちょっと感情的になってるだけだ。すぐ帰ってくるさ……」
北斗は無理やりな笑顔を見せるが、緑依風と同じように動揺しているのは明白だった。
「緑依風は明日も学校だろう?とりあえず、今日はそっとしておこう……」
「うん……」
*
自分の部屋に戻り、明日の準備を終えた緑依風は、明かりを消してベッドに潜った。
目を閉じ、眠ろうとしてもなかなか寝付けない。
何も考えられず、何も感じられずにいたまま時間だけが過ぎ、気が付けば空は明るくなっていて、寝ていたのかそうでないのかもわからない。
目覚まし時計が鳴り、ぼんやりした頭が覚醒してくると、前日の出来事や、母が家を出て行く光景が蘇る。
「お母さん……」
緑依風はシーツをぎゅっと握りしめると、ベッドから降りて学校に行く準備を始めた。
リビングと繋がるキッチンへ向かい、朝ご飯を作るための卵を取り出す。
「(なんだろう……?この感じ……)」
家の中が、酷く静かだ。
物音どころか、人の気配すら――と、考えたところで緑依風は思い出す。
「そっか……いないんだ」
母だけでなく、千草も優菜も。
自分以外誰もいない空間に響くのは、目玉焼きを焼くパチパチという音のみ。
いつもなら、大好きな子供向け番組を観るために起きてくる優菜の足音も、気だるそうに文句を言いながら洗面所に入っていく千草の声もしない。
緑依風がテーブルにパンと目玉焼きとベーコンが乗ったトレーを置くと、父親の字で綴られたメモが置かれていた。
北斗は今日も、朝早くから店に行ってケーキを焼いているのだろう。
メモには戸締りをちゃんとするようにという内容と、あまりお母さんの言葉を気にするなという内容だった。
緑依風はそれをトレーの横に置き、「いただきます」と言って、トーストを手に取る。
サクッとした焼きたてパンをかじる音は、こんなに大きく聞こえるものだっただろうか。
自分の音しかしないリビングは、なんだか知らない場所みたいで居心地が悪く、口の中の食べ物が喉を通らなくなる。
「いってきます」
通学靴を履いた緑依風は、いつもの癖で後ろを振り返りながら家族に挨拶をする。
だが、そこに「いってらっしゃい」と言ってくれる者は誰もいない。
しん……とした無音と、緑依風だけが存在していた。
緑依風は、もぬけの殻となった家の中に居続けることが怖くなり、ここから逃げ出したい一心でドアノブに手をかける。
これは夢だ。
はやく……早く、目を覚まさなきゃ――!
昨夜の出来事を。
そして、この現状を認めたくなくて、緑依風は自身にそう言い聞かせながら、玄関扉を大きく開いた。
「……っ!」
外に出ると、毎年この時期近所の庭に咲く花の香りを含んだ、あたたかな空気が鼻をかすめ、眩しい朝日が緑依風を照らす。
「んじゃ、いってきまーす!」
隣の家からは、風麻の元気な声が聞こえて、緑依風の存在に気付いた彼は「おぅ、おはよーさん!」と、いつも通りの挨拶をくれた。
見慣れた光景と、毎朝行うやり取り。
それは、緑依風に叫びたい程の安心を与えてくれたのと同時に、これが悪夢ではなく現実であると突き付けるものだった。
「ぁっ……」
「……どうした?」
風麻は様子のおかしい緑依風に駆け寄り、そっと彼女の肩に触れる。
「……っ、うっ……うぅ~っ……」
風麻の手が触れた途端、緑依風は堪えきれずに泣き出してしまい、風麻は「えっ?どうしたんだよ?」と困惑しながらも、彼女が落ち着くまで寄り添って、背中を
*
しばらくすると、「学校に遅れちゃうから」と、緑依風はしゃくりを抑えながらゆっくり歩き始め、泣いた理由は後で話すと風麻に伝えた。
学校に着くと、涙の痕跡が残る緑依風の顔を見た亜梨明や奏音は心配したが、二人にも「今は話せないから、また今度話すね」とだけ説明し、席に座った。
修了式が済み、ホームルームを終えると、明日からの春休みに浮かれる者もいれば、四月からのクラス替えが嫌だと、名残惜しさに教室を離れられない者達がいる。
「緑依風、帰ろう……」
直希や男友達との会話を手短に済ませた風麻が、緑依風に声を掛ける。
今日は、いつもの六人で帰ろうという約束だったのもあるが、朝から元気の無い緑依風を気遣ってのことだろう。
緑依風はそれを申し訳なく思いつつも、彼や緑依風が話すまで理由を聞かないでいてくれる相楽姉妹に感謝した。
廊下に出れば、爽太や星華が教室の前で三人を待ってくれていた。
二人も、緑依風が暗い顔をしていることが気になったようだが、緑依風が「今は聞かないで欲しい」と頼むと、それ以上は追及しないでくれた。
階段を下りて靴箱の近くまで来ると、一人の男子生徒が「早く家帰ってゲームの続きするぞ~!」とワクワクした表情で、友人と共に緑依風達のそばを駆け抜けていく。
「…………」
普段なら気にも留めない他人同士の会話。
だが、緑依風はある言葉に無意識に反応し、胸の奥がズシンと重くなるのを感じた。
「あ~、通知表ヤバすぎてぜってー母さんに殺される~っ!」
「うちなんて、父さんにも通知表見られるんだぜ~……。次また悪い成績取ったら小遣い減らすって脅されてんのにさ~……」
たくさんの生徒の話し声の中で、家、父、母、成績に関することだけが、緑依風の耳の奥でこだまし、前日の記憶を蘇らせていく……。
氷のように冷たくなる手足、ドクンドクンと大きく打ち震える鼓動――。
「(あれ……なんだろ……息、が……)」
上手く吸えない。吐き出せない。
呼吸の仕方が、わからない。
「……っは、はっ……はぁ……」
「緑依風?」
靴を履き終えた風麻が、緑依風の異変に気付く。
その途端、彼女はガクッとその場に崩れ落ち、苦し気で不規則な息遣いで喘ぎ始めた。
「……っ、おいっ!緑依風⁉緑依風どうしたんだよ……!?」
風麻が緑依風の肩を掴みながら叫ぶ。
「緑依風ちゃんっ!」
「緑依風、大丈夫⁉」
亜梨明と奏音も、緑依風に駆け寄り声を掛ける。
「落ち着いて、多分過呼吸だ!」
爽太が混乱する四人の間に割って入り、床に片膝をついて緑依風の背に触れる。
「松山さん、ゆっくり呼吸して……!苦しいかもしれないけど、吸ったら少し我慢して、ちょっとずつ息を吐いて……そう、そのまま繰り返して……」
爽太の声が届いた緑依風は、彼の合図に従いながら、吸い込んだ空気をゆっくりと吐き出す。
「ちょっと、周り離れてよ!」
星華は緑依風や自分達を囲うようにできた人だかりを遠ざけようと、集まってきた人達を注意した。
爽太に言われた通りの呼吸法を続けるうちに、だんだん息苦しさが和らいできた緑依風は、自分を心配した様子で見守る風麻達に、「ありがと……落ち着いた……」と告げ、顔を上げた。
だが、ザワザワと聞こえる複数の声と視線に気付くと、居たたまれない気分になり、再び下を向きながら「早くここから離れたい……」と、訴えかける。
風麻達は緑依風の心情を汲み取り、症状が治まったばかりの彼女の身を支えたり、荷物を代わりに持ってあげたりしながら、早々に彼女をこの場から連れ出してくれた。
そして、かつて捨てられていた子猫を見つけた公園まで移動し、緑依風はそこで昨日起こった出来事について友人達に語り始めるのだった。
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