第351話 本音


 翌週の火曜日。


 期末テストが全て返却され、終礼の時間はクラスでの成績上位十名と、学年成績上位十名に与えられる紙が配られる。


 前回の反省から、いつも以上に真剣に取り組んだおかげで、社会、国語、理科の三教科で満点を取り、その他の教科も全体的に二学期よりいい成績を残せた。


「では、名前を読んだ人から紙を取りに来てくださいね。松山さん」

 梅原先生が緑依風の名を呼ぶ。


 緑依風は席に戻ると、恐る恐る折り畳まれた紙を開く。


 結果は、クラス、学年順位共に一位。


 赤と青の二つ並んだ『1』の文字に緑依風が胸を撫で下ろすと、斜め前にいた風麻が、彼女の安心した表情を見て、口パクと手の動きで、「一番か?」と聞いた。


 緑依風がにっこりと笑って頷くと、風麻はニッと歯を見せながらピースサインを送り、一位に返り咲いた緑依風を祝福した。


「(よかった……)」

 これならとりあえず、お母さんに叱られることは無い。


 そう思ったところで、緑依風はハッとあることに気付く。


「(私って、お母さんのために勉強してる……?)」

 正確には、母から自分を守るための勉強だ。


 母に叱られないために。

 自分の好きなことを堂々と楽しめるように――。


 *


 その夜。


 緑依風はなかなか読む気になれなかった、春ヶ﨑高校のパンフレットを手に取り、ぱらりと表紙を捲った。


 授業風景、文化祭や体育祭、レクリエーションなどの写真を眺めながら、自分がこの学校で過ごす姿を想像しようとするが、どうしても上手くイメージできない。


 先日、無事に海斗と同じ四季ヶ原高校に合格できたと教えてくれた海生は、苦手な勉強だらけの生活に耐え、本番で力を発揮できたのは、海斗と一緒に楽しく高校生活を送る自分を思い浮かべ、それが励みになったからだと語っていた。


 二人の成績は、比べようも無いくらい離れたものだったが、彼らは共に過ごすため、互いの学力の間の学校を選び、進学することになった。


 緑依風と風麻も、それぞれが今の成績に合う学校を選ぶとすれば、別々の道に進むことになるだろう。


 風麻の成績はお世辞にもいいとは言えない。

 そんな彼に、一緒に春ヶ﨑に来て欲しいなんて、言えるわけがない。


 風麻がいないかもしれない学校で、学力重視で競争の激しい環境の中、三年間を過ごす……。


「きっと、私は耐えられない……」

 部屋の中に、緑依風の独り言がぽつりと零れ、静かに消えた。


 *


 翌日になっても、緑依風の頭の中は進路のことで埋め尽くされていた。


 卒業式の練習時間になると、自分がもうすぐ最終学年になることをより意識してしまい、受験、自分が進みたい道、母の期待が交互に浮かんで、ため息ばかり出てしまう。


「……おばさんに何か言われたのか?」

 帰り道、緑依風の様子を心配していた風麻が、彼女が暗い顔ばかりしている理由を尋ねる。


「ううん、昨日は大丈夫だった。順位が戻ったから、怒られることも……」

 褒められることも無かった。


 最初の頃は嬉しそうにしてくれたのに、昨日は首位に立つのが当然であるような、素っ気ない態度だった。


 風麻は、思い詰めた表情の緑依風に掛ける言葉が見つからず、代わりに無言のまま彼女の頭に手のひらを乗せ、小さい子を慰めるようにそっと撫でる。


 緑依風は、不器用だが優しい彼の手の温かさが心地よくて、ちょっぴり安心したように笑みを浮かべ、「ありがと……」と言った。


「……ねぇ、風麻。私って、お母さんの何なんだろう?」

「え……?」

「私は、お母さんの子供……。でも、子供っていつまで子供なんだろう?」

「緑依風……」

「……怒られたくないなんて、ちっちゃい子みたいな理由で、本当のことを言えないまま体だけ大きくなって……。春ヶ﨑には行きたくない。本気でパティシエになりたいって……それだけのことすら言えないの……」

 例え成人しても、自分が松山葉子の娘で、彼女の子供であることは、この先永遠に変わらない。


 緑依風にとって、それはまるで、永遠に出ることのできない鳥籠に閉じ込められているような――呪いにも似たしがらみだ。


「……なぁ、緑依風」

 風麻が静かな声で話を切り出す。


「俺もさ、親に叱られるのは怖いし嫌いだ……」

「…………」

 緑依風がふっと顔を上げて、意外そうに見つめる。


「この間も、テストを母さんに見せるまでめっちゃドキドキしたし、もっと勉強しろって説教されてる間は、早く終わらねぇかな……って、心臓縮まってたし。でもさ、これが俺なんだよ」

「えっ?」

「親にどんなにキツく言われても、自分を変えるだなんて、何かきっかけが無いと無理だろ」

「…………!」

「緑依風のやりたいことが決まっているなら、それをおばさんにどう言われようと、緑依風は自分のために頑張ればいいじゃん。緑依風の人生は、緑依風だけのもんだ!」


 風麻がそう言ったのと同時に、花の香りを纏った春風が二人のそばを吹き抜ける。


 自分の人生は、自分だけのもの。


 彼の言葉に、緑依風の硬くて重い石のようになっていた心が揺れ動く。


「緑依風が俺にこうやって相談してきた時点で、緑依風の中で答えは決まってるんだろ?おばさんに、本当の気持ちを伝えたいって」

「うん……。でも、やっぱり怖いし……どうしたらいいかなって……っ」

 緑依風が胸の前でギュッと両手を握り、不安を漏らすと、「緑依風って、今までも親に本音で話したこと無いだろ?」と風麻が聞く。


「それはさすがに……?」

 ――と思ったが、言われてみれば確かに、親であろうと想いをそのまま伝えることより、顔色を伺いながら回りくどい言い方ばかりだった気がした。


「……な、無くないない、かも……」

「じゃあ、尚更ぶつけてみないとだな!」

 風麻がニカッと笑うと、緑依風もつられるようににっこりと口元に弧を作って頷いた。


「(そうだ……。もしかしたらお母さんは、私が本気じゃないと思ってるから、あんな風に厳しく言っていたのかもしれない)」


 親心なんてまだイマイチわからない緑依風だが、母は元々優しい人だった。


 風麻の言う通り、本音をしっかり伝えれば、きっと母も自分の夢をわかってくれる。


 母が決めた道ではなく、自分で決めた道を歩むことを温かな気持ちで見守ってくれるはず――。


 この時の緑依風は、そう信じていた。


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