第355話 亀裂(後編)


「大事な話?」

 目の下にクマを浮かべた葉子が、ゆらりと立ち上がる。


「うん。お母さんと――それから、お父さんにも聞いて欲しいことがある」

 緑依風がダイニング側の椅子に座ると、その対面に葉子が座り、北斗は葉子の隣の椅子を引いて腰を掛けた。


「どうしたんだ、急に改まって?」

「あのね、私もうすぐ三年生でしょ?それで、そのっ……進路について、二人に話しておきたいことがあって」

 緑依風は緊張に乾いた喉を潤わそうと、ゴクリと唾を飲み、膝の上に置いた震える手を何度も握り直す。


 大丈夫、何度も練習したんだから――。


「あのっ、知ってると思うけど……私、お父さんと同じ洋菓子の道に進みたいの!」

「…………」

 葉子の目尻が、ピクンと動く。


「パティシエールになって、いずれは木の葉を継ぎたい。お母さんはこの前『現実を見なさい』って言ったけど、私はずっとずっと前から本気で……お父さんみたいな、お菓子で人を幸せな気持ちにできる……そんな洋菓子職人になりたいって思ってたの」


 ここからが本題だ。


「そ……それでねっ、高校卒業したら私っ、製菓の専門学校に行きたい!でもその前にっ、木の葉でキッチンに入って、お父さんのケーキ作りを間近で見て学びたい……!だ、だから……っ」


 葉子の顔は真っ赤だった。


 怒っている。怖い……。それでも言い切らなければ――。


「お母さんごめんなさいっ!わ……わたしっ、高校は春ヶ﨑じゃなくて、洋菓子の勉強もしながら通えるとこに行く!お父さんっ、受験が終わったら、私に厨房の仕事も教えてくださいっ!」


 緑依風は深く頭を下げて、両親に懇願する。


「……いいじゃないか!」

 沈黙を最初に破ったのは北斗だった。


「…………!」

 緑依風が顔を上げると、北斗はとても嬉しそうな笑みを浮かべていた。


「もちろん、お父さんは全然構わないよ!ただし、例え娘でも木の葉で商品を作る側になるなら、菓子への妥協は一切許さない」

「はい!」

 緑依風がしっかりとした声で返事をすると、北斗は真っ直ぐと自分を見る緑依風を見つめ返し、彼女の真摯な気持ちに応えるように頷く。


「厳しい世界だけど、緑依風は頑張り屋だし、根性もある。洋菓子作りへの真剣さも今までだって充分伝わってたし、これからも努力を続けてれば、いつか木の葉を任せることだって――」

「――馬鹿言わないで」

「えっ……?」


 一度は和らいだ場の空気が、葉子の一声で再び張り詰める。


「なんで……?どうしてあなたは……っ!」

「お母さん……?」

 テーブルの上で、葉子の握り拳が震えている。


「そんなの、ダメに決まってるじゃない……!緑依風はたくさん勉強して、良い高校、良い大学に入って、立派な企業に就職するの……っ!そうなってもらわなきゃ……!」

「お母さん、あのっ……!」

「だいたい……人を幸せな気持ちにできる仕事って何?そのせいで私がどれだけ我慢してきたと思ってるの……?」

 葉子はそう言うと、隣に座る夫を鋭い目つきで睨み付ける。


 そして――。


「私は……っ!他人の幸せの為に、あとどれだけあなたに不幸にさせられるのっ!?」


 ――と、これまで抱え続けた想いを爆発させた。


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