第356話 崩壊(前編)


「私は……っ!他人の幸せの為に、あとどれだけあなたに不幸にさせられるのっ!?」


 葉子のキンとした叫びが、リビングに響く。


 緑依風は母が怒鳴る姿に怖気づきながら、茫然としている父に視線を移した。


「ふっ、不幸……?」

 北斗は妻の言っている言葉の意味がわからず、小さく首を傾げる。


「ねぇ、北斗……。あなた、ホテルの専属を辞めて独立するって決めた時、なんて言ったか覚えてる……?『もっと家族と一緒にいたい。家族を大切にしながら、ケーキ作りを続けたい』そう言ったから、私はあの時……その言葉を信じて、応援しようと思った」


 緑依風はその頃、まだ物心がついて間もなかったが、母から聞いた話で少し知っている。


 ホテルに勤めていた頃の父は、早朝に出かけて、日付が変わる頃に帰るのが当たり前の日々。


 土日休みなど関係無い職業な上に、人手が足りなければ代理で出勤し、忙しすぎて家族と過ごす時間はほとんど無い。


 幼い緑依風は、北斗が自分の父親だということもわからず、たまに起きてる時間に北斗に会うと、知らない人がいると怖がって泣きだした。


 そんな愛娘を見て、このままでは良くないと思い、彼は一念発起して独立することを決めたのだ。


「――なのに、あなたは結局お菓子作りのことばかり。子供達の成長を一緒に見たいなんて言っておきながら、たまに会話する程度で入学式も卒業式も一度も来ないし、寂しい思いをしている子供の気持ちに寄り添おうともしない!それだけじゃない!家事も育児も任せっきりの私に、店の仕事をどんどん増やして……っ!家族との時間を作るどころか、私の時間まで奪っていった……っ!」


 葉子の言う通り、開店当初の店の経営は、北斗や数名の従業員のみで全てこなしていたし、葉子はたまにその手伝いをする程度だった。


 しかし、そんな穏やかな日々は最初の数年のみで、知名度が上がれば店は年々忙しくなり、北斗は店の経理事務、ホール作業、シフト作成を葉子に任せ、自分は厨房をメインに働きたいと言い出した。


 より良いサービスを続けるには、葉子の協力が必要だと。


「……で、でもそれは葉子も納得して引き受けたんだろ?それに、今はその話よりも、緑依風の進路の話だったじゃないか……。葉子の不満は今度ちゃんと聞くから、緑依風の話を――」

「いいえ。……今、全部言わせてもらうわ」

 葉子はそう言いながら立ち上がり、赤く充血した目を緑依風に向ける。

 

「……緑依風。お母さん、あなたは賢い子だと思ってた。だから、いずれは私の思いも苦労も理解して、素直に言うこと聞いてくれるって期待してたのに……どうやら、見込み違いだったみたいね……」

「………っ」

「葉子!そんな言い方は無いだろ!」

 北斗が珍しく声を荒げ、緑依風を庇うように妻の前に立つ。


「緑依風には緑依風の考えがあるんだ!いっぱい考えて、その上で出した気持ちを話してくれたのに!」

「考えて出した答えがそれ?……なら、もう一度考え直させないといけないわね!」

「それは、葉子の希望通りの人生を選ばせるまでってことか!?緑依風は君の操り人形じゃないんだぞ⁉」

「そうよっ!私がお腹を痛めて産んだ大切な子供よ!だからこそ、あなたみたいになって欲しくなくて言ってるんじゃないっ!!」

「俺みたいにって……!」


 妻の言葉に、北斗は愕然とした表情で絶句する。


「あなたみたいに、好きなことだけに没頭して、家族を蔑ろにするような……ケーキと一緒で頭の中まで甘ったるい人間……。そんな人になって欲しくない……」

「…………っ」

 北斗は俯き、拳を震わせたまま何も言い返せない。


「それに、私は何もあなたのことだけで、緑依風がパティシエールになるのを否定してるわけじゃない。ねぇ北斗、あなたはたまたま自分の店を構えて、頼れる人を頼りまくって成功した人だけど、同じ道を歩んだ緑依風まで、北斗のようにずっと上手くやっていけるか……考えたことある?」


「そ……それは……」


「木の葉をあなたから受け継いで、今と同じように繁盛させられるか。その前に、理想と現実の差に挫折した緑依風が、お菓子の道を諦めて別の道を選択して生きていかなければならない苦しみを抱えた時、あなたはどう声を掛ける?……あなた、さっき言いかけてたわね。『努力を続けてれば』って。悩める緑依風が何歳になっても、パティシエールになるための努力を続けろって言う?それとも、本気で努力していないとでも言って、冷たく突き放す?」


 北斗はまた押し黙ってしまい、額に冷や汗を滲ませている。


「好きなことを仕事にして上手くいく人間なんて、ごく僅か……。努力だけではどうにもならない。才能や運だって関係する。北斗はただ、それに恵まれていただけ。親子であろうと、緑依風まで同じように成功するなんて限らないし、もしこれから緑依風が結婚、出産を経験したら、ますますあなたと同じように仕事をこなすことは難しくなる……。北斗はそこまで考えた上で、緑依風に木の葉を継がせようとしていたの?」


「…………」

 北斗が沈黙を続けていると、葉子は乾いた声で笑い「ほらね……」と言った。


「あなたは結局、口先だけで応援して、緑依風のことを何も考えていない。だから私や子供達よりも店や菓子に関わることばかり優先して、のほほんと生きていられるんだわ。そんな人が『俺達は“家族”なんだから』なんて言葉、よく言えたわね?私達を一番に考えられない人に、家族なんて語って欲しくないわ!」


 葉子は思いの丈を全てぶつけると、北斗の後ろで項垂れている緑依風のそばへ歩み寄る。


「――ねぇ、緑依風。あなたがなりたいって言った大人はこんな人よ。今までは、それでも父親だからと思って、子供達の前では悪く言わないように我慢していたけど、最初にお父さんのようなパティシエになりたいって言い出した時、正直言ってゾッとしたわ。血は争えないんだって……」


 緑依風は乾いた唇を噛み締めながら、一歩、また一歩と近付く母の足先を見つめた。


「今すぐ納得できなくてもいい。けど、いつかわかるわ。お母さんの方が正しかったって。これからはお母さんの言った通りにする。パティシエールになりたいなんて二度と言わないって約束できるなら、許してあげる……」

「…………」


 緑依風の全身は震えていた。


 しかし、それは恐怖ではない。


 母に対して初めて抱く、煮えたぎるような熱い感情――怒りだった。


「……いやだ」

「え……?」

「――私はもうっ、お母さんの言いなりにはならないっ!!」

 緑依風は勢いよく立ち上がり、はっきりと葉子に言い放つ。


「お母さんが辛かったのはわかったよ!でも、お母さんが望んだ通りにしたって、私が幸せになれるかなんてわからないじゃないっ!!私の人生なのに、高校も、やりたい仕事も、なんで全部お母さんに決められなきゃいけないのっ!?私はっ、お母さんのために生きてるんじゃない!!」

「…………!?」


 葉子は、初めて反抗的な態度を見せる娘の姿に驚愕し、表情を凍り付かせるが、緑依風の一度吹き出した感情は、先程の葉子同様に止まらない。


「それにっ……さっきのお父さんへの言葉もひどすぎるっ!確かにお母さんはずっと苦しかったかもしれないけど、言っていいことと悪いことがあるし、私だってお母さんからの、テストで必ず一番取れっていうプレッシャーがずっと苦しくて苦しくて……っ!お母さんの方こそ、私のこと全然何にもわかってないっ……!!」


 一つ言い終えるごとに、緑依風の瞳からは涙が溢れ、声が詰まりそうになるが、彼女は短く息を継ぎ、言葉を繋ぐ。


「……パティシエの仕事の本当の大変さは、まだ知らないけど……でもっ、私の道は私が決める。たとえ失敗したって、お母さんに決められた通りに生きるより、ずっと自由だもん……っ。もう、お母さんに縛られていたくない……好きにさせてよ……」


 溜め込んだものを全て言い終える頃には、頼りない声になった。


 それでも、初めて母に本音を吐くことができた緑依風は、「言えた……」と、やり切った気分だった。


 緑依風が「はぁ……っ」と息を吐き、濡れた顔を拭いながら母を見ると、彼女は目を閉じたまま、小さく頷くような動きを何度も繰り返している。


「そう……緑依風の本当の気持ち、よくわかったわ」

 葉子は静かに呟くと、北斗のそばを横切り、リビングを出て二階へと上がっていった。


 すると、夫婦の寝室からガタゴトと物音が聞こえ、それが済めば、今度は荒々しい足取りで千草や優菜が眠る子供部屋へと入っていく。


「お母さん……?」

「葉子……?」

 緑依風と北斗が階段の下から二階を見上げると、今度は困惑する千草と優菜の声が聞こえて来た。


「ちょっ、ちょっと……なに?何でこんな時間に海生ちゃんちに行くの!?」

「…………!」

 緑依風は千草の声で、母親が妹二人を連れて家を出ようとしている事に気付いた。


 葉子は、寝ぼけ眼の優菜を抱きかかえ、少し大きめのボストンバッグを持ちながら、ドスドスと足音を立てて階段を下りて来る。


「お姉ちゃん、何があったの!?なんでお母さんこんなに怒ってるの!?」

 千草は、ただならぬ母親の様子に動揺しながら、緑依風に問いただした。


「千草、そんな親不孝な子放っておきなさい」

「えっ……?」


 緑依風が傷付いたように小さく声を漏らすと、「葉子っ!!」と、北斗が怒るが、葉子はそんな夫と長女に軽蔑の眼差しを向けるだけで何も言わず、狼狽える千草の腕を強引に掴みながら家を出て行ってしまった。


 ――ガチャン!と、玄関のドアが閉まる音が、緑依風と北斗の前で響く。


 置いて行かれた二人は、呆然とドアを見つめたまま、動けなかった。


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