第353話 他人の幸せ
深夜――。
松山夫妻の寝室では、葉子が夫不在の二人用ベッドの中で横向きになって蹲り、日中の会話を思い出していた。
*
それは、葉子が事務室で従業員のシフトを組み立てている時だった。
スケジュール帳を確認するために、厨房から北斗がやって来た。
「――ねぇ、優菜の卒園式のことだけど……」
黒いボールペンを手に取る夫に、葉子が話を切り出す。
「ほんの数時間だけなんだから、一緒に参列しない?シフト今見てたけど、佐藤くんも百瀬くんもいるし、少し遅れるくらいなら大丈夫でしょう?」
佐藤と百瀬は、北斗と共にパティシエとして働く従業員だ。
二人共すでに一人前と言っていい程の技量を身に着けており、安心して木の葉の厨房を任せることが出来る――が。
「悪いけど、卒園式は葉子に任せるよ。繁忙期で忙しいのに、店長の俺が家族の用事で抜けるのは店の子達に申し訳ないし。それに、その日は雑誌の取材が夕方から入ってるから、何を喋るか考えたいんだ」
北斗は葉子に見向きもせず、埋まり切っているスケジュール帳にまた新たな予定を追加する。
「……優菜、さっきお迎えに行った時、寂しそうに言ったのよ。冬麻くんのとこはお父さんも来るのに、なんでうちは無理なの?って」
「そりゃ、うちはケーキ屋だし、そうなるのは仕方がないってわかってもらうしかないよ。ビデオさえ撮ってもらえたら、その場にいなくとも優菜が無事に幼稚園を卒園したんだって確認できるし……」
「そう言って、あなた緑依風達のビデオだって一度も観なかったじゃないっ!」
葉子が我慢できず、椅子から立ち上がって叫ぶ。
「み、観る暇ができれば、いずれ観るよ……」
北斗は怒りに肩を震わせる妻を宥めるように、やんわりとした口調で言うと、「あんまり大声出したら、スタッフやお客さんがびっくりするだろ……」と、注意を付け加えた。
「…………」
葉子は収まらぬ感情を何とかしまい込み、口を真横に結んだまま座り直す。
北斗も、険しい表情の葉子から逃げたい気持ちを抑え、彼女の元へと歩み寄った。
「……葉子には、いつも感謝してるよ」
葉子の耳元に、夫の弱々しい声が降り落ちた。
「家のこと、子供達のこと、店のこともやってもらって、すごく助かってる」
「…………」
「――でも、俺は自分を求めてくれる人の気持ちにはできるだけ全て応えたい。俺が考えたスイーツを食べに来てくれる人、俺の技術を知りたいって弟子になってくれた子や、これからの俺に期待してくれる人……みんな大事にしたい。そのためには、葉子の支えがなきゃ!」
「私の……?」
「そうだよ!俺はお菓子作りを通じて、たくさんの人を幸せにしたい!これまで苦労もいっぱいあったけど、誰かの「美味しい」の笑顔で全部吹き飛ぶ!それを見れたのは、葉子がいてくれたおかげだ!」
北斗はそう語り終えると、満足気にため息をつき、項垂れたままの葉子の肩にそっと手を置いた。
「だから、これからもよろしく頼むよ。俺達は“家族”なんだから」
*
あの後、北斗は言葉にならない程の憤りを感じていた葉子に気付きもせず、事務室を出て厨房へと戻っていった。
「(他人と、北斗の幸せのために、私は……子供達は――!)」
葉子が悲しみと怒りが混ざった気持ちでシーツを握り締めていると、風呂を済ませた北斗が寝室へ近付く足音が聞こえる。
カチャッ――と、ドアノブの音を立てて入ってきた北斗は、間接照明の温かな光に照らされる妻の顔を覗き込む。
「葉子……もう寝たか?」
「…………」
何も話したくない葉子は、夫の声掛けに反応せず、目を閉じたまま寝たふりをする。
北斗は照明のスイッチをオフにすると、掛布団の中へ潜り込み、何かを期待するように背後から抱き締めて脚を絡ませてきたが、葉子はもうそれに応える気持ちにはならない。
薄暗い室内で、葉子の心はそれよりももっと深く暗い闇へと染まり行くのだった。
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